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第二章
11.「Barracuda」
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週末の放送後、スタジオはさながら野戦病院のようになっていた。
私もハルカもソファにピッタリと背中をつけて倒れていたのだから。
「いい顔してるわね。二人とも」
ナイチンゲールの笑顔を振り撒いてシイナは言った。
私が血涙を流して書き上げた原稿を、「ボツ」の一言で突き返した人間には見えなかった。
後片付けをあらかた済ませた彼女は、ソファの背に肘を置いた。
「フクチ君のリベンジはまだかしら」
嫌らしいアイロニーにも、純粋な問いかけにも取れるようなことを言った。
「私にも読ませてよ。フクチの処女作」
「きっとこれからリライトして抜群のものになるから待ってなさい」
二人して勝手なことを続けている。
「僕は、心も筆も折れたので」
私がそう返すと、シイナはふふと鼻を使って笑った。
「でも着眼点は面白かったと思うわよ。構成と内容とまとまりに問題があるだけで。あと……」
「もう結構です」
私の眉間の皺を見て、彼女はまたふふと笑った。
この人のことは一生涯をかけても理解できないと思わせるような笑みだった。
「ハルカはタテヤマさんのオファーはもう無理そうなの?」
倒れた兵士に応えはない。
「諦めたらどうですか」
と私が問いかけても暫く沈黙は続き、
「……貴方って、私に嫌味言う時だけ敬語になるよね」
彼女は睨みを利かせて言った。
他者に癖を指摘されたことで面映ゆくなって私もなんとなく黙した。
それから、彼女は華奢な体をやにわに起こして言った。
「今日でラスト。ダメならそこまで」
屈託のない彼女の顔を、私はまた羨ましいと思った。
その時、私は口を衝いて「あのさ」と言った。
「僕も行っていい?」
そんな言葉が怖気もなく自分の口から出たのが驚きだった。
ハルカはそれ以上に驚いた様子で私の顔を見て「どうしたの珍しい」と言った。
「その、ファンだったから。スーパーノヴァの」
彼女は「ふうん」と言ってから、ムカつくにやけ顔になった。
「じゃあ行くぞ。フクチ」
「気張れ。若者たちよ」
私達は肉が千切れそうなほどシイナに肩を強く揉まれた。
「あ、それからフクチ君。帰ったら鞄見てね」
その言葉に私は低気圧のような嫌な予感を受け取った。
その暮れ、ハルカと私はスタジオから四駅離れた怪しげなバーの前に立っていた。
今どき酒場か遊戯場か娼家ぐらいしか使っていないような、艶かしいネオンがチカチカと照り、私は気分が悪くなった。
「本当にここで合っているの?」
「おやおや、怖気付いたのかしら」
「……やっぱりサインだけ貰ってきてくれないか?」
彼女は溜息を大きく吐いて、宵に繋がる暗い地下階段を降りた。
それから、こちらの心の準備も待たずに、その夜の扉を開いた。
暗い店内に入ると、その場は籠った騒がしさに溢れていた。
いくつかのテーブルとバーカウンターがあり、その頭上には大きなモニターが何台も設置されていた。
そこで流されるフットボールの映像や客の装いから見るに、ここはスポーツバーと呼ばれるものであることが分かった。
「やぁハルカちゃん」
「こんばんはマスター」
ハルカはなぜか慣れた様子で会釈をして店内を進んだ。
「貴女、まさかこんなとこに入り浸ってるんですか?」
「来たくて来てるわけじゃないわよ」
彼女は眉間に皺を寄せ、小さく不機嫌な声で返した。
「マスター、タテヤマさんは?」
店長と思しき黒ベストを着た男性はグラスを磨きながら顎で方向を示した。
その向きの先、よく磨かれたカウンターの隅でグラスをもつ浮浪者のような男がいた。
昔から身につけている丸フレームのサングラスを除き、私の記憶の中にいるスターの彼とはかけ離れた姿だった。
そんなことを思っていると、横でハルカは深く息をつき顔をバチンッと叩いた。
