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第二章

12.「Time」

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 夏休みに入って二週間が経った、八月頭の金曜。
 砂のない砂漠の街には、陽炎の踊り出す暑さが漂う。
 太陽の熱が降り注ぐ昼間のカフェには、オアシスを求める人々が群がっていた。
 店内には恐らくFMのラジオが流れ、紹介されたジャズが空気に溶けていた。
 私は待人を待つ間、店前の街路を移すガラス窓の横のステーブル席に掛けていた。
 ガラス窓の向こうでは、汗だくのサラリーマンが煩わしそうに襟元を揺らし、制服姿の高校生は小型の扇風機を持ち歩いていた。

 私は、カフェに入って一番安いアイスコーヒーを注文した。すぐに後悔した。
 砂漠を彷徨う魂を救う親切心か、客の回転を早めるための戦略か、店内は氷河期を回顧させるような冷房に冷やされていた。
 汗ばんでいた肌は瞬く間に乾き、気づけば身体の表面から熱を奪われていた。手先は痺れ、耳の奥にはキーンという金属音が鳴り続けている。
 そんな極限状態に差し迫っていると、目の前の椅子が引かれた。
「待たせたか?」
 竹刀袋を携えているシュッとした男は、今日の待人だった。
「……かなりな」
 私が渋い顔をして返すと、彼は鼻でフンと鳴らして笑った。
「それは悪うござんした」
 イガラシは竹刀を壁に立て掛け、向かいの椅子に座った。
「というか、寒いなここ」
「いや、寒くないぞ」
「寒いだろ」
「本当に寒くない。俺がアイスコーヒーを頼むぐらいだ」
「……お前、後悔してるだろ」
「うるさい」
 彼は「はいはい」と呆れたように笑いながら、店員を呼んだ。
「ホットコーヒーのレギュラーをふたつ」
「かしこまりました」
「あ、あとスプライトもひとつ」
「スプライトですね」
「よろしくお願いします」
 店員は忙しそうにキッチンに戻った。
「……どんな頼み方だよ」
 私がそう呟くと、イガラシは悪戯に瞳を細めて微笑んだ。
「だって、喉渇いてたんだよ」
「嘘つけ」
「バレたか」
 彼は肩をすくめて言った。

 イガラシは時々、腹の底が見えない。
 達観しているのか、諦めているのか、そもそもそういう性格なんだと思う。彼が見せる表情はいつも楽しげで、それでいてどこか冷めていた。
 私にとって、イガラシとマナカは長い付き合いになるが、二人の思考回路を捉えられている気はしない。それでも、なんとなくお互いを理解されている気味の悪い自負はあった。
「で、今日は何の用だ」
 イガラシは机に肘を突きながら訪ねた。
 グラスに入った氷が溶けて、水に変わり、周囲の水と徐々に混ざり合う。まだ残っている氷が移動してカランと鳴った。
 それを聞いてから、私は彼に目を合わせた。
「……お前、ラジオって聞くか?」
 流石に想定外の言葉だったのか、イガラシは目を少し丸くし、口元がわずかに動いた。
 それから何か納得したように薄く笑った。
「いや、生憎」
 彼は目を伏せながら首を横に振った。
「……そうか」
 私は小さく頷いた。
 
 ここのところ、私はシイナに言われたことを考えていた。
 ――このラジオは、誰が聞いているか。
 ハルカの声は、マナカの音は、時代を彩ったロックスターの名曲達は、世界のどこで響いているのだろう。
 夏の暑さに疲れ果てた街角で、私はその答えを模索し続けていた。
 
