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第一章
6.「Purple Haze」
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「……それで、中盤からのギターソロがあるんですけど、もうなんか訳が分からないというか、爆発してる感じなんですよ」
「いつも夜にこの曲を聴いてぶっ飛ぶわけですね!」
「そうです!」
「じゃあ、聴いてもらいましょう! 燃えるストラトさんのリコメンド。ジミ・ヘンドリックスで、『Bold as Love』!」
曲が掛かり、ハルカがペットボトルの水を口に運ぶ。
この後コマーシャルを挟み、マナカやカナタ達のバンドの曲を一分と三十秒ほど流して、ライブハウスや付近の店を紹介する。そして、ハルカが締めのトークをして、エンディングの曲を流すという予定だった。
先週のフルタの件があってか、今日のハルカは曲や広告を流している間も神妙な顔つきで台本を睨んでいた。
私はというと、機材やCD・リスナーとの電話の準備に、番組のホームページ・SNSの更新、スタジオの後片付けなどを任されていた。
五〇五スタジオに入って一月が経ち、少しずつ勝手が分かってきた。
この番組にとって、私が必要なのかは疑わしい。しかし、自分が役割に慣れることで、他のスタッフに気を遣われないでもらえる事が嬉しかった。
コマーシャル中、ホームページ用にハルカの写真を撮る必要があったことを思い出し、私は机に置かれた社用携帯を手に取った。
そのままアクリル越しの彼女にレンズを向け、シャッターを下ろした。
穴を開けるように台本を睨む彼女の像は、とても「元気溌剌ラジオパーソナリティ『ハルカ』」の写真として使えるモノではなかった。
彼女はこちらに気づき、不思議そうな顔をしたので、私は口角を指さし、「笑顔で」というジェスチャーを送った。
ハルカは紙に向けていた睨みを私に移し、引きつるような笑顔を見せた。
それを見たミキサー席のミヤモトが、フッと鼻で笑ったのが聞こえた。
コマーシャルが開けて、番組コールが流れる。
「それでは、今週はN市のT区で活動をするバンドを紹介します!……」
「お疲れ様」
シイナがブースから戻ったハルカを迎えるので、私も備品の冷蔵庫から飲み物を渡した。
普段の番組終わりであれば、ハルカは役目を終えた昆布のように腑抜けているが、今日はソファーで深刻そうな顔をしていた。
「うぅん」
「どうしたのよ」
シイナが聞いた。
「……いや、うぅん」
壊れたサイレンのように唸る彼女を訝しげに見る。
するとハルカの方から、「ねぇ」と私に問いかけてきた。
「今週の彼らの評判はどうだった?」
「さっと見ただけだけど……先週よりは反応が多いと思う」
「反応の内訳は?」
「……ぼちぼち。上々」
それを聞いて、また「うぅん」と警報が鳴る。
「何がご不満なんですか?」
私が嫌味っぽく聞くと、「いやぁ」と返す。
「彼らの曲も良いんだけど、なんかちょっと物足りないというか……」
つい一昨日まで、若者たちの曲を流すことについて、これでいいのかと迷っていたはずなのに、今度は物足りないと真反対の方向に悩んでいる。改めて、てんで滅茶苦茶な人間だと思った。
「ジミヘンの後に流して、遜色ないバンドなんてこの世に幾つあるんだよ」
「そりゃあそうだけどさ。なんかこう、うぅん」
そう言いながら、またソファに倒れ込むハルカを傍目に片付けを進めていると、扉のすりガラス越しに誰かが来ているのが見えた。
ドッドッドッと間隔の小さいノックが鳴り、女性が申し訳なさそうに顔を出して手招く素振りを見せた。
「シイナさん。ちょっと」
招かれた彼女はチラッと腕時計を見た後、私たちの方を向いた。
「ちょっと、出てくるわね」
シイナが部屋を出たすぐ後、ミヤモトが自分の荷物をまとめ「じゃっ」と言って去った。
それから、ハルカはソファに寝ころび、電子端末を眺めていた。
この第四スタジオは、二人では余りに広く、寂しい部屋だった。
「シイナさん達、何の話だろう」
突拍子もなくハルカが口を開いた。
「なんか大事な話でしょ。子供じゃわからない」
「……ちょっと覗きに行こうか」
「いや、やめた方がいいでしょ」
彼女の眼を見ると、既に好奇心に火が付いた様子であった。