この所作が彼女にとってネクタイを正すようなルーティーンなのだろう。
それからコツンコツンと男に近づいた。
「タテヤマさん、こんばんは。ご機嫌いかがですか」
ハルカは淑女のように彼に接触を試みた。
男は何も応えず、画面の中で赤と水色のユニフォームが芝生を駆け回るのを蕩けた眼で眺めていた。
彼女はそれでも眉毛を動かさず話を続けた。
「今日もシティは負けているんですか」
男はやっとこちらの方を一目して聞こえるように舌打ちをした。
「帰れ」
そう言って彼は、黄金色の飲み物が入ったグラスを乱暴に机に置いた。
机の水滴を見るに、しばらく前からここで飲んでいたのだろう。
「この前の企画の話は考えていただけましたか」
ハルカは話を続ける。
男は開いた目をハルカに向け「いいか」と釘を刺すように言った。
「俺は、ケツの青いガキの話には興味がない」
その言葉を聞いて、いつかのフルタもそんな言葉で私たちを蔑んでいたのが想起された。
なぜ横柄な大人は私たちの臀部をすぐ青くしたがるのだろう。
そうして男はまた、フットボール観戦と酒に無心した。
ハルカは半分呆れるように、半分次の策を模索するようにシビアな顔で黙っていた。
かくいう私は、帰りたい気持ちをいっぱいにして店の入り口の方向に体の重心を向けていた。
フットボールの試合はハーフタイムに入ったようで、フットボール絡みのコマーシャルが流れ出した。
沈黙の中で男のグラスの氷だけが弾丸よりも速く、ゆっくりと溶けていくようだった。
モニターではここまでのプレーを振り返る映像が流れた。
その時、男はなぜか逃げるように目線を画面から水杯に移した。
「もう一度言う。帰れ」
男は言った。
「今日は帰りません」
洒落た音楽に乗せて、切り抜かれたファインプレーが映し出される。
映像に合わせて流れているサッカーリーグのこのテーマ曲は、彼の兄のバンドのものであった。
「貴方が再始動して新曲を出して、ラジオでプロモーションをするんです」
「嫌だね」
「どうしてですか?」
タテヤマは「はぁ」と大きくため息を吐いた。
ハルカは屈せず、オニカマスのように鋭い歯をもってしがみついていた。
それから、男はその苛立ちを韻を踏むようにして表した。
「俺がクソ地方の、クソガキの、クソラジオに出るわけがないだろ」
その瞬間、ハルカは両手を机にバンと叩きつけた。
「いい加減にしてくださいよ」
タテヤマのサングラス越しのギロっとした目に、彼女は真っ直ぐに向かった。
周りの客の何人かが動揺してこちらを向いていたが、彼女には関係のないことだった。
「恐れているんですか」
「何がだ」
「ステージに立つのが。当事者になるのが」
淡々と言葉を繋げていく。
ハルカがここまで強くこの男に立ち掛かっていられるのは、フルタの影響するところが大きいのだろう。
「過去の栄光に縋って、綺麗なままでありたいからもう歩くことをやめたんですか?」
彼女は諭すように、挑発をするように捲し立てる。
その表情は激情と怒りが混ざったものに見えた。
「バカにしているのか」
「まさか」
タテヤマは彼女の目を寸秒睨んだ。
「お前に落ちぶれた奴の気持ちがわかるわけがねぇだろ」
そして、氷塊のすっかり溶けたグラスに目を戻した。
「結局曲を書けるやつがいねぇと売れねぇんだ」
店の音にかき消されそうなほど弱く、言葉は放たれた。
なんとなく、彼の怒りだとか横暴さの根源が哀しさにあるような気がして、堪えきれなくなって、私は声を出していた。
「でも僕、貴方の書いた曲が好きですよ」
タテヤマは面食らった顔で私の方を向いて言葉を失っていた。
それから、「スーパーノヴァの曲で一番」と付け足した。
彼は私のことを人形とでも思っていただろうから、反応に困った様子でいた。
タテヤマは無言で立ち上がって、いよいよ店を出て行こうとした。
その背中に向けて、ハルカは通る声で言った。
「ちょっとは分かりますよ。落ちぶれた奴の気持ちなら」
燃えるような瞳で少し口角を上げた。
「落ちぶれたラジオのクソガキですから」
