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第二章

10.「Born to Run」

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 七月最終週の放送終了後。
 五〇五スタジオの木目テーブルが暖色の電気を返して光る。
 その部屋の一角で、ハルカは偏頭痛患者のように頭を抱えていた。
 近頃の彼女の渋い顔があまりに不憫だったので、撤収作業中の私は、気さくに声を掛けることにした。
ですか?」
「……貴方の世界を終わらせてあげようか?」
 彼女は寄った眉間のしわをそのまま顔を私に向けた。
 
 それからの沈黙は、シイナとミヤモトが機材やらを片付けるノイズが間を埋めていた。
 そして、彼女は前に教室でも聞いたような長い溜息を吐いた。
「難航してるのよ」
 何の修飾語もない切り出しに、私の口が開く。
「何がですか?」
「スカウトに行ってきたの」
「スカウト、って誰を?」
を」
「どのスターだよ」
 とにかく彼女の虫の居所が大変悪いことだけは汲み取れたので、私はいつかに立ち読みした自己啓発本の言う通り「傾聴」に努めた。
 すると彼女は「チッ」と舌を鳴らして激した。自己啓発本というものは到底信用に値しない。
 私が会話を諦め、机を拭いた布を片付けに行こうとしたところで、彼女はぼそっと漏らすように言った。
「……タテヤマ」
「どちらの?」
「スーパーノヴァの」
 そこまで言って、彼女はソファに滑るように崩れていった。
 
 スーパーノヴァは、今から二十年ほど前に一斉を風靡したロックバンドだ。
 兄の書くメロディアスでキャッチーな曲と、弟のパワフルで荒々しいボーカルを武器にロックファンの注目を集めた。しかし、彼らが「ロックスター」とされる所以は、作品の評価のみに留まらない。他のアーティストやメディアに対する口撃や、スキャンダラスな言動で世間を賑わせ、社会の中心にいた
 というのも、彼らが輝きを放っていたのは私に物心がつくずっと前だったから、記録の中でしか彼らを語れない。
 ただ、いつも父の車には傷だらけの彼らのベスト盤が置かれていたから、私はスーパーノヴァの曲を知っていたし、好んで聞いていた。
 
「どうしてスーパーノヴァに行ったの?」
「言ったじゃない。スターが好きって」
 終業式後の教室でのやり取りを思い出す。
「確かにずっと前はスーパースターだったらしいけど……というか、兄は今もスターか」
 私が一人で腹に落とそうと努力していると、彼女はチッチッと言わんばかりに人差し指を立てて揺らし「分かってないね」と言った。
「名前がスターじゃない」
「……超新星スーパーノヴァってこと?」
 彼女がしたり顔になったので、思わず反射で「やかましいわ」と言いそうになった。関西の血が流れていないことを思い出してグッと堪えた。
「それと、私が交渉したのは弟の方よ」
「弟? まだ活動してるんだ」
「最近は、半ば浮浪者みたいになってるけどね」
 スーパーノヴァは十年も前に解散をしていた。その原因は、バンドの中心であるタテヤマ兄弟の不仲であったとされている。
 解散後、タテヤマの兄は組み直したバンドで再度成功を収めていたが、弟はうだつが上がらない時期が続き、やがてメディアで彼の話を聞かなくなった。
「……というか、あの兄弟って素行過激なことで有名じゃなかった?」
 彼女は「そう!」と両手を机につき、前のめりになりながら言った。
「態度デカいし言葉も汚いし、あそこまでとは思わなかった!」
 彼女の作った握りこぶしに溜まった鬱憤が詰まっていた。
「しかも待ち合わせバーとかに指定してくるんだよ? こっちは未成年っちゅうねん!」
 台を叩く彼女の中の関西人の血は、活きているようだった。