「でも気になるでしょ? 最近シイナさん、ちょっと変だし」
「変で言えば君の方がよほど変だけど」
「ほら行くよ」
小さな端末をパーカーの小さなポッケに入れ、彼女はいたずらっ子の表情をした。
ハルカは部屋を出ると、迷いもなくズカズカ進みだした。
「どこ行ったか分かって歩いてるのこれ?」
「この階で話し合いするときは大体第五会議室よ」
スタジオのカギを回しながら、ハルカは得意げに言った。
その部屋に着くと、中から微かに男達の声が聞こえた。
「何話してるんだろう」
ハルカが中の様子を伺おうと、しゃがみ込んで壁に耳を近づける。
よく恥ずかしげもなくそんな所作ができるなと、私はある種の感心すらしていた。
会話はほどなくして途切れていき、声が小さくなっていった。
それを受けてか、彼女はほとんど扉にもたれかかるぐらいまで近づいた。
その瞬間、扉が内側に勢いよく開いた。
当然、彼女は側頭部を床に打ち、声にならない声を上げる。負傷箇所を抱えて座り込んだ。
こんなに古典的な茶番劇が現実に存在するのかと感心を重ねた。
「だ、大丈夫ですか!?」
加害者というよりはずっと被害者に近かったが、扉を開けた男が心配して駆け寄った。
「いや、悪いのは私なので大丈夫です……あ」
その瞬間、三人が言葉を失った。
中から出てきた男は、前任ADのイシイだった。
「あ、久し振り……」
私とハルカが目を点にしていると、イシイは気まずそうに弱く笑った。
「ちょっと、お手洗い行ってくるね」
大きな男は小さく会釈して、私達が来た方向へと歩いて行った。
半開きになった扉の間には、不思議そうな顔をした中年の男と、呆れ顔のシイナが見えた。
ハルカが立ち上がるのと同時に、シイナが席を立ち、扉の前まできた。
「貴方達……少しはジッとできないの」
「いや、フクチがどうしても行きたいって」
甚だしい裏切りを目にして、私も絶句した。
「この子たちは?」
奥に座っていた男が立ち上がって、堪らず声を掛けた。
「彼らは、フルタの代役をしている『R-MIX』パーソナリティのハルカと、ADのフクチです」
「あぁ! 君があの!」
ハルカは何か閃いたような顔をすると、どこからか一丁前に名刺を取り出して渡した。
男はまた、あっけにとられた様子を見せた。
しかし、一転、「ははは。これはどうも」と笑い、すぐに自前の厚い名刺を取り出し、交換した。
ハルカは有頂天なまま、受け取った名刺を読み上げた。
「ホウオウビールのカメダさん……」
「君は?」
カメダ、というらしい男は私の方を向いていたが、当然そんな紙は携えていないから、「フクチといいます」とだけ言って会釈した。
すると、男はまた大きく笑った。
「よかった。最近の子はみんな名刺を持ってるのかと思ってびっくりしたよ。ははは」
この儀式が終わった後、私は直ちにハルカを引きずってでも退出しようと目論んだ。
しかし、カメダが迎え入れるように手を動かして言った。
「まま! 君たちも座りなよ」
向かいにいたシイナの参っている様子が見えた。彼女は、こころなしかいつもの鋼鉄のような冷静さが揺らいでいるようだった。
私とハルカは、シイナの両脇に座った。
「そういえば、イシイさんはどうしてここに?」
ハルカが尋ねた。
「あぁ! 彼は今インターンでウチに来てるんだけどさ。そしたら、彼はここで働いてたことがあるっていうもんだから、連れてきちゃったよ!」
勝手な想像で、イシイは音楽関係の道を模索しているとばかり思っていた私は、カメダの答えに面を食らった。
「そう、だったんですか。で、ホウオウビールの、えぇと。カメダさんは何のお話に?」
ハルカが言う。
ホウオウビールは、世俗に疎い私でも認知するほどの大手飲料メーカーであった。
それこそ、私が単に一人の「R-MIX」リスナーであったとき、頻繁にコマーシャルを耳にした覚えもある。
男は相槌みたいに「ははは」と挿み、曇りのない笑顔で言った。
「この番組のスポンサー契約を終わらせていただこうと思ってね」
暑苦しいまでにフレンドリーな男の言葉で、一瞬にして部屋の空気が凍った。
私の横で、シイナはバツの悪そうな風で、目を瞑り唇を噛んでいる。
更にもう一つ隣の横で、ハルカが言葉を失っているのも分かった。
「いやぁ。ウチはビールの会社でしょ? だからフルタさんのリスナー層に一致するかなと思ってお金出してたんだけど」