♪♪♪
タテヤマと対峙した翌々日の週明け。
私はいつかぶりにシイナに呼び出され、局の五〇五スタジオに来ていた。
四ヶ月も通うと、地下鉄の駅からの道のりを体が覚えていた。
重たい扉を開けると、そこにはノートパソコンを広げて彼女が鎮座していた。
「やあ少年」
「……こんにちは」
「突然だけど、フクチ君さ。あっち座ったことあったっけ?」
シイナの言う「あっち」は、ラジオブースを指していた。
「いえ。入ったことはありますけど」
「そっか」
シイナはパソコンと資料を傍に抱えて立ち上がり、ブースへの厚い扉を開いた。
「どうぞ」
「え」
「いいから」
彼女は戸惑う私を促し、ハルカの特等席に座らせ、自分もその向かいに座った。
彼女の椅子は私には少し低かった。
「どう? ご感想は」
シイナに聞かれて、私は部屋中を見渡した。
アーム式のマイクに年季の入ったカフ、木目調の壁が黄色いシーリングライトに照らされて光る。
窓が無いブースの中は想像よりもずっと閉鎖的で、冷たいアクアリウムの中にいるようだった。
「なんていうか、孤独ですね」
彼女は「ふふ」と笑ってから「あの子はすごいんだよ」と言った。
それから、クリップで留められた紙束を机に置いた。
「はいこれ。遅れてごめんね」
「これなんですか」
「何って、君の原稿。添削済みのね」
それを凝視すると、間隔を置いてプリントされた黒テキストと、そこに引かれた夥しいほどの赤が目に入った。
「ボツのですか」
「そうね」
「もう書けないですよ、きっと僕」
私が濁った目と弱々しい声で返すと、シイナは薄く笑って「そっか」言った。
それから、彼女は虚空を見つめながら両手を組み、何か考える様子を見せた。
このブースで生まれる沈黙は、他の全ての場所でのそれとは全く違う意味を持っているような気がした。
「私さ。フルタくんに憧れてこの世界に来たんだ」
シイナは視線を宙に浮かせたまま語り出した。
「あ、イシイくんもらしいけど」
私が怪訝そうに「そうですか」と言うと、彼女は「うんうん」と言ってまた続けた。
「大学の時にあの人のラジオ聞いてさ、ラジオって面白いんだって思ってね」
彼女は何十キロも先を見つめるような目で頬杖をついた。
「そっから行動に移さないと気が済まなかったから、局に来てさ」
「押しかけたんですか?」
「そうそう。若気の至りだね」
「いや、普通に迷惑じゃ」
シイナは「そんなことはいいんだけど」と遮った。
「あの時のエネルギーっていうのは何にも替え難いものだと思う。何かを変える。革命を起こす」
「……エネルギーですか」
「そう。それで、そんな輝きをあの子やバンドの彼らから感じて」
彼女は遠くに合わせていた焦点を目前の私に合わせる。
「君からも感じた」
シイナはピンと伸ばした人差し指を私に向けた。
「ただ、君たちはもっともっと持ってる。強さも賢さも、何より熱さを。だからこの番組を任せた」
彼女の顔は至って真面目だった。
「ま、私の力不足で打ち切りになりかけちゃったけどね」
「あれは……避けられたのが不思議なぐらいだと思いますけど」
私がそう言うと彼女は「そうね」と意味のありそうな相槌を打った。
「実際、娯楽としてラジオを見ると下がる一方よ。こればっかりはしょうがないけどね」
世間話みたいに話す言葉は、ラジオのディレクターの言葉として捉えると、どこまでも重たいものだった。
「だから、君たちをここで縛るつもりなんかない。好きな道に進んでほしい。だけど、きっとこの時間は君たちにとって有益なものになる」
シイナはまた笑った。
「そう思って君も迎え入れたんだ」
彼女の口から出る言葉はドラマみたいに眩しくて青くて臭いものだった。
そのどれもが、直接「私」に向けられることが初めてで、私はただ黙ってその声に貫かれていた。
「どう? リベンジする?」
シイナは机上の資料をもう一度ポンと持ち上げてから落とした。
それは彼女の挑発にも見えた。その提案を降りて負けるのも、受けて負けるのも私には癪だった。