「それがどうしたんだ」
「いや、なんでもない」
 私の答えに、彼は首を傾げた。
「なんでもないことはないだろ。おおむね、お前がバイトしてるラジオ番組のことだろ」
「そんなことは、僕から口にした記憶がない」
 イガラシは呆れたようにため息をついた。
「なら、なんでそんなことを聞く?」
 私はその問いに答えることができなかった。
 どうしたいのか、何を聞きたいのかも整理できないままこの場に来てしまったので、言葉が上手く繋がらない。ただ、自分一人ではどうにもならないことだったから、を頼りに来たのだ。
「フクチ?」
「……ちょっと、相談したいことがある」
 私がやっと言葉を発すると、イガラシは眉を寄せた。
 しかし、彼はそこで私の話を遮って「待った」と言った。
「ちょっと待ってくれ。もう一人が来た」
 イガラシが指差すガラス窓の外を見た。
 ギターケースを背負った見慣れた顔の男が、こちらにアピールするように何度も大きくジャンプをしていた。
「……おい、イガラシ。あれマナカか?」
「元気だな」
「僕は知り合いじゃないフリをするぞ」
「ああ、俺もそうする」
 暫くすると、喧しい男の影は消えた。そして、カフェの扉に付いた鈴が鳴った後、ドタドタとした足音が近づいてきた。
「おい! フクチもイガラシもなんで無視すんだよ!」
「お、来たか」
 マナカがイガラシの横に座るのとほぼ同時に。盆を持ったウエイターが来た。
「失礼致します。こちらご注文の品になります」
 店員は丁寧に言って、二つのホットコーヒーとスプライトを置いた。
「ごゆっくり」
 そして、軽く頭を下げてから去って行った。
「はい。お前らの」
 イガラシはそう言って、手持ちのチップを掛けるように一つのカップとグラスを私たちの前に進めた。
「気が利くな。サンキュー!」
「……もらう」
 私は体の芯まで冷凍保存されかけていたので、恥を忍んで受け取った。イガラシは私とマナカの反応を聞いて、満足そうに腕を組んだ。
 コーヒーを啜ると、水に食紅を落とすようにして熱が全身に広がる。生気を取り戻す私を見て、イガラシは質問をしてきた。
「そういえば、フクチってバイト代何に使ってるんだ?」
「確かに!」
 二人が期待した目でこちらを見て言う。
「別に、何も」
「なんにも? お前何のために働いてんだ」
 マナカが驚いた顔をしている。
「僕もわからない」
「えぇ? 意味わかんねえ。金貯めて何か買ったりとかしないの?」
「別に必要なものがないしな」
「まぁいいだろ。誰もが誰も一万円もらったら一万円使うマナカみたいな人間ばかりじゃないしな」
「いや、俺は一万あったら二万のエフェクター買うぞ?」
 どうだと言わんばかりのマナカの様子を無視して、イガラシは諭す。
「ま、生きてりゃ使いどころが見つかるだろ」
「……使いどころなぁ」
 私の言葉が宙に浮くと、マナカが「じゃあ」と掴む。
「俺に投資してくれてもいいぞ」
「お前に投資して何が期待できるんだ?」
「夢!」
「マルチの勧誘なら他所でやってくれ」
「そういうことじゃねぇ!」
 賑やかな店内でも何人かが振り向くほど、マナカの大声は際立っていた。
 二人で漫才をしていると、イガラシはまた話題を戻した。
「で、フクチの相談は?」
「え、フクチなんか相談あんの?」
 二人は私に視線を向けた。
 次の私の言葉を期待して、じっと黙っている。
「……友人の話なんだが」
「誰の話だよ」
「まぁいい。続けろ」
 マナカの邪魔な合いの手をイガラシがどかして私に話すよう促す。
「そいつはラジオのスタッフのバイトをしていて」
「うん」
「最近、作家にならないかって言われて、番組の台本を書かせられたんだ。でも、提出した途端にボツにされたらしい。」
「そうか」
 あまり話を飲み込めていなそうなマナカを置いて、ほとんどイガラシと二人で話が進む。
「で、その友人はどうしたんだ?」
「諦め……かけてる」
 私は答えた。
 イガラシはコーヒーを口に運ぶ。
「え、てか、それフクチの話じゃ」
 マナカが言うと、イガラシが軽くマナカの足を蹴った。
「んで、その友人は『書きたい』と思ってるのか?」
 私は少し考えてから答えた。
「多分、書きたくないとは、思っていないと思う」
「……そうか」
「でも、プロデューサーに『聴き手を想像できていない』と言われた」
「なるほどな」
 イガラシがカップを置いて言う。
「だから、こうして取材して回ってると」
「……いや、僕じゃなくて友人の話な」
 危うく貶められそうになったので必死に釈明すると、イガラシは構うことなく「なぁ」とマナカに聞いた。
「なんだ?」
 マナカは既にスプライトを飲みきってグラスを空けていた。
「お前、ラジオ聞くか?」
「んあぁ。あんま聞かないかな」
 マナカはグラスを傾けて、氷を口に流し込みだした。
「あ、でもハルカとフクチの番組は聞いてるぞ。たまに曲流してもらってるし」
 ボリボリと氷を砕く音が煩わしい。
「……それはどうも」
「なるほどな。ただ、内部の人間からの意見だと、また話が変わってくるだろうしな」
 イガラシが言う。確かに一理ある言葉だった。
 千日手の空気がテーブル上に漂う。
 すると、ついに全ての氷までも食べきった様子のマナカが口を開いた。
「俺の父ちゃんとか、車使うこと多いからそん時聞いてると思うぞ」
「お前の厳つそうな親父には聞きに行けない」
「なんだよそれ」
「刺青入ってなかったか?」
「入ってねぇ! カタギだぞ」
 その時、イガラシが「そういえば」と閃いたように言った。
「フクチの父さんも、営業かなんかでよく車乗ってるって言ってたよな」
「え」
「あ、なんかそんな記憶あるわ!」
「おい。やめろ」
 悪ノリみたいな会話が最悪な方向に舵を切った。
「聞き込み先、決まったな」
 イガラシがニヤッと笑った。
「……勘弁してくれよ」