私達を置き去りにして、男は話を進めた。
「だけども、高校生がやってる番組でこのままお酒の広告流すのはまずいでしょ?」
急に、男が終始見せている笑い顔が、温度のない、悍ましいモノに感じた。
「でも、ホウオウビールってウチの一番のスポンサーじゃ……」
ハルカは、シイナに糺すようにも、カメダに縋るようにも捉えられる言葉を出した。
「ははは、こればかりはちょっとね」
男の大柄な体越しに、空が曇り始めているのが見えた。
自然光だけで十分な明るさだった会議室は瞬く間に色を失い、鉛のように重たい空気になった。
私も、必死になって何か、言葉を探した。
「でも、ホウオウビールさんってビール以外の飲料も出していた気が」
置物のようであった私が急に口を開いたため、カメダは目を大きく見開いた。
「いやぁ、でも本業に比べたら本当にノミのような事業だからねぇ」
雑巾のごとく振り絞られて出た勇気ある一声は、目にも鮮やかに撃沈した。
それから、また困惑と簡素な絶望に依る沈黙が流れた。
カメダが咳払いをすると、その暗さは一層増した。
大男は沈黙の中でこめかみをポリポリと掻くと、「じゃあ」と小さく言い、席を立とうとした。
その瞬間であった。
「あの!」
ドアが開くガチャ、という音と同時に声が上がった。席を外していたイシイの声だった。
「もう少し、様子を見てもいいんじゃないでしょうか」
汗だらけのイシイが、震えた声で言った。
たちまち、カメダの瞳孔が開く。
「何を言ってんの。イシイくん」
「僕は二、三年ですけど、フルタさんの横で、ラジオについて学んできました」
「……だから?」
イシイはカメダの方をしっかりと向いて続けた。
「彼らは、この番組は、これから伸びます」
彼の顔は、見たことがないほど真っすぐで、体中の筋肉が力んでいるのも伝わった。
カメダは、張り付いた笑顔のまま口を大きく開ける。
「……ははは。まさか君みたいな落ちこぼれに、そんなこと言われるとはね!」
男は強張った顔を振って、「でもさ」と続けた。
「そもそもこの番組いつまで続けるつもりなの? シイナさん」
「……当分は、続けるつもりです」
すると、シイナは席を立ち、深く礼をした。
「お願いします」
カメダは一瞬だけ、驚いた様子を見せたが、掛けていた眼鏡を一旦外し、ジェルまみれの髪を掻き上げた。
「フルタ君が辞めてから人が離れたって聞くけど、何か考えでもあるの?」
「それならあります!」
ハルカが立ち上がりながら、ドン、と机を叩いた。
私は驚いて目を奪われる。それは、イシイも、シイナも、カメダも同じだった。
「来週、もう一度ここに来てください」
重たかった空は、疎らなひつじ雲となり、灰色の部屋に薄く柔らかな日差しが映えだした。
♩♩♩
次の木曜は、夏が顔を出し始めた風気であった。
この日は一学期のテスト週間最終日でもあり、大抵の生徒は時間的・精神的束縛から解放された喜びで、今にも万歳三唱を始めそうな様子だった。
エーリヒ・フロムの言うように、人々は自由があるからこそ抑圧や制約が感じられ、一方で抑圧や制約があるからこそ自由を求めるのだと切に思った。
私も、一夜で脳に漬け込んだ数学の公式達が、虚空に流れ出て行く様を感じながら荷物をまとめていると、例のごとく、イガラシとマナカが近づいてきた。
「フクチ、テストどうだった?」
イガラシが言った。
だが、こういうことは、自分の結果に自信があるやつほど他人に聞くものである。
「大体いつも通りだろ」
「そうか」
「そもそも、自分よりも下のやつに聞くな」
「いや? 蓋を開けるまでは何もわからないだろ?」
「それよりも、マナカは大丈夫なのかよ」
私は指を差して聞く。
「よし! フクチ、ラジオ局行くぞ!」
時として、彼は会話が成立しない。
「……お前が何しに行くんだよ」
突拍子もない提案に私が返すと、マナカはきょとんとした。
「あれ、お前聞いてないのか……まぁ、説明するのも面倒くさいから、とにかく行くぞ!」
彼はそう言って、私の肩に手を回してきた。
私がそれを振りほどくと、横にいたイガラシが巨大なエナメルバッグを肩にかけ、「じゃあ俺は部活行くわ」と笑って教室を出て行った。
学校からラジオ局までは、徒歩と地下鉄一本で三十分ほどの距離だった。
テスト明け。ほとんど徹夜の頭で電車に揺られていると、車両の出すノイズが子守歌のように聞こえた。