だから、私は、コクリと小さく頷いた。
それを見て彼女はニッと笑った。
「ところで、私がなぜ君の原稿をボツにしたか分かるかい?」
「……つまらなかったからじゃ?」
「ううん」
「君の着眼点と言葉にはセンスがある。私が保証しよう」
「じゃあ何が」
私がそう尋ねると、彼女はブースの机を人差し指でコツコツと叩いた。
「この番組、誰が聞いてると思う?」
「誰って……」
「じゃあ、はい」
彼女はそう言うと、両手をパンと大きく叩いた。
「目を閉じて」
「……目ですか?」
「いいから」
私は言われるがままに両目を閉じて下を向いた。
「ここは五〇五スタジオ、ブースにはハルカがいる」
シイナの声が聞こえる。
「はい」
「その音はどこに行く?」
「どこ……」
私の頭の中には漠然としたイメージが小さく流れた。
喫茶店や工場や車の中。全く具体性のないフリー素材みたいな光景だけが浮かんでは泡沫に消える。
そうして黙っているとシイナはまたパンと大きく手を叩いた。
「これは、宿題ね」
彼女は、赤ペンまみれの資料を私の方に近づけた。
「いつ、どこで、誰が、どうして、どうやって聞いているか」
言葉に合わせて彼女の五本の指は順番に折られていく。
それから、その指が一本立った。
「一人に刺さなきゃ、誰にも刺せないよ」
ピンと伸びた綺麗な指は、幾つもの番組を司ってきた人の指だった。
「じゃ、期待してるよ」
「……はい」
シイナは立ち上がり、扉を開いてまた私を促した。
私は厚い資料の束を持って五〇五スタジオを後にした。
スタジオから廊下、エレベーターからフロント、局から街路。
ブースを出てからの帰路は、映画を見た後のように別の世界から戻ったようだった。
日没前の街は、一日から解放された安堵と明日への不安が流れていた。
誰もが現在への滞在と変化への憧憬に揺れている。
私は、それを見てやおら携帯を取り出した。
それから、見知った番号に電話を掛けていた。
「よお。フクチからなんて珍しいな」
「……あのさ、イガラシ。今週空いてる日あるか?」
私もハルカもソファにピッタリと背中をつけて倒れていたのだから。
「いい顔してるわね。二人とも」
ナイチンゲールの笑顔を振り撒いてシイナは言った。
私が血涙を流して書き上げた原稿を、「ボツ」の一言で突き返した人間には見えなかった。
後片付けをあらかた済ませた彼女は、ソファの背に肘を置いた。
「フクチ君のリベンジはまだかしら」
嫌らしいアイロニーにも、純粋な問いかけにも取れるようなことを言った。
「私にも読ませてよ。フクチの処女作」
「きっとこれからリライトして抜群のものになるから待ってなさい」
二人して勝手なことを続けている。
「僕は、心も筆も折れたので」
私がそう返すと、シイナはふふと鼻を使って笑った。
「でも着眼点は面白かったと思うわよ。構成と内容とまとまりに問題があるだけで。あと……」
「もう結構です」
私の眉間の皺を見て、彼女はまたふふと笑った。
この人のことは一生涯をかけても理解できないと思わせるような笑みだった。
「ハルカはタテヤマさんのオファーはもう無理そうなの?」
倒れた兵士に応えはない。
「諦めたらどうですか」
と私が問いかけても暫く沈黙は続き、
「……貴方って、私に嫌味言う時だけ敬語になるよね」
彼女は睨みを利かせて言った。
他者に癖を指摘されたことで面映ゆくなって私もなんとなく黙した。
それから、彼女は華奢な体をやにわに起こして言った。
「今日でラスト。ダメならそこまで」
屈託のない彼女の顔を、私はまた羨ましいと思った。
その時、私は口を衝いて「あのさ」と言った。
「僕も行っていい?」
そんな言葉が怖気もなく自分の口から出たのが驚きだった。
ハルカはそれ以上に驚いた様子で私の顔を見て「どうしたの珍しい」と言った。
「その、ファンだったから。スーパーノヴァの」
彼女は「ふうん」と言ってから、ムカつくにやけ顔になった。
「じゃあ行くぞ。フクチ」
「気張れ。若者たちよ」
私達は肉が千切れそうなほどシイナに肩を強く揉まれた。
