ヘルツを彼女に合わせたら

高津すぐり

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第二章

9.「Rock And Roll」

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 四季のある国、もとい酷暑と極寒の並存する日本における七月下旬というのは、生き物の活動に適していない。
 当の私も酷過ぎる暑さに当てられ、視界に入るすべての人やものが、水に濡れた砂糖菓子のように溶けて見えていた。
 しかし、我ら人類には智慧という武器がある。
 文明の最高傑作とも言える利器、エアーコンディショナーを以ってすれば、この異常気象にも五分で戦うことができた。
 それが金のない公立高校の、こんな一室でなければの話だ。
 
 ほとんどの人間が何を成し遂げたわけでもない一学期の終業式が終わり、誰の何を待っているかもわからない隙間の時間が生まれていた。
 この熱の中では、常時騒がしい学徒たちも死にかけのセミのように机に項垂れていた。
 かく言う私は教室の角に佇み、傷が重なり透明度を失くした「非《・》ファイル」でそよ風を起こし、なんとか自我を保っていた。
 そこに、暑さの増すような声がした。
「フクチ!」
 直角に落ちていた頭を持ち上げて見ると、歪んだマナカとイガラシがいた。
「お前達身体が溶けてるぞ。大丈夫か」
「マナカ。お前の視界が歪んでいるんだ。お前が大丈夫か」
 恐らくイガラシと思われる生き物の方を見ると、彼が持っていた白いに光が反射した。
「さっき先生に会って、これ渡せって言われたぞ」
 それは、忌まわしき一枚の用紙だった。
「お前まだ出してなかったのか!」
 横でマナカがうるさい。
 数週間前、私たちの元に配られたのは、「進路希望届」だった。
 それを受け取った過去の私は、面倒なことになりそうなので即座にカバンの奥底に閉じ込めた。
 臭い物には何重にも蓋をしたのち、鋼鉄でできた南京錠をかけ、漬物石でも置いてやるのが一番であるからだ。
 私の「それ」は、そのまま別の世界に溶けていったものと思っていたが、用紙の複写を押しつけられた。
「早く出したほうがいいぞ!」
 別ベクトルで同じ結果に辿り着いていたと思っていたマナカが、そんなことを言ってくるのが意外で、しゃくだった。
「……マナカはなんて書いたんだ」
「さっき返ってきたから、見るか?」
 そういって渡された紙には、決して誰もが入れるわけではない大学名達と、言語系の学部を示す字面が第一希望から空白なく書かれていた。
「お前、大学の名前、三つも知っていたんだな」
「イガラシに教えてもらったからな」
 何故か鼻を高くしている男の横で、イガラシもニヤッと笑っていた。
「フクチもカウンセリングしてやろうか?」
 と言ってきたので、当然無視をして窓の先の陽炎に目をやった。
「ならこれだけでも渡しとくぞ」
 イガラシがそう言って分厚い冊子を傷だらけの机上に置いた。
「なんだこれは」
「俺からのだ」
「いらんわい。そんな汚いもの」
 
 適当なホームルームが終わって二人が部活に行く頃、教室には自分とセミの声だけが残っていた。
 私は溜息でセミとデュエットしてから、イガラシの置き土産を思い出した。
 得体も知らない厚い本だったので、十分に注意して書冊をめくると、網目の中に大学と偏差値、試験科目が細かく載っていた。進学情報誌のようだ。
 それからまた誰かの溜息が一人の教室に響く。
 茶化して返していたが、胸の深奥では私だけを置いて世界が進んでいるのをひしひしと感じていた。
 モラトリアムの爆弾。そこに繋がる頼りない導火線上を、赤い火種が着実に進んでいる。
 担任は「何を書いても自由だ」と言っていた。
 しかし、「自由」というのは、それを与える側の「無責任」と常に隣り合わせにある。過剰な「自由」の押し付けは、過剰な束縛と同様に、等身大の自分を破壊するように思えていた。
 私はまた前の雨の日の様にずっと億劫になって、帰路に着くことを選んだ。
 数十分前の記憶の中で、呆れ顔の担任教師が「進路希望を出すまで返さない」と言っているが、暑さが見せた幻覚のような気もしてきた。
 をした私が荷物をまとめていると、立て付けの悪い引き戸からよく見た顔が現れた。
 