マナカは電車に乗ってから、黒いヘッドホンで何かを聴いていた。試験週間の最終日にどうしてそんなに血色が良いのかを聞こうとも思ったが、どうせロクな答えではないので私は瞼を閉じた。
電車は細長い闇の中を走り続けた。
「フクチ! 急げ!」
目的の駅に着くと、マナカは肩に掛けたギターケースを諸共せず、私を急かした。
「ところで結局、何のためにラジオ局に来たんだ。お前も僕も」
マナカの早足に付き合いながら、私は尋ねた。
「あぁ。なんかアレあるだろ。俺らの曲、流してもらってるやつ」
灰色のビルと人を抜けて、順路を進む。
「『スーパー・ソニック』のことか?」
目抜き通りに生やされた街路樹が窮屈そうに見える。
「そうそう。それで、今週は俺らのバンドの曲を流してもらえる予定だったんだよ」
局に着いた。マナカは見知った顔のように守衛に「こんにちは!」と言った。
ずかずか進みながら、マナカは話を続けた。
「だけどさ、やっぱCDで流すんじゃパワーに限界があるんだよ」
空のエレベーターに乗る。
「十分すごい曲だと思ったけど、そんなもんなのか」
エレベーターを出ると、適当に置かれた観葉植物が居心地悪そうに佇んでいる。
「それで色々考えたんだけどさ」
いつものスタジオの前に着いた。
「スタジオで生演奏するってことになったんだ!」
マナカは得意げに五〇五スタジオの看板を親指で指して見せた。
「うす」
マナカが扉を開けると、ハルカがミキサーの前の椅子に泰然と座っていた。
「遅い!」
彼女の体の向く方、ブースの中に目をやる。
そこには、ギター・べース・ドラムの男三人と、キーボードの前に立つカナタ、そしてイシイの姿があった。
マナカもギターケース以外の荷物を放って、その中に飛び込んだ。
「……何してるのこれ」
台本を片手に持ち、腕組みするハルカに尋ねた。
「見れば分かるでしょ。練習よ」
防音ガラスの向こうでは、イシイがマナカ達に何か話しているのが見える。
「カナタさん、もいるんだ」
「あの子は鍵盤もいけるから、サポートでね」
立ち尽くしている私に、ハルカは台本を渡してきた。
「ちょっと他の予定詰めてあるから、目通しといて」
台本の一ページ目。目次の「全体の流れ」に、手書きの修正が施されていた。
「ここで演奏するって言ってたけど、本気でやるのか」
「いいアイデアでしょ。ちょっと手狭で申し訳ないけど」
ハルカはそう答えながら、ブース内の音がスタジオにも聞こえるようになんらかのレバーを上げた。
「生の爆音を響かせて、あのおっさんをぶっ飛ばす」
向こうの世界にいる彼らは、目を輝かせながら相棒の楽器を響かせていた。
「……というか、これ僕要る?」
休憩に入ったのか、ブースから楽隊とイシイが戻ってきた。
イシイは首にかけた白いタオルで、大粒の汗を拭いながら、私の横に座った。
「フクチ君、前はごめんね。ちょっとお話がしたくて」
調子が狂うほどの、腰の低さだった。
「……いえ」
私が首を振ると、彼は水を大きく飲んだ。
「どう? ADには慣れた?」
「なんとか。まだ、イシイさんのマニュアル頼りですけど」
イシイは自分のことのようにホッとした顔を見せた。
「あと、ハルカと上手くやれてる?」
「それは……どうなんですかね」
あからさまに困っている私を見て、彼は「はは」と笑った。
「イシイさん、あのビール会社に行くんですか?」
私は、彼に聞きたかったことを聞いた。
「あぁ、まぁインターンだけどね」
「てっきり音楽とかラジオ関係の仕事に就くものだと思っていました」
私は言った。はっきりと声にしてから、酷く失礼なことを言っているように思った。それは、イシイのもつ話し易さのせいだと思う。
彼は言葉を受けて、体面悪そうにまた笑った。
「……結構、やりたいこととやれることって離れていること多いんだよね」
視線を映すと、楽団が譜面を見ながら議論をしていた。
その熱に当てられ、私は少し息苦しくなった。
「うまくいくといいね」
横でイシイがボソッと呟いた。
「こんなことで、カメダの考えが変わりますかね」
「さぁ。神のみぞ知るってとこだね」
そう言って、イシイはペットボトルを机に置き立ち上がった。
「でも、マナカ君達も一週間、これだけ頑張ったんだから、報われてほしいな」
「そう……ですかね」
聞き耳を立てていたのか、マナカがこちらを振り返り「任せろ」と言わんばかりに親指を立てた。