「あ、それからフクチ君。帰ったら鞄見てね」
その言葉に私は低気圧のような嫌な予感を受け取った。
その暮れ、ハルカと私はスタジオから四駅離れた怪しげなバーの前に立っていた。
今どき酒場か遊戯場か娼家ぐらいしか使っていないような、艶かしいネオンがチカチカと照り、私は気分が悪くなった。
「本当にここで合っているの?」
「おやおや、怖気付いたのかしら」
「……やっぱりサインだけ貰ってきてくれないか?」
彼女は溜息を大きく吐いて、宵に繋がる暗い地下階段を降りた。
それから、こちらの心の準備も待たずに、その夜の扉を開いた。
暗い店内に入ると、その場は籠った騒がしさに溢れていた。
いくつかのテーブルとバーカウンターがあり、その頭上には大きなモニターが何台も設置されていた。
そこで流されるフットボールの映像や客の装いから見るに、ここはスポーツバーと呼ばれるものであることが分かった。
「やぁハルカちゃん」
「こんばんはマスター」
ハルカはなぜか慣れた様子で会釈をして店内を進んだ。
「貴女、まさかこんなとこに入り浸ってるんですか?」
「来たくて来てるわけじゃないわよ」
彼女は眉間に皺を寄せ、小さく不機嫌な声で返した。
「マスター、タテヤマさんは?」
店長と思しき黒ベストを着た男性はグラスを磨きながら顎で方向を示した。
その向きの先、よく磨かれたカウンターの隅でグラスをもつ浮浪者のような男がいた。
昔から身につけている丸フレームのサングラスを除き、私の記憶の中にいるスターの彼とはかけ離れた姿だった。
そんなことを思っていると、横でハルカは深く息をつき顔をバチンッと叩いた。
この所作が彼女にとってネクタイを正すようなルーティーンなのだろう。
それからコツンコツンと男に近づいた。
「タテヤマさん、こんばんは。ご機嫌いかがですか」
ハルカは淑女のように彼に接触を試みた。
男は何も応えず、画面の中で赤と水色のユニフォームが芝生を駆け回るのを蕩けた眼で眺めていた。
彼女はそれでも眉毛を動かさず話を続けた。
「今日もシティは負けているんですか」
男はやっとこちらの方を一目して聞こえるように舌打ちをした。
「帰れ」
そう言って彼は、黄金色の飲み物が入ったグラスを乱暴に机に置いた。
机の水滴を見るに、しばらく前からここで飲んでいたのだろう。
「この前の企画の話は考えていただけましたか」
ハルカは話を続ける。
男は開いた目をハルカに向け「いいか」と釘を刺すように言った。
「俺は、ケツの青いガキの話には興味がない」
その言葉を聞いて、いつかのフルタもそんな言葉で私たちを蔑んでいたのが想起された。
なぜ横柄な大人は私たちの臀部をすぐ青くしたがるのだろう。
そうして男はまた、フットボール観戦と酒に無心した。
ハルカは半分呆れるように、半分次の策を模索するようにシビアな顔で黙っていた。
かくいう私は、帰りたい気持ちをいっぱいにして店の入り口の方向に体の重心を向けていた。
フットボールの試合はハーフタイムに入ったようで、フットボール絡みのコマーシャルが流れ出した。
沈黙の中で男のグラスの氷だけが弾丸よりも速く、ゆっくりと溶けていくようだった。
モニターではここまでのプレーを振り返る映像が流れた。
その時、男はなぜか逃げるように目線を画面から水杯に移した。
「もう一度言う。帰れ」
男は言った。
「今日は帰りません」
洒落た音楽に乗せて、切り抜かれたファインプレーが映し出される。
映像に合わせて流れているサッカーリーグのこのテーマ曲は、彼の兄のバンドのものであった。
「貴方が再始動して新曲を出して、ラジオでプロモーションをするんです」
「嫌だね」
「どうしてですか?」
タテヤマは「はぁ」と大きくため息を吐いた。
ハルカは屈せず、オニカマスのように鋭い歯をもってしがみついていた。
それから、男はその苛立ちを韻を踏むようにして表した。
「俺がクソ地方の、クソガキの、クソラジオに出るわけがないだろ」
その瞬間、ハルカは両手を机にバンと叩きつけた。
