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2章
人柱は水を一所に留めた
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ああ、私、もうだめなんだ。
目の前の黒黒とした穴を見て、そう思った。これで雨が降るのであれば、大蛇に喰われるくらい、なんてことはないと思っていたのに。
後悔でいっぱいになりながら、瞼を閉じる。
普通の女の様に、男性と共に生きてみたかった……。
瞼の裏を、私の生きてきた軌跡が駆け抜けていく。
私は、九人兄弟の末子だった。物心がついた頃には、寺の見習いになっていた。
私の師は僧兵として、数多の妖怪と戦い、化かしあい、打ち勝ってきた人だった。弟子の中で、彼の知識を受け継げる才能を持つのは、私だけだった。彼は私に全てを教えた。私は、師の膝の上で、隣で、後ろで、彼の知恵を学んだ。妖避けの術、変化を見破る術、人を癒す呪術。斥けることのできる妖怪、できない妖怪。私は、火車避けの札を作るのが得意だった。
年頃になれば、やっぱり普通の女の子のように夫を得て家族が欲しいとも思った。けれど、私は運が良くないのか、還俗する機会を逃し続けてしまった。今では、若い娘とも言えない。
「すまないなぁ。お前はもとは行儀見習いだったのだし、俗世間に戻りたいというのなら戻してやりたいのだがなぁ。呪術の才がありすぎる」
「私が還俗するのは難しい、ということですか」
師は憂いをたたえたまま頷いた。
「ならいっそのこと、呪術の道を極めたいと存じます。都へ、奉公に出してください。必ずや、もっと役に立つ呪術師になって参ります」
四年の研鑽を経て、私は帰ってきた。確かに都は栄えていたが、私の中に強い印象は残さなかった。去り際に、同僚に都でも働けると引き留められたが、村の為に力を使う以外の道は考えなかった。
ずっと村にいて、皆の力になります。
そう言うと、師は複雑そうにしながらも喜んだ。盛りを過ぎた女が還俗しても、貰い手も見つからないとわかっていたから。
長い板張りの廊下、清貧の着物、慎ましい食事。線香の香りと経を読む朗朗とした声の流れる寺が、私の世界だった。
そう、数刻前までは。
そしてそれを、後悔したこともなかった。
今までは。
きっかけは、村が未曾有の干ばつに襲われたことである。水源である川に眠る蛇に捧げ物をし、目覚めさせることが出来れば、村の遍く道は水に満ちるだろうと、それが占いの結果だった。行ったのが私だから、まず間違いないだろうという事になった。
私は自らが正しく読み解くことが出来たか不安で、師に教えを仰ごうとした。一度行った占いをやり直したり、結果を疑うことは、やってはいけない事だった。わかっていたのにそうしてしまったのだから、私はどうかしてたに違いない。
まずは残り少ない米を捧げた。昨年から残る、僅かばかりの蓄えから。
しかし、雨は降らず、川もますます水が少なくなり、干上がらんばかりとなった。
次に、酒を捧げた。これで少しばかり川には水が増えたように見えたが、作物を育てられるほどにはならない。
話し合って、人柱を立てようという事になった。しかし、村に若い娘や子供はほとんどおらず、彼女らの命を散らすのはあまりに惨い。
私は引き留める声を無視し、今や巨大な竪穴と化した泉に降り立った。まだ微かに湿り気は残っていて、土のにおいがする。
淵に残った師から受け取った祭具一式を持って、竪穴の中心で祈る。私が呪術師だから、一人で全ての儀式をやってしまえる。
祝詞を唱えるうちに、空がふっと暗くなった。額を水滴がポツリと打った。成功だと思った。構わずに唱え続けた。唱え終わって、上を向いた。
蛇が、ありえないほどに大きな蛇が、私を見下ろしていた。鬼灯の眼を光らせて、水面のような深く神秘的な鱗を纏って。その口は私など簡単に平らげるだろう。胴の太さは七尺はあると思われた。
象牙色の牙からは冷たい水が滴り落ち、黒々とした洞穴のような口を、ますますそれらしくしていた。
そう、私は死ぬのだ。