「……一週間って、マナカ、お前の中間テストどうなっているんだ」
皐月の最終週。夏の影が近づいても、日はまだ短かく感じられた。
「いつも夜にこの曲を聴いてぶっ飛ぶわけですね!」
「そうです!」
「じゃあ、聴いてもらいましょう! 燃えるストラトさんのリコメンド。ジミ・ヘンドリックスで、『Bold as Love』!」
曲が掛かり、ハルカがペットボトルの水を口に運ぶ。
この後コマーシャルを挟み、マナカやカナタ達のバンドの曲を一分と三十秒ほど流して、ライブハウスや付近の店を紹介する。そして、ハルカが締めのトークをして、エンディングの曲を流すという予定だった。
先週のフルタの件があってか、今日のハルカは曲や広告を流している間も神妙な顔つきで台本を睨んでいた。
私はというと、機材やCD・リスナーとの電話の準備に、番組のホームページ・SNSの更新、スタジオの後片付けなどを任されていた。
五〇五スタジオに入って一月が経ち、少しずつ勝手が分かってきた。
この番組にとって、私が必要なのかは疑わしい。しかし、自分が役割に慣れることで、他のスタッフに気を遣われないでもらえる事が嬉しかった。
コマーシャル中、ホームページ用にハルカの写真を撮る必要があったことを思い出し、私は机に置かれた社用携帯を手に取った。
そのままアクリル越しの彼女にレンズを向け、シャッターを下ろした。
穴を開けるように台本を睨む彼女の像は、とても「元気溌剌ラジオパーソナリティ『ハルカ』」の写真として使えるモノではなかった。
彼女はこちらに気づき、不思議そうな顔をしたので、私は口角を指さし、「笑顔で」というジェスチャーを送った。
ハルカは紙に向けていた睨みを私に移し、引きつるような笑顔を見せた。
それを見たミキサー席のミヤモトが、フッと鼻で笑ったのが聞こえた。
コマーシャルが開けて、番組コールが流れる。
「それでは、今週はN市のT区で活動をするバンドを紹介します!……」
「お疲れ様」
シイナがブースから戻ったハルカを迎えるので、私も備品の冷蔵庫から飲み物を渡した。
普段の番組終わりであれば、ハルカは役目を終えた昆布のように腑抜けているが、今日はソファーで深刻そうな顔をしていた。
「うぅん」
「どうしたのよ」
シイナが聞いた。
「……いや、うぅん」
壊れたサイレンのように唸る彼女を訝しげに見る。
するとハルカの方から、「ねぇ」と私に問いかけてきた。
「今週の彼らの評判はどうだった?」
「さっと見ただけだけど……先週よりは反応が多いと思う」
「反応の内訳は?」
「……ぼちぼち。上々」
それを聞いて、また「うぅん」と警報が鳴る。
「何がご不満なんですか?」
私が嫌味っぽく聞くと、「いやぁ」と返す。
「彼らの曲も良いんだけど、なんかちょっと物足りないというか……」
つい一昨日まで、若者たちの曲を流すことについて、これでいいのかと迷っていたはずなのに、今度は物足りないと真反対の方向に悩んでいる。改めて、てんで滅茶苦茶な人間だと思った。
「ジミヘンの後に流して、遜色ないバンドなんてこの世に幾つあるんだよ」
「そりゃあそうだけどさ。なんかこう、うぅん」
そう言いながら、またソファに倒れ込むハルカを傍目に片付けを進めていると、扉のすりガラス越しに誰かが来ているのが見えた。
ドッドッドッと間隔の小さいノックが鳴り、女性が申し訳なさそうに顔を出して手招く素振りを見せた。
「シイナさん。ちょっと」
招かれた彼女はチラッと腕時計を見た後、私たちの方を向いた。
「ちょっと、出てくるわね」
シイナが部屋を出たすぐ後、ミヤモトが自分の荷物をまとめ「じゃっ」と言って去った。
それから、ハルカはソファに寝ころび、電子端末を眺めていた。
この第四スタジオは、二人では余りに広く、寂しい部屋だった。
「シイナさん達、何の話だろう」
突拍子もなくハルカが口を開いた。
「なんか大事な話でしょ。子供じゃわからない」
「……ちょっと覗きに行こうか」
「いや、やめた方がいいでしょ」
彼女の眼を見ると、既に好奇心に火が付いた様子であった。
「でも気になるでしょ? 最近シイナさん、ちょっと変だし」
「変で言えば君の方がよほど変だけど」
「ほら行くよ」
小さな端末をパーカーの小さなポッケに入れ、彼女はいたずらっ子の表情をした。
ハルカは部屋を出ると、迷いもなくズカズカ進みだした。