「や」
 地方のラジオ局でパーソナリティをやっていそうな彼女は、トートバックを教壇に置いた。
「何しに来られたんですか?」
 夏用制服の白が夏の陽を赫々かっかくと弾いていた。
 ハルカは、今週用の台本と青と白の大学ノートを机に出すと教師用の椅子に座った。
「そういえば、貴女クラスどこなの?」
 一つ目の質問を無視されたので、第二の矢を放った。
「二の二だけど」
 同学年でも二組は理系のクラスだったから、道理で会わないし馬も合わないわけだと合点がいった。
「貴方は何してるの?」
 今度は立ち台から彼女が訊いてきた。
「見ての通り、帰ろうとしている」
「……さっき何か書いてなかった?」
 本当に興味があるのかどうかも不透明だが、問い詰めてきた。
 私は彼女に自分の中の核心を覗かれるのが嫌で、自分の言葉で説明もしたくなかった。
 そのため、そこらで燃やすつもりだったイガラシの進学情報誌をポンと置いてみせた。
 すると、ハルカは教壇の席から立ってそれを手に取った。
 パラパラとページを捲って中身を確認していくうちに、彼女の顔から段々興味が薄れていくのがはっきりと分かった。
 すぐに裏表紙までたどり着くと、冊子を閉じてそっと置いた。
「進路で悩んでるの?」
「悩む段階にも立てていない」
「それで、これを持ってきたってわけね」
 黄色い表紙の彼は、私と彼女の間で強烈な存在感を放っていた。
「いや、別のやつに渡された」
 ハルカは「へぇ」と意外そうな相槌を打った。
「こんなもの渡してくるなんて、よっぽど貴方のことが好きなんだね」
「気持ち悪いことを言うな」
「……それより、どうするの。これ」
 ハルカは私の机上に置かれた進路志望用紙を指差した。
「この白紙が答えだね」
「じゃあ、私が書こうか?」
「お願いします」
 私があまりに何の躊躇いもなく二つ返事を返したので、さすがの彼女も引いたようだった。
 沈黙の間で、さっきまで仲良くしていたセミが追い出すように騒いでいて居心地が悪くなった。
「貴女は人生のプラン立ててるんですか?」
 気まずかったので、私は居合って斬りかかるつもりで柄に手をかけた。
「当たり前でしょ」
 刀を抜く前に斬られた。
「でもそれより、もっと差し迫った問題が今ここにあるから」
 彼女は、台本を見せつけるように風になびかせた。
 その熱風で、クリーム色のカーテンも共に揺れていた。
 教室のスピーカーから電子音の鐘が鳴る。
 私達がこうして話している間にも、時間は刻一刻と過ぎ去っていく。
「また何か悩みの種でも?」
「……まぁ」
 ハルカの声に抑揚はなかった。

「R-MIX」について、彼女はまた試行錯誤を繰り返していた。
「R-MIX」自体の対外的な評価は、一定のところに収まっていた。地域の若者バンドをフィーチャーするという作戦は、番組の一つの特長となった。番組の聴取率もフルタ時代の頃には及ばずとも、取り立てて問題にされる数字ではないらしい。
 しかし、ハルカが当初に掲げていた「『RAR-FM』の聴取率のテッペン」と「ラジオアプリ『ラジット』の人気ランキングのテッペン」はまだ遥か彼方に見えた。

 また新たな手を打とうと、シイナや私、時にはミキサー室からミヤモトを引っ張り出して、多様な企画を集めていた。しかし、決行に至るまでの名案は生まれなかった。
 それに、今回はこれまでの彼女の様子とは異なって見えた。
 今の彼女は番組を盛り上げたいという自然な向上心よりも、何かを変えなければならないという、火に追われる焦燥のようなものに動かされている気がした。
 その引き金が自体だったのか、それともフルタの言葉だったのかは私にはわからず、それを聞けるほど無神経な人間でもなかった。
「次の勝負所は、八月末のね」
 彼女の言う「スペシャルウィーク」とは、ラジオ局が聴取率を計る期間のことだった。局の放送エリアで「どれだけの人に聴かれたか」という数字は、番組の価値を残酷なまでに示すデータでもあった。況して、無名のラジオパーソナリティが起用され、後ろ盾となるスポンサー契約の雲行きも怪しい「R-MIX」にとっては、死活問題だった。
 