 それからもうなり続けるハルカの横で、私は今日の放送内容の記事を書いていた。
 向かいで、シイナがシルバーのノートパソコンをタコの触手のように滑らかに叩く。
「そういえばフクチ君。君がホームページで書いてくれてるブログ、評判いいわよ」
 シイナが視線を自分の画面に残したまま言った。
「……そうなんですか」
「あら、コメントとか見てないの?」
「そりゃあ、自分の書いたものが酷評されてたら、怖いですし」
 シイナは「そんなことないわよ」と笑ってコーヒーを口に運んだ。彼女の瞳と同じぐらい澄んだブラックだった。
 私自身も記事を書く作業にあまり抵抗はなかった。
 当初は前任のイシイが書いていたものを真似ていた。それでも、本当に少しずつ、何を書くべきなのか、何を求められているのが分かっているような気がしていたからだ。
 私は、それが驕りだったとしても構わないとさえ思っていた。勿論、怒られるのは怖いので反応は見ていない。
 
 それからはシイナのキーボードを叩く音と、横の小動物の微かな断末魔だけがスタジオに在った。断末魔が途絶えそうなほど細いかすれ声になったころ、シイナが「ところでさ」とパソコンを閉じ、口を開いた。
「フクチ君さ、この番組のやってみない?」
 思いもよらない提案だった。
 シイナは言葉を続けた。
「現状さ、この番組、作家が不在じゃない? だから、私が書いてるけど、私も番組掛け持ちしてるからさ。、疲れちゃった」
 彼女は「おばさん」という言葉が、きっと自分に一番相応しくないと十分理解しているから、それを使っているのだろう。
「……嫌です」
 私はありのままの本心を伝えた。
「どうして?」
「どうしてって、絶対無理だからです」
「いつも作家みたいに立派なペン持ち歩いてるし、大丈夫よ」
 彼女は私の手帳に付いた万年筆を指差した。
 横で突っ伏したままのハルカが、「それ高そうだよね」と言っていた気がしたが、きっと気のせいだ。
 私はなんとか断る口実を生み出そうと、必死に考えを巡らせながら返した。
「何書いていいかもわからないですし」
「教えてあげるわよ」
「二十年も続く番組を訳の分からない青二才が書くなんて」
「今だからこそ書けるものがあるんじゃない。それを逃すのは勿体無いわよ」
 シイナは「それに」と付け足す。
「どうせスポンサーに切られるかどうかの危険な綱渡りの番組よ。ダメで元々」
「それは……」
「どう? この縄一緒に渡らない?」
 シイナとの会話はチェスのようだと思った。こちらが狼狽うろたえていると、あれよあれよと言葉の駒が攻め込んできて逃げ場を失う。政治家や検察の方が天職だったのではないかとすら思った。
 脱出用の非常口を探す私を、シイナは逃さないといわんばかりの目でじっと捉える。
 それから、彼女の顔つきが少しだけ締まって言った。
「それとも、当事者になるのが怖いの?」
 私の内臓をグッと掴むような言葉だった。知らず知らずのうちに掻いていた冷や汗に気づく。私の視界はぐにゃりと歪み、そのまま前に倒れこみそうな体を無理矢理座らせていた。
 雁字搦がんじがらめの私を見かねたのか、彼女は「どう?」と再度聞き直した。
「どうって……」
 石のように固まった私を見て、彼女は会話が平行線になることを察したのか、今度は突き放すように「ま、いいわ」と言い、一枚のA4用紙を渡してきた。
「これが課題の『リメンバー・タイム』のテーマよ」
 その言葉を聞いて、横で机に頭をつけているハルカの首が九十度回った。
 シイナは自分の荷物を片付けながら続ける。
「来週のこの時間までに、を考えてきてよ」
 言葉と状況の転換に、頭も心も取り残された私を置いて、彼女は「鍵よろしくね!」と言い去っていった。
 私はその場に座り尽くしていた。
「楽しみだね」
 横でラジオパーソナリティとおぼしき人間が笑っていたが、私は上手くも返せずただ睨んだ。

 それから、一息ついて顔を上げると、空っぽの収録ブースが目に入った。
 知らない間に、名前と配置を覚えた機材たちが並んでいる。
 なぜ、今私がここにいるのか。何を求められているのか。そのすべては、四か月経った今も不鮮明なままだった。
 ただ、彼らやラジオと向き合う日々の中で、私は「私」というもののぼやけた輪郭を、遠回りでも少しずつ捕まえているような気がした。

