爺ちゃんの時計

北川 悠

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お誕生会

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 ベッドから起き上がり、窓を開けると、湿った潮の香りを感じた。
 海岸線が埋め立てられてから、ここでこの香りを嗅ぐことはなくなった。だが、今日は感じたのだ。気のせいかもしれない。潮の香りを感じる時。それは自分にとって特別な日であった事が多い。
 美代子は目を閉じて昔を思い起こした。女学校に合格した日、聡一を埋葬した日、敏子との最後の日もこの匂いを嗅いだ。そして、運命のあの日も……その後、松子が大学に合格した日、更には二十年ぶりに靖彦にあった日もそうだった。気のせいだろう、そんな事は分かっている。でもこの潮の香りと共に歩んできた。そして、その歩みも今、終わりを迎えようとしている。
 美代子の人生は戦争に翻弄された。戦争によって家を失い、家族を失い、友人を失い、そして恋人を失った。戦争は何も与えてくれない。ただ奪っていくだけだった。
 戦後の十年は長野で百姓をして暮らし、千葉に戻ってからも、がむしゃらに働いた。時は移り変わり、平成の世になって十六年が経った。
 娘の松子は大学を出ると教員になり、同じく教員である床枝猛と結婚した。そして二人の孫の顔も拝む事ができた。頑張って未来に繋げた命が広がったのだ。そして今日はなんと、ひ孫の四歳の誕生日である。
 松子を産んで良かった。自分の育んだ命が、世代を超えて受け継がれていく。今まで、あまり感じた事も思った事も無かったが、自分の命が閉じようとしている今、はっきりと実感できる。
 美代子にはやらねばならない事があった。自分の命が尽きてしまう前に伝えておかねばならない事がある。これが正に運命と言える事なのかもしれない。なぜなら、その事を今まで忘れていたからだ。そんな大事な事をなぜ、忘れていたのかわからない。本当に今、思い出したのだ。それと同時に自分の死期を悟った。
 美代子は松子を呼んだ。
「まっちゃん、今日は潮の香りがするわね」
「またそれ? じゃあ今日は何があるの?」
「秀美のお誕生日じゃない」
「そうね。秀美は四歳だから、後二十年もすれば玄孫が見られるかも。だから早く良くなってね」
 そう言って松子は部屋の窓を閉め、母の布団を直した。
 玄孫どころか今日この日、秀美の四歳の誕生日まで、もたないかもしれないというのが医師の見解であった。
 美代子の病気が末期癌だと知らされたのはつい三カ月前の事だ。医師から、胃癌が転移していて、よく持って三カ月と言われたのだ。その事を家族には内緒にしていたのだが、頭の良い松子はすでに気づいているようである。
 美代子の死期を知ってか、松子が秀美の誕生日会を大々的に開くことにしたと言ってきた。
 松子は親戚や母の友人に招待状を送ったのだ。
「お客様がいらしたら呼びに来るから、もう少し休んでいて」
「まっちゃん。ありがとう。貴女を産んで本当に良かった……」
「お母さん、どうしたの? 今生の別れじゃあるまいし」
 美代子はそう言った松子の手を掴んで引き寄せた。
「松子。これからする話は決して他言してはダメよ。猛さんにも内緒よ」
「えっ何? 改まって。そんな重要な話?」
 美代子は一通の封筒を松子に渡した。それは茶色く変色し、かなり古そうな封筒だった。
「私が死んだら、読みなさい」
「何? どういう事? 何が書いてあるの?」
「貴女は頭がいいから、そこに書いてあることは信じられないでしょう。不思議なことに私も今の今までその封筒の事は忘れていたのよ。ほんとうに不思議。でも本当の事……大丈夫、貴女もすぐ、この封筒の事は忘れるわ。そして、その日が来たら思い出すの。お願いね」
 何の事か分からなかったが、松子は母に言われるまま、その封筒を受け取った。
 その日、美代子は集まってくれた人達と幸せな時を過ごした。
「まっちゃん、猛君、今日は本当にありがとね」
「なあに、あらたまって」
 松子はきょとんとして見せた。
「春菜ちゃんはちょっとばかしシャイだけど、私と話をする時はとってもいい子よ。だから突き放しちゃダメ」
「解っているわよ。そんな事、今言わなくてもいいでしょ」
「私は幸せだった。皆に囲まれていい人生だったわ。ありがとう」
「だから、そんな事は今言う事じゃないでしょ」
「そうね。何だか今日は嬉しくて」
 美代子はそう言って自分の寝室に引き上げていった。
 翌朝、松子が美代子の部屋に行くと、部屋の窓が少し開けられていた。潮の香りがする。
 母、美代子はベッドの中で亡くなっていた。まだ暖かかった
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