「いい加減にしてくださいよ」
タテヤマのサングラス越しのギロっとした目に、彼女は真っ直ぐに向かった。
周りの客の何人かが動揺してこちらを向いていたが、彼女には関係のないことだった。
「恐れているんですか」
「何がだ」
「ステージに立つのが。当事者になるのが」
淡々と言葉を繋げていく。
ハルカがここまで強くこの男に立ち掛かっていられるのは、フルタの影響するところが大きいのだろう。
「過去の栄光に縋って、綺麗なままでありたいからもう歩くことをやめたんですか?」
彼女は諭すように、挑発をするように捲し立てる。
その表情は激情と怒りが混ざったものに見えた。
「バカにしているのか」
「まさか」
タテヤマは彼女の目を寸秒睨んだ。
「お前に落ちぶれた奴の気持ちがわかるわけがねぇだろ」
そして、氷塊のすっかり溶けたグラスに目を戻した。
「結局曲を書けるやつがいねぇと売れねぇんだ」
店の音にかき消されそうなほど弱く、言葉は放たれた。
なんとなく、彼の怒りだとか横暴さの根源が哀しさにあるような気がして、堪えきれなくなって、私は声を出していた。
「でも僕、貴方の書いた曲が好きですよ」
タテヤマは面食らった顔で私の方を向いて言葉を失っていた。
それから、「スーパーノヴァの曲で一番」と付け足した。
彼は私のことを人形とでも思っていただろうから、反応に困った様子でいた。
タテヤマは無言で立ち上がって、いよいよ店を出て行こうとした。
その背中に向けて、ハルカは通る声で言った。
「ちょっとは分かりますよ。落ちぶれた奴の気持ちなら」
燃えるような瞳で少し口角を上げた。
「落ちぶれたラジオのクソガキですから」
♪♪♪
タテヤマと対峙した翌々日の週明け。
私はいつかぶりにシイナに呼び出され、局の五〇五スタジオに来ていた。
四ヶ月も通うと、地下鉄の駅からの道のりを体が覚えていた。
重たい扉を開けると、そこにはノートパソコンを広げて彼女が鎮座していた。
「やあ少年」
「……こんにちは」
「突然だけど、フクチ君さ。あっち座ったことあったっけ?」
シイナの言う「あっち」は、ラジオブースを指していた。
「いえ。入ったことはありますけど」
「そっか」
シイナはパソコンと資料を傍に抱えて立ち上がり、ブースへの厚い扉を開いた。
「どうぞ」
「え」
「いいから」
彼女は戸惑う私を促し、ハルカの特等席に座らせ、自分もその向かいに座った。
彼女の椅子は私には少し低かった。
「どう? ご感想は」
シイナに聞かれて、私は部屋中を見渡した。
アーム式のマイクに年季の入ったカフ、木目調の壁が黄色いシーリングライトに照らされて光る。
窓が無いブースの中は想像よりもずっと閉鎖的で、冷たいアクアリウムの中にいるようだった。
「なんていうか、孤独ですね」
彼女は「ふふ」と笑ってから「あの子はすごいんだよ」と言った。
それから、クリップで留められた紙束を机に置いた。
「はいこれ。遅れてごめんね」
「これなんですか」
「何って、君の原稿。添削済みのね」
それを凝視すると、間隔を置いてプリントされた黒テキストと、そこに引かれた夥しいほどの赤が目に入った。
「ボツのですか」
「そうね」
「もう書けないですよ、きっと僕」
私が濁った目と弱々しい声で返すと、シイナは薄く笑って「そっか」言った。
それから、彼女は虚空を見つめながら両手を組み、何か考える様子を見せた。
このブースで生まれる沈黙は、他の全ての場所でのそれとは全く違う意味を持っているような気がした。
「私さ。フルタくんに憧れてこの世界に来たんだ」
シイナは視線を宙に浮かせたまま語り出した。
「あ、イシイくんもらしいけど」
私が怪訝そうに「そうですか」と言うと、彼女は「うんうん」と言ってまた続けた。
「大学の時にあの人のラジオ聞いてさ、ラジオって面白いんだって思ってね」
彼女は何十キロも先を見つめるような目で頬杖をついた。
「そっから行動に移さないと気が済まなかったから、局に来てさ」
「押しかけたんですか?」
「そうそう。若気の至りだね」