 ♪♪♪
 
「白羽の矢が立つ」という言葉がある。現代では、たくさんいるうちの一つや一人が特に選び出されるときに使用する。しかし、言葉の源流を辿ると、人身御供ひとみごくうを求める神が、生贄として選んだ少女の家の屋根に印として白羽の矢を立てたという俗信に行き当たる。
 つまり、元来の意味で使われるのであれば、今の私にぴったりの言葉であった。

 盛夏の逢魔時おうまがとき、私は自室の机に座っていた。
 いつもはラジオを聴いていたこのテーブルで、私はラジオをいる。この奇妙な境遇に気持ち悪さを覚えながら、先週末のハルカと同じように頭を抱えていた。
 シイナから課せられたテーマは、「ブリットポップ」についてだった。
 ブリットポップは、一九九〇年代にイギリスを中心に起きた音楽ムーブメントとその音楽ジャンル全体を指す。イギリスの次々に登場する実力派の新人バンド達が、世間の、世界の中心になっていた時期だった。
 ブリットポップと定義づけられる音楽は、私のど真ん中の好みでもあり、恐らくシイナもそれを知っていて課題を放り投げてきたのだと感じた。
 さりとて、筆は進まない。
 義務教育を終えた砂地に毛が生えた程度の人間が、ラジオ作家など務まるはずもない。せいぜい汚い字で青臭い学級日誌を書くぐらいが関の山である。
 私は、シイナのメモを持ち上げ、何度もカーテン越しの夕陽に透かして見つめた。
 彼女の言う「聴きたいラジオ」とは何なのか。勿論、そこに答えもヒントも映されない。
 私は、ラジオを作る人間とラジオそのものに対して、平身低頭へいしんていとうするようにまた顔を伏せた。

 しばらく時間を浪費していると、携帯電話が物寂しく鳴った。
 私とハルカとシイナの共有されたグループウェアの中で、ハルカが叫んでいた。
 未だには難航し、苦闘しているようだった。
 特に私から物言いをすることはないので、その画面をすぐに閉じ、流れるようにメッセンジャーアプリを開いた。
 数少ない「友だち」の一覧が表れる。イガラシはきっとこの時間も部活に精を出しているのだろう。マナカは肩にかけたギターを懸命に鳴らしていることだろう。殊勝なことだ。
 では、私は何をしているのだろう。
 このくすみきった青い春の時間で、私は何を成せただろうか。
 そう考えだすと、また底知れぬ気鬱が迫ってきた。
 それに引き込まれぬよう、私は別のことを考えようと目先を自分の棚に移した。
 何冊かの小説や漫画たちの横に、埃を被ったアルバムがあるのを見つけた。
 その中でも、とりわけへんてこりんなジャケットが一つあった。それには、アルマジロと戦車が合体した生き物が描かれていて、私はそいつと目があった気がして薄気味悪くなったので、棚の前まで行ってアルバムを伏せた。
 なぜこんな古そうなものが私の棚にあるのか。記憶の樹海を抜けると、父の物置から適当に見繕ってきたものだと分かった。
 その時、父がブリットポップもたしなんでいたことを思い出した。
 出された難題を解くための手がかりがあるかもしれないと思い立ち、私は父の物置を漁ることにした。