 ♪♪♪

 その日の暮れ。帰路に着くと自分の家がやけに薄暗いことに気が付いた。
 鍵を開けて家に入ると、リビングの灯りは点いておらず、父親の部屋だけから光が漏れているのが分かった。誰かと電話をしているような声がする。ほとんどの平日は夜遅くまで帰らなかったが、今日は例外らしい。
 私は電気を点けて、鞄を置く。それから、ソファに腰掛けると、居間に「華金なので、ママ友女子会でご飯食べてきます。お弁当買ってきたから、お父さんと食べてください」という母親の走り書きメモが残っていた。メモの脇には、スーパーの駅弁フェアで買ったらしき幕の内が置いてある。その横には、申し訳なさうなインスタント味噌汁も佇んでいた。
 湯沸かし器に水を入れてスイッチを押す。すると、扉の開く音と聞きたくない足音が響いた。
「おう、おかえり」
 振り向くと父親がいた。シャツにスラックス。仕事が終わってそのままの服装だった。
「……ただいま」
 聞こえるか聞こえないかの音で返事をする。
「もう飯食ったのか?」
「いや、今」
「そうか」
「うん」
 こういう工夫で沈黙が降りる。梅雨が開けたところで、私と父との関係に掛かった厚い雲が晴れることはない。とても、ラジオについてなど切り出せそうな雰囲気ではなかった。むしろ、最短最効率のコミュニケーションを駆使して会話を成立させる自分に感心すらするぐらいだ。
 弁当と即席の味噌汁を机に置いて座ると、父も向かいに座った。私は、気まずさを打ち消すためにテレビを点ける。いつもの暗いニュースがリビングの間をピッタリと埋める。
 私と父は冷たいままの弁当を黙々と食べ始める。

 テレビでは世界情勢について専門家が語っていた。自分にはどうしようもないソフトパワーとハードパワーの押し付け合いが映し出される。それを横目に箸を進めると、一品一品の塩気が強いはずの幕の内弁当がひどく無機質な食べ物に感じられた。
「最近はどうだ?」
 父が私に目を向けないまま聞く。
「何も」
 私は味噌汁に口をつける。また、沈黙が流れる。
「進路選びは何か進展あったか?」
 私にとって、「いや」としか返しようのない質問を投げてくる。父もそれを承知で聞いているように思えた。
「いや」
 私もきっと「そうか」としか返しようのない言葉で応える。
「そうか」
 俯瞰してみると、つまらない舞台の台本みたいな会話だった。この人の前だと自分の人格をどう取り繕えばいいのか分からなくなる。
 また沈黙が流れて、均衡を保つ秤のように張り詰めたままの時間が訪れる。きっと、私が進路について彼の望み通りの答えを出すか、気でも触れてなければ関係が好転することもないのだろう。しかし、不安定でも釣り合いが保持されている以上、その天秤を揺らすこと自体が、父親を不快にするかもしれないと思うと怖かった。
 父親は私よりも先に弁当の容器を空にして、「ごちそうさま」と言って立ち上がった。
 その時だった。父が「あ」と何かを思い出したように声を上げた。すると、スラックスのポケットをガサゴソと漁り、机上にいくつかのチョコレートを取り出した。
「これやる。営業先に貰ったんだ」
 父の言った「営業」という言葉で、私の耳がピクッと動いた。シイナに課された「宿題」をするのなら、昼にイガラシたちと話した「取材」をするのなら、今の、この状況の、この人しかないと思った。
「あのさ」
 私の声に父が振り向いて、驚きで目を大きくした。
「なんだ」
 なんでもない言葉が心臓を掴むように、私をギュンと締め付ける。唇が震えて、脇腹に汗が滴る。
 きっとハルカならば、もっと流れるように言葉を産み、自分の感情と企図を乗せて伝えられるのだと思う。親とも上手くやっているのだろう。
 私はハルカにはなれない。なりたくもないが。ただ、それでも私なりに、彼女を倣うようにして、必死に言葉を探した。
「……営業の時とかって、車でラジオとか聴いてる?」
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