「どこ行ったか分かって歩いてるのこれ?」
「この階で話し合いするときは大体第五会議室よ」
スタジオのカギを回しながら、ハルカは得意げに言った。
その部屋に着くと、中から微かに男達の声が聞こえた。
「何話してるんだろう」
ハルカが中の様子を伺おうと、しゃがみ込んで壁に耳を近づける。
よく恥ずかしげもなくそんな所作ができるなと、私はある種の感心すらしていた。
会話はほどなくして途切れていき、声が小さくなっていった。
それを受けてか、彼女はほとんど扉にもたれかかるぐらいまで近づいた。
その瞬間、扉が内側に勢いよく開いた。
当然、彼女は側頭部を床に打ち、声にならない声を上げる。負傷箇所を抱えて座り込んだ。
こんなに古典的な茶番劇が現実に存在するのかと感心を重ねた。
「だ、大丈夫ですか!?」
加害者というよりはずっと被害者に近かったが、扉を開けた男が心配して駆け寄った。
「いや、悪いのは私なので大丈夫です……あ」
その瞬間、三人が言葉を失った。
中から出てきた男は、前任ADのイシイだった。
「あ、久し振り……」
私とハルカが目を点にしていると、イシイは気まずそうに弱く笑った。
「ちょっと、お手洗い行ってくるね」
大きな男は小さく会釈して、私達が来た方向へと歩いて行った。
半開きになった扉の間には、不思議そうな顔をした中年の男と、呆れ顔のシイナが見えた。
ハルカが立ち上がるのと同時に、シイナが席を立ち、扉の前まできた。
「貴方達……少しはジッとできないの」
「いや、フクチがどうしても行きたいって」
甚だしい裏切りを目にして、私も絶句した。
「この子たちは?」
奥に座っていた男が立ち上がって、堪らず声を掛けた。
「彼らは、フルタの代役をしている『R-MIX』パーソナリティのハルカと、ADのフクチです」
「あぁ! 君があの!」
ハルカは何か閃いたような顔をすると、どこからか一丁前に名刺を取り出して渡した。
男はまた、あっけにとられた様子を見せた。
しかし、一転、「ははは。これはどうも」と笑い、すぐに自前の厚い名刺を取り出し、交換した。
ハルカは有頂天なまま、受け取った名刺を読み上げた。
「ホウオウビールのカメダさん……」
「君は?」
カメダ、というらしい男は私の方を向いていたが、当然そんな紙は携えていないから、「フクチといいます」とだけ言って会釈した。
すると、男はまた大きく笑った。
「よかった。最近の子はみんな名刺を持ってるのかと思ってびっくりしたよ。ははは」
この儀式が終わった後、私は直ちにハルカを引きずってでも退出しようと目論んだ。
しかし、カメダが迎え入れるように手を動かして言った。
「まま! 君たちも座りなよ」
向かいにいたシイナの参っている様子が見えた。彼女は、こころなしかいつもの鋼鉄のような冷静さが揺らいでいるようだった。
私とハルカは、シイナの両脇に座った。
「そういえば、イシイさんはどうしてここに?」
ハルカが尋ねた。
「あぁ! 彼は今インターンでウチに来てるんだけどさ。そしたら、彼はここで働いてたことがあるっていうもんだから、連れてきちゃったよ!」
勝手な想像で、イシイは音楽関係の道を模索しているとばかり思っていた私は、カメダの答えに面を食らった。
「そう、だったんですか。で、ホウオウビールの、えぇと。カメダさんは何のお話に?」
ハルカが言う。
ホウオウビールは、世俗に疎い私でも認知するほどの大手飲料メーカーであった。
それこそ、私が単に一人の「R-MIX」リスナーであったとき、頻繁にコマーシャルを耳にした覚えもある。
男は相槌みたいに「ははは」と挿み、曇りのない笑顔で言った。
「この番組のスポンサー契約を終わらせていただこうと思ってね」
暑苦しいまでにフレンドリーな男の言葉で、一瞬にして部屋の空気が凍った。
私の横で、シイナはバツの悪そうな風で、目を瞑り唇を噛んでいる。
更にもう一つ隣の横で、ハルカが言葉を失っているのも分かった。
「いやぁ。ウチはビールの会社でしょ? だからフルタさんのリスナー層に一致するかなと思ってお金出してたんだけど」
私達を置き去りにして、男は話を進めた。
「だけども、高校生がやってる番組でこのままお酒の広告流すのはまずいでしょ?」
急に、男が終始見せている笑い顔が、温度のない、悍ましいモノに感じた。
「でも、ホウオウビールってウチの一番のスポンサーじゃ……」