 三畳ほどの父の物置では、小窓から差す西日が古いアルミのブラインドに裁断され、怖さを持つような橙色に染まっていた。私の棚とは比べ物にならないほど、深く埃を被る品の山がそびえたっていて、見ているだけでむせかえった。
 この空間では、アルバムの他にも薄汚れた雑誌やカバーの外れたビジネス本が場所を取っていた。
 この全てないし大部分が、父の生きてきた軌跡であり、今の彼を構成する知恵となっていると思うと、ある種の畏怖いふすらも感じた。
 手前の本の山から自己啓発本を一つ手に取ってみても解読不能だったので、文字通り投げ出したら大量の埃が舞った。
 咳込んだ私は、体も気分も害されたので、全てを諦め帰ろうとした。
 きっと、甘い物でも買っていけばシイナも許してくれるだろう。
 そう思った瞬間だった、舞った埃達を光らせていた夕日は、何かの面で反射して私の目に飛び込んできた。
 興味本位でその正体を手に取ると、いつか昔に聴いていた『スーパーノヴァ』のアルバムだと分かった。記憶の中のそれよりずっと傷も汚れも増えてボロボロになっていたが、年季の入り方に惹かれるものがあった。
 裏に書かれた紹介文を見ると、「の流れを汲んだ……」と書かれていた。
 その文字列は私をハッと閃かせた。
 彼らのアルバムのあった山を見ると、その下にも沢山の円盤があった。「オアシス」や「ブラー」など、私でも知っているようなブリットポップを代表するバンドの名盤ばかりだった。
 私はそのうちの幾つかを拝借し、自室に持ち帰った。
 いつもはラジオを流す役目しか果たせていないCDラジオのCD再生機能を使い、まず一番上にあったスーパーノヴァの音盤を乗せてみた。
 聞き覚えのあるキャッチーなメロディーが私の魂を想起させた。
 何曲か流している中に一つだけ毛色の違う曲があった。
 普段は兄が曲を作るスーパーノヴァの、その後期に弟が作った曲だった。
 それは彼らのどの曲よりも単純で、美しく、優しい、徒然を慰めるような愛の歌だった。
 父親は車でこの曲が流れるとよく飛ばしていたし、ヒット曲と言うわけでもなかっただろうけど、私はこの曲がきっと一番好きだった。
 そんなことが私の記憶のずっと奥の方から、タイダイが滲むように浮き上がっていた。
 次に英国に回遊して『モーニング・グローリー』の音盤を乗せてみた。
 ブリッドポップの核を成すようなキャッチーなメロディーに透き通った声が乗っていく。
「ハロー、ハロー、ハロー……」
 CDラジオは歌い続ける。
 私は、そのまま何枚かの円盤を流してみた。
 物置に埋まっていた音楽たちは、有名どころしか馴染みのなかった私にとってはかえって新鮮だった。
 発する言葉のほとんどは聞き取ることもできないのに、捻りのない真っすぐなメロディがすっと心に溶けていく。
 私は彼らを真似するように椅子にもたれてふんぞり返り、手に取ったジャケットの「おび」に書かれたゴシック体の文字を読んだ。
 古臭い言葉と古臭いテンションで文言が続き、突き抜けたダサさに美徳すら感じた。
 私は帯に書かれたアクの強い文が妙に気に入って、くすねてきたCDの山の「帯」だけを読んで、ノートに複写していった。
 当時のライター達はこの曲を聴いて何を感じたのか。どう人に伝えたかったのか。
 私は天啓を受けた。というよりも、やっとこさ見つけた蜘蛛の糸を逃すまじと心に決めてパソコンに向かった。
 まず、代表的なアーティスト名を出して、九十年代の音楽シーンを時系列で追う。
 その各所にライター達の言葉を落としていくと、事実だけの羅列の隙間に当時の多様な価値観が混入していく。
 闇雲に書き始めると、自分でも驚くほどに筆が乗った。
 自分の世界から不必要な情報がどんどん削れていくようで、意到筆随いとうひつずいとはこのことかと感じた。
「『帯』から語るロック史 ―ブリッドポップ編―」
 巨大な気恥ずかしさから目を逸らし、私は無心で筆を走らせた。
 
 気づけば夏の長い宵も閉じ、窓は青を少しだけ落とした闇の夜半になっていた。
 私は読み返すことすら恥ずかしさで出来ず、無心でシイナに文書ファイルを送り付けた。
「なるようになる」という自信を超えた強烈な諦念が、送信ボタンを押させた。
 それから、一気にどっと疲労感が押し寄せ、意識が朦朧もうろうとなって机に顎を乗せた。
 気づかないうちに多量の汗もかいていたようで、自分の身体に少し引いた。
 野原を駆けた後のような、人類がずっと昔に忘れた心地良い疲れに浸っていると、携帯端末がピコンと鳴った。
「ボツ」
 私は椅子から崩れ落ちた。
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