暗闇の凝った喉が近づく、たった数秒の間に湧いてきた実感に、目の縁が滲んだ。眼前に差し迫った終わりが、私の後悔を浮き彫りにした。
そうして、私は暗闇に呑み込まれた。
光の下に出た時、私はそこが浄土だと思った。
静かな林には白い光が差し込んでいて、清涼だった。初冬の朝を思わせる空気。
『起きたか、小娘。折角寝ておったのに起こしよって』
蛇の口から、食いしばった歯の間から鋭く息を吐き出したような音が漏れる。なのに、人の言葉に聞こえるのが不思議だった。
いや、そうでもあるまい。水のような鱗、鬼灯の眼を持つ巨大な蛇、都の書物で読んだことがある。
水霊だ。人には祓えない大妖怪。
私は、言葉を失った。まさか、この目で見る日が来ようとは。
『人の供物とやらは面倒だなぁ。すっかり目が覚めてしまった。だが、お前達が儂を起こしたのだから、仕方あるまいよ』
水霊は、私を覗き込んだ。瞳は、間近で見ると内側から赤く光っていると知れた。本当に鬼灯の実のようだ。
『怯えておるのか』
そう囁いた次の瞬間、蛇の鱗が熔け、変化した。鬼灯の眼はそのままに、鱗は溶け合い、小さくなった頭から流れ、胴に巻きついた。片方の牙は抜け落ち、鱗の塊から出てきた手がそれを掴んだ途端、一振の刀となった。
現れたのは、川のような掴みどころのない黒髪と鬼灯の双眸をした、大層美しい若い男であった。
変化か、いや、化身と言うべきか。
男は、指さす。
「あちらの方向は」
形の良い唇から出てきたのは、人の言葉である。
「お前がいた村だ。もうあちらに戻すことは出来ぬ」
ついで、別の方向を指す。
「あちらに行けば、人里がある。先日、村の呪術師が死んだばかりだ。お前を迎え入れてくれよう」
水霊の態度は超然としており、私を呪術師ではなくただの人間として、取るに足らない存在として見ていた。水を操る蛇にとって、人間は皆同じ、取るに足らない存在なのだ。
水霊は背を向けて去って行く。先程指さした内の、どちらでもない場所へと。
気づいた時には、その服の袖を握っていた。
「まだ何か用か」
「あの、私と一緒にきてくれませんか」
「ほう……面白いことを言う女だ」
水を操り、最後には濁してしまう妖怪は、その紅い瞳を細くして笑った。
目の前の黒黒とした穴を見て、そう思った。これで雨が降るのであれば、大蛇に喰われるくらい、なんてことはないと思っていたのに。
後悔でいっぱいになりながら、瞼を閉じる。
普通の女の様に、男性と共に生きてみたかった……。
瞼の裏を、私の生きてきた軌跡が駆け抜けていく。
私は、九人兄弟の末子だった。物心がついた頃には、寺の見習いになっていた。
私の師は僧兵として、数多の妖怪と戦い、化かしあい、打ち勝ってきた人だった。弟子の中で、彼の知識を受け継げる才能を持つのは、私だけだった。彼は私に全てを教えた。私は、師の膝の上で、隣で、後ろで、彼の知恵を学んだ。妖避けの術、変化を見破る術、人を癒す呪術。斥けることのできる妖怪、できない妖怪。私は、火車避けの札を作るのが得意だった。
年頃になれば、やっぱり普通の女の子のように夫を得て家族が欲しいとも思った。けれど、私は運が良くないのか、還俗する機会を逃し続けてしまった。今では、若い娘とも言えない。
「すまないなぁ。お前はもとは行儀見習いだったのだし、俗世間に戻りたいというのなら戻してやりたいのだがなぁ。呪術の才がありすぎる」
「私が還俗するのは難しい、ということですか」
師は憂いをたたえたまま頷いた。
「ならいっそのこと、呪術の道を極めたいと存じます。都へ、奉公に出してください。必ずや、もっと役に立つ呪術師になって参ります」
四年の研鑽を経て、私は帰ってきた。確かに都は栄えていたが、私の中に強い印象は残さなかった。去り際に、同僚に都でも働けると引き留められたが、村の為に力を使う以外の道は考えなかった。
ずっと村にいて、皆の力になります。
そう言うと、師は複雑そうにしながらも喜んだ。盛りを過ぎた女が還俗しても、貰い手も見つからないとわかっていたから。
長い板張りの廊下、清貧の着物、慎ましい食事。線香の香りと経を読む朗朗とした声の流れる寺が、私の世界だった。