ハルカは、シイナに糺すようにも、カメダに縋るようにも捉えられる言葉を出した。
「ははは、こればかりはちょっとね」
男の大柄な体越しに、空が曇り始めているのが見えた。
自然光だけで十分な明るさだった会議室は瞬く間に色を失い、鉛のように重たい空気になった。
私も、必死になって何か、言葉を探した。
「でも、ホウオウビールさんってビール以外の飲料も出していた気が」
置物のようであった私が急に口を開いたため、カメダは目を大きく見開いた。
「いやぁ、でも本業に比べたら本当にノミのような事業だからねぇ」
雑巾のごとく振り絞られて出た勇気ある一声は、目にも鮮やかに撃沈した。
それから、また困惑と簡素な絶望に依る沈黙が流れた。
カメダが咳払いをすると、その暗さは一層増した。
大男は沈黙の中でこめかみをポリポリと掻くと、「じゃあ」と小さく言い、席を立とうとした。
その瞬間であった。
「あの!」
ドアが開くガチャ、という音と同時に声が上がった。席を外していたイシイの声だった。
「もう少し、様子を見てもいいんじゃないでしょうか」
汗だらけのイシイが、震えた声で言った。
たちまち、カメダの瞳孔が開く。
「何を言ってんの。イシイくん」
「僕は二、三年ですけど、フルタさんの横で、ラジオについて学んできました」
「……だから?」
イシイはカメダの方をしっかりと向いて続けた。
「彼らは、この番組は、これから伸びます」
彼の顔は、見たことがないほど真っすぐで、体中の筋肉が力んでいるのも伝わった。
カメダは、張り付いた笑顔のまま口を大きく開ける。
「……ははは。まさか君みたいな落ちこぼれに、そんなこと言われるとはね!」
男は強張った顔を振って、「でもさ」と続けた。
「そもそもこの番組いつまで続けるつもりなの? シイナさん」
「……当分は、続けるつもりです」
すると、シイナは席を立ち、深く礼をした。
「お願いします」
カメダは一瞬だけ、驚いた様子を見せたが、掛けていた眼鏡を一旦外し、ジェルまみれの髪を掻き上げた。
「フルタ君が辞めてから人が離れたって聞くけど、何か考えでもあるの?」
「それならあります!」
ハルカが立ち上がりながら、ドン、と机を叩いた。
私は驚いて目を奪われる。それは、イシイも、シイナも、カメダも同じだった。
「来週、もう一度ここに来てください」
重たかった空は、疎らなひつじ雲となり、灰色の部屋に薄く柔らかな日差しが映えだした。
♩♩♩
次の木曜は、夏が顔を出し始めた風気であった。
この日は一学期のテスト週間最終日でもあり、大抵の生徒は時間的・精神的束縛から解放された喜びで、今にも万歳三唱を始めそうな様子だった。
エーリヒ・フロムの言うように、人々は自由があるからこそ抑圧や制約が感じられ、一方で抑圧や制約があるからこそ自由を求めるのだと切に思った。
私も、一夜で脳に漬け込んだ数学の公式達が、虚空に流れ出て行く様を感じながら荷物をまとめていると、例のごとく、イガラシとマナカが近づいてきた。
「フクチ、テストどうだった?」
イガラシが言った。
だが、こういうことは、自分の結果に自信があるやつほど他人に聞くものである。
「大体いつも通りだろ」
「そうか」
「そもそも、自分よりも下のやつに聞くな」
「いや? 蓋を開けるまでは何もわからないだろ?」
「それよりも、マナカは大丈夫なのかよ」
私は指を差して聞く。
「よし! フクチ、ラジオ局行くぞ!」
時として、彼は会話が成立しない。
「……お前が何しに行くんだよ」
突拍子もない提案に私が返すと、マナカはきょとんとした。
「あれ、お前聞いてないのか……まぁ、説明するのも面倒くさいから、とにかく行くぞ!」
彼はそう言って、私の肩に手を回してきた。
私がそれを振りほどくと、横にいたイガラシが巨大なエナメルバッグを肩にかけ、「じゃあ俺は部活行くわ」と笑って教室を出て行った。
学校からラジオ局までは、徒歩と地下鉄一本で三十分ほどの距離だった。
テスト明け。ほとんど徹夜の頭で電車に揺られていると、車両の出すノイズが子守歌のように聞こえた。
マナカは電車に乗ってから、黒いヘッドホンで何かを聴いていた。試験週間の最終日にどうしてそんなに血色が良いのかを聞こうとも思ったが、どうせロクな答えではないので私は瞼を閉じた。
電車は細長い闇の中を走り続けた。
「フクチ! 急げ!」