「貴方は何か妙案ないの」
 私という枯れた藁を、嫌々掴んでハルカが聞いてきた。
 ほとんどの番組では、スペシャルウィークに合わせ趣向を凝らした企画を行う。シイナの昨年度資料によると、コネを利用して特別なゲストを呼ぶ番組や、プレゼントを大喜利などのリスナー参加型企画を行う番組もあった。
「先の会議で出し尽くしたよ」
「もう尽きたの?」
 彼女は机の上に体を伸ばしながら、ため息を吐いた。
「貴方こそ何かないんですか?」
「ないね」
 その体は、より伸びた。伸びてそのまま潰れた。
「イギリスにはこういうことわざがある」
 何の好転も起きそうにない現状を見かね、私は言った。
「……何?」
「微笑めば友人ができる。しかめっ面をすれば皺ができる」
「は?」
 彼女の眉間にできた皺は、私の気遣いによってより深い谷となった。
「……じゃあ、何か貴方がしたいことはないんですか」
「シイナさんみたいなことを言わないでよ」
 ハルカは不機嫌そうに返した。
 彼女もまた、私と同じように「自由」という空間の中で悩んでいるようだった。
 それから、アブラゼミと混ざって「うぅん」と鳴き声を上げだした。
「……とは言っても私、やりたいことやらせてもらってるしな」
 思い返すと、同じぐらいの歳のバンドを呼んで演奏させることも、それで終了予定の編成を乗り切ることも、滅茶苦茶に違いないと感じた。そもそもに帰れば、何の実績もない高校生が番組をもつこと自体、手持ちの物差しで測れる事態ではない。私の感性も麻痺しているようだった。
「というか、そんなに今の番組に満足してないんですか?」
 私はさっきのため息の仕返しと、純粋な疑問をねた毒を吐いた。
 ハルカは暫く何も反応せず、私の方をじっと見つめた。
 セミのソロパートが八小節終わったところで、そっと口を開いた。
「……貴方、作家でも目指せば?」
「え?」
「獲れるんじゃない? 
 彼女もまた酷暑にやられたようだった。
 
 彼女は、大きなため息を吐くと、白い鞄からコーラを取り出した。
「中身が良くても、結局聞いてもらうためにはが必要だと思うのよね」
「きっかけねぇ……あ、イギリスにはこういうことわざがある」
「……何にカブレたらそのシリーズに嵌るの?」
「良いワインにはツタはいらない」
「次言ったらぶっ飛ばすよ」
 身の危険を感じた私は、彼女が机に広げる紙の束に目をやった。
「リスナーからは何か意見来てないんですか」
「あぁ。なんかあったような」
 ハルカはA4用紙の束をペラペラと捲り出す。
 手持ち無沙汰になった私も、進学情報誌を眺めるふりをして対抗した。
「あ、そういえば、前のイベントで知ってくれた人からメールがあって、『ハルカさんが他の人と話すところもっと見てみたいです』って」
ってやつか」
「確かに、新規の人が番組を知る機会にはなるかも」
「じゃあ、誰か呼びたいゲストはいるんですか?」
 私が尋ねると、ハルカは文字通り空を見つめてから、何か思いついたように「あ」と言った。
「私が好きなんだよね」
「……?」
 日頃使わない言葉なので、私の脳ではすぐに飲み込めなかった。
「多分、根はミーハー気質なんだよね」
「聞いてないのに進まないでください」
 彼女は腕を組んで、開いた思考の門の先を進むように、うんうんと一人で頷いていた。
「呼ぶか、ロックスター」
 適当な出まかせから、彼女の意志は完全に固まったようだった。
「そんな資金があるんですか?」
「シイナさんの顔色が完全な青になるまでは、局の金は使っていいことになっているから」
 ハルカはそれから、ふんふんと鼻息を荒くしながら何かを書き込んでいた。
 それから、「よし」と何かを決断したように大きく声を上げた。
「じゃあ、私は行くから」
 彼女は、教壇のカバンを肩にかけて立ち上がった。
「お疲れさまでした」
 そろそろ彼女に帰ってほしかったので、私もこれを逃すまいと促した。
 そして、引き戸まで行った彼女は、そこで想起したように振り向いた。
「貴方も貴方がしたいこと、考えたら?」
 減り張りを取り戻した声で、彼女は嫌味そうに笑って言った。
「そしたらその志望届、埋まるかもね」
 彼女は「じゃ」と手を出して帰った。
 私は、結局空欄のままの紙片を見つめた。
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