そう、数刻前までは。
そしてそれを、後悔したこともなかった。
今までは。
きっかけは、村が未曾有の干ばつに襲われたことである。水源である川に眠る蛇に捧げ物をし、目覚めさせることが出来れば、村の遍く道は水に満ちるだろうと、それが占いの結果だった。行ったのが私だから、まず間違いないだろうという事になった。
私は自らが正しく読み解くことが出来たか不安で、師に教えを仰ごうとした。一度行った占いをやり直したり、結果を疑うことは、やってはいけない事だった。わかっていたのにそうしてしまったのだから、私はどうかしてたに違いない。
まずは残り少ない米を捧げた。昨年から残る、僅かばかりの蓄えから。
しかし、雨は降らず、川もますます水が少なくなり、干上がらんばかりとなった。
次に、酒を捧げた。これで少しばかり川には水が増えたように見えたが、作物を育てられるほどにはならない。
話し合って、人柱を立てようという事になった。しかし、村に若い娘や子供はほとんどおらず、彼女らの命を散らすのはあまりに惨い。
私は引き留める声を無視し、今や巨大な竪穴と化した泉に降り立った。まだ微かに湿り気は残っていて、土のにおいがする。
淵に残った師から受け取った祭具一式を持って、竪穴の中心で祈る。私が呪術師だから、一人で全ての儀式をやってしまえる。
祝詞を唱えるうちに、空がふっと暗くなった。額を水滴がポツリと打った。成功だと思った。構わずに唱え続けた。唱え終わって、上を向いた。
蛇が、ありえないほどに大きな蛇が、私を見下ろしていた。鬼灯の眼を光らせて、水面のような深く神秘的な鱗を纏って。その口は私など簡単に平らげるだろう。胴の太さは七尺はあると思われた。
象牙色の牙からは冷たい水が滴り落ち、黒々とした洞穴のような口を、ますますそれらしくしていた。
そう、私は死ぬのだ。
暗闇の凝った喉が近づく、たった数秒の間に湧いてきた実感に、目の縁が滲んだ。眼前に差し迫った終わりが、私の後悔を浮き彫りにした。
そうして、私は暗闇に呑み込まれた。
光の下に出た時、私はそこが浄土だと思った。
静かな林には白い光が差し込んでいて、清涼だった。初冬の朝を思わせる空気。
『起きたか、小娘。折角寝ておったのに起こしよって』
蛇の口から、食いしばった歯の間から鋭く息を吐き出したような音が漏れる。なのに、人の言葉に聞こえるのが不思議だった。
いや、そうでもあるまい。水のような鱗、鬼灯の眼を持つ巨大な蛇、都の書物で読んだことがある。
水霊だ。人には祓えない大妖怪。
私は、言葉を失った。まさか、この目で見る日が来ようとは。
『人の供物とやらは面倒だなぁ。すっかり目が覚めてしまった。だが、お前達が儂を起こしたのだから、仕方あるまいよ』
水霊は、私を覗き込んだ。瞳は、間近で見ると内側から赤く光っていると知れた。本当に鬼灯の実のようだ。
『怯えておるのか』
そう囁いた次の瞬間、蛇の鱗が熔け、変化した。鬼灯の眼はそのままに、鱗は溶け合い、小さくなった頭から流れ、胴に巻きついた。片方の牙は抜け落ち、鱗の塊から出てきた手がそれを掴んだ途端、一振の刀となった。
現れたのは、川のような掴みどころのない黒髪と鬼灯の双眸をした、大層美しい若い男であった。
変化か、いや、化身と言うべきか。
男は、指さす。
「あちらの方向は」
形の良い唇から出てきたのは、人の言葉である。
「お前がいた村だ。もうあちらに戻すことは出来ぬ」
ついで、別の方向を指す。
「あちらに行けば、人里がある。先日、村の呪術師が死んだばかりだ。お前を迎え入れてくれよう」
水霊の態度は超然としており、私を呪術師ではなくただの人間として、取るに足らない存在として見ていた。水を操る蛇にとって、人間は皆同じ、取るに足らない存在なのだ。
水霊は背を向けて去って行く。先程指さした内の、どちらでもない場所へと。
気づいた時には、その服の袖を握っていた。
「まだ何か用か」
「あの、私と一緒にきてくれませんか」
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