目的の駅に着くと、マナカは肩に掛けたギターケースを諸共せず、私を急かした。
「ところで結局、何のためにラジオ局に来たんだ。お前も僕も」
マナカの早足に付き合いながら、私は尋ねた。
「あぁ。なんかアレあるだろ。俺らの曲、流してもらってるやつ」
灰色のビルと人を抜けて、順路を進む。
「『スーパー・ソニック』のことか?」
目抜き通りに生やされた街路樹が窮屈そうに見える。
「そうそう。それで、今週は俺らのバンドの曲を流してもらえる予定だったんだよ」
局に着いた。マナカは見知った顔のように守衛に「こんにちは!」と言った。
ずかずか進みながら、マナカは話を続けた。
「だけどさ、やっぱCDで流すんじゃパワーに限界があるんだよ」
空のエレベーターに乗る。
「十分すごい曲だと思ったけど、そんなもんなのか」
エレベーターを出ると、適当に置かれた観葉植物が居心地悪そうに佇んでいる。
「それで色々考えたんだけどさ」
いつものスタジオの前に着いた。
「スタジオで生演奏するってことになったんだ!」
マナカは得意げに五〇五スタジオの看板を親指で指して見せた。
「うす」
マナカが扉を開けると、ハルカがミキサーの前の椅子に泰然と座っていた。
「遅い!」
彼女の体の向く方、ブースの中に目をやる。
そこには、ギター・べース・ドラムの男三人と、キーボードの前に立つカナタ、そしてイシイの姿があった。
マナカもギターケース以外の荷物を放って、その中に飛び込んだ。
「……何してるのこれ」
台本を片手に持ち、腕組みするハルカに尋ねた。
「見れば分かるでしょ。練習よ」
防音ガラスの向こうでは、イシイがマナカ達に何か話しているのが見える。
「カナタさん、もいるんだ」
「あの子は鍵盤もいけるから、サポートでね」
立ち尽くしている私に、ハルカは台本を渡してきた。
「ちょっと他の予定詰めてあるから、目通しといて」
台本の一ページ目。目次の「全体の流れ」に、手書きの修正が施されていた。
「ここで演奏するって言ってたけど、本気でやるのか」
「いいアイデアでしょ。ちょっと手狭で申し訳ないけど」
ハルカはそう答えながら、ブース内の音がスタジオにも聞こえるようになんらかのレバーを上げた。
「生の爆音を響かせて、あのおっさんをぶっ飛ばす」
向こうの世界にいる彼らは、目を輝かせながら相棒の楽器を響かせていた。
「……というか、これ僕要る?」
休憩に入ったのか、ブースから楽隊とイシイが戻ってきた。
イシイは首にかけた白いタオルで、大粒の汗を拭いながら、私の横に座った。
「フクチ君、前はごめんね。ちょっとお話がしたくて」
調子が狂うほどの、腰の低さだった。
「……いえ」
私が首を振ると、彼は水を大きく飲んだ。
「どう? ADには慣れた?」
「なんとか。まだ、イシイさんのマニュアル頼りですけど」
イシイは自分のことのようにホッとした顔を見せた。
「あと、ハルカと上手くやれてる?」
「それは……どうなんですかね」
あからさまに困っている私を見て、彼は「はは」と笑った。
「イシイさん、あのビール会社に行くんですか?」
私は、彼に聞きたかったことを聞いた。
「あぁ、まぁインターンだけどね」
「てっきり音楽とかラジオ関係の仕事に就くものだと思っていました」
私は言った。はっきりと声にしてから、酷く失礼なことを言っているように思った。それは、イシイのもつ話し易さのせいだと思う。
彼は言葉を受けて、体面悪そうにまた笑った。
「……結構、やりたいこととやれることって離れていること多いんだよね」
視線を映すと、楽団が譜面を見ながら議論をしていた。
その熱に当てられ、私は少し息苦しくなった。
「うまくいくといいね」
横でイシイがボソッと呟いた。
「こんなことで、カメダの考えが変わりますかね」
「さぁ。神のみぞ知るってとこだね」
そう言って、イシイはペットボトルを机に置き立ち上がった。
「でも、マナカ君達も一週間、これだけ頑張ったんだから、報われてほしいな」
「そう……ですかね」
聞き耳を立てていたのか、マナカがこちらを振り返り「任せろ」と言わんばかりに親指を立てた。
「……一週間って、マナカ、お前の中間テストどうなっているんだ」
皐月の最終週。夏の影が近づいても、日はまだ短かく感じられた。
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