「いや、普通に迷惑じゃ」
シイナは「そんなことはいいんだけど」と遮った。
「あの時のエネルギーっていうのは何にも替え難いものだと思う。何かを変える。革命を起こす」
「……エネルギーですか」
「そう。それで、そんな輝きをあの子やバンドの彼らから感じて」
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「君からも感じた」
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「ただ、君たちはもっともっと持ってる。強さも賢さも、何より熱さを。だからこの番組を任せた」
彼女の顔は至って真面目だった。
「ま、私の力不足で打ち切りになりかけちゃったけどね」
「あれは……避けられたのが不思議なぐらいだと思いますけど」
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「実際、娯楽としてラジオを見ると下がる一方よ。こればっかりはしょうがないけどね」
世間話みたいに話す言葉は、ラジオのディレクターの言葉として捉えると、どこまでも重たいものだった。
「だから、君たちをここで縛るつもりなんかない。好きな道に進んでほしい。だけど、きっとこの時間は君たちにとって有益なものになる」
シイナはまた笑った。
「そう思って君も迎え入れたんだ」
彼女の口から出る言葉はドラマみたいに眩しくて青くて臭いものだった。
そのどれもが、直接「私」に向けられることが初めてで、私はただ黙ってその声に貫かれていた。
「どう? リベンジする?」
シイナは机上の資料をもう一度ポンと持ち上げてから落とした。
それは彼女の挑発にも見えた。その提案を降りて負けるのも、受けて負けるのも私には癪だった。
だから、私は、コクリと小さく頷いた。
それを見て彼女はニッと笑った。
「ところで、私がなぜ君の原稿をボツにしたか分かるかい?」
「……つまらなかったからじゃ?」
「ううん」
「君の着眼点と言葉にはセンスがある。私が保証しよう」
「じゃあ何が」
私がそう尋ねると、彼女はブースの机を人差し指でコツコツと叩いた。
「この番組、誰が聞いてると思う?」
「誰って……」
「じゃあ、はい」
彼女はそう言うと、両手をパンと大きく叩いた。
「目を閉じて」
「……目ですか?」
「いいから」
私は言われるがままに両目を閉じて下を向いた。
「ここは五〇五スタジオ、ブースにはハルカがいる」
シイナの声が聞こえる。
「はい」
「その音はどこに行く?」
「どこ……」
私の頭の中には漠然としたイメージが小さく流れた。
喫茶店や工場や車の中。全く具体性のないフリー素材みたいな光景だけが浮かんでは泡沫に消える。
そうして黙っているとシイナはまたパンと大きく手を叩いた。
「これは、宿題ね」
彼女は、赤ペンまみれの資料を私の方に近づけた。
「いつ、どこで、誰が、どうして、どうやって聞いているか」
言葉に合わせて彼女の五本の指は順番に折られていく。
それから、その指が一本立った。
「一人に刺さなきゃ、誰にも刺せないよ」
ピンと伸びた綺麗な指は、幾つもの番組を司ってきた人の指だった。
「じゃ、期待してるよ」
「……はい」
シイナは立ち上がり、扉を開いてまた私を促した。
私は厚い資料の束を持って五〇五スタジオを後にした。
スタジオから廊下、エレベーターからフロント、局から街路。
ブースを出てからの帰路は、映画を見た後のように別の世界から戻ったようだった。
日没前の街は、一日から解放された安堵と明日への不安が流れていた。
誰もが現在への滞在と変化への憧憬に揺れている。
私は、それを見てやおら携帯を取り出した。
それから、見知った番号に電話を掛けていた。
「よお。フクチからなんて珍しいな」
「……あのさ、イガラシ。今週空いてる日あるか?」
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