21 / 44
松子と晴彦
しおりを挟む
母が出かけた後、松子は一人で店番をしていた。あえてお店にいる必要はなかったが、休日で誰もいない店内は静かで落ち着くので、母が戻るまでここで読みかけの本を読む事にした。
母と二人、長野から千葉に来て十年が経った。千葉はとても暮らしやすい。バスにもすぐ乗れるし、お店も沢山ある。でも、あのアルプス山脈と透き通った空気、裸足で遊んだ記憶を今でも思い出す。
松子は籐の椅子にもたれ、本を読みながら、うつらうつらとしていた。
遠くでガラス戸を叩く音がする。はっと我に返り戸口を見ると、刷りガラス越しに杖をついた男性が見える。
「すみません。今日はお休みなので、豆餅しかありませんが」
戸を開けながら松子は言った。
男性はしっかりとした身なりで、紳士という言葉がふさわしかった。歳は四十歳前後だろうか。右足はかなり不自由そうで、一歩歩くのにも時間がかかっている。松子は彼に椅子を進めた。
「いえ、大丈夫です。お構いなく。お休みのところ失礼致しました。こちらは松野美代子さんのお店でしょうか?」
「はい。そうですが、母に御用ですか?」
「申し遅れました。わたくし、松下靖彦と申します。お母様はご在宅でしょうか?」
そう言うと男性は杖を置き、片足でバランスを保ちながら胸ポケットから名刺を取り出して松子に渡した。とても丁寧な態度と口調だった。名刺には【松下英会話学校 校長 松下靖彦】と印刷されていた。住所は東京だ。学校の先生?
「ただいま母は出掛けておりますが、もうすぐ戻ると思いますので、お待ち頂けますか」
「よろしいのですか」
「はい」
松子はその紳士に再度、椅子を勧めた。
押し売りが多いと聞いていたので、普段の松子なら母は不在だといって、追い返すところだが、彼は至って紳士であったし何より英会話学校の校長と聞いてがぜん興味が沸いたのである。
松子が彼の仕事について聞くと、ビジネス英会話が主な生業で、講師にはアメリカ人もいるという。最近では商社社員の海外派遣も多く、需要はあるのだと説明されたが、それは彼の身なりが既に証明している。
自分は今、W大学の学生だと言うと、彼は驚き、松子を褒めたたえた。そして、これからは女性がどんどんと社会に進出する時代がくる。女性でなければ、それも優秀な女性でなければ出来ない仕事は沢山あると熱弁した。
松子の中で、この紳士の株は更に上がった。彼は松子のリクエストに応え、英語でここに来た理由を説明してくれた。それによると、彼は昔、千葉市に住んでいて、松子の母、美代子は自分の元婚約者の親友だったという。
戦争では右足を負傷したが生きて帰る事が出来た。千葉に戻ると自分の家も美代子の家も空襲で無くなっていて、美代子がどこにいるのかは解らなかった。だがつい最近、彼女が稲毛で家業を継いでいると聞いたので訪ねてきたのだという。そして最後に、貴女のお母さんはとても聡明な人だったと付け加えた。
松子が彼の話を翻訳すると、彼はグレイト! と言って褒めてくれた。
母と二人、長野から千葉に来て十年が経った。千葉はとても暮らしやすい。バスにもすぐ乗れるし、お店も沢山ある。でも、あのアルプス山脈と透き通った空気、裸足で遊んだ記憶を今でも思い出す。
松子は籐の椅子にもたれ、本を読みながら、うつらうつらとしていた。
遠くでガラス戸を叩く音がする。はっと我に返り戸口を見ると、刷りガラス越しに杖をついた男性が見える。
「すみません。今日はお休みなので、豆餅しかありませんが」
戸を開けながら松子は言った。
男性はしっかりとした身なりで、紳士という言葉がふさわしかった。歳は四十歳前後だろうか。右足はかなり不自由そうで、一歩歩くのにも時間がかかっている。松子は彼に椅子を進めた。
「いえ、大丈夫です。お構いなく。お休みのところ失礼致しました。こちらは松野美代子さんのお店でしょうか?」
「はい。そうですが、母に御用ですか?」
「申し遅れました。わたくし、松下靖彦と申します。お母様はご在宅でしょうか?」
そう言うと男性は杖を置き、片足でバランスを保ちながら胸ポケットから名刺を取り出して松子に渡した。とても丁寧な態度と口調だった。名刺には【松下英会話学校 校長 松下靖彦】と印刷されていた。住所は東京だ。学校の先生?
「ただいま母は出掛けておりますが、もうすぐ戻ると思いますので、お待ち頂けますか」
「よろしいのですか」
「はい」
松子はその紳士に再度、椅子を勧めた。
押し売りが多いと聞いていたので、普段の松子なら母は不在だといって、追い返すところだが、彼は至って紳士であったし何より英会話学校の校長と聞いてがぜん興味が沸いたのである。
松子が彼の仕事について聞くと、ビジネス英会話が主な生業で、講師にはアメリカ人もいるという。最近では商社社員の海外派遣も多く、需要はあるのだと説明されたが、それは彼の身なりが既に証明している。
自分は今、W大学の学生だと言うと、彼は驚き、松子を褒めたたえた。そして、これからは女性がどんどんと社会に進出する時代がくる。女性でなければ、それも優秀な女性でなければ出来ない仕事は沢山あると熱弁した。
松子の中で、この紳士の株は更に上がった。彼は松子のリクエストに応え、英語でここに来た理由を説明してくれた。それによると、彼は昔、千葉市に住んでいて、松子の母、美代子は自分の元婚約者の親友だったという。
戦争では右足を負傷したが生きて帰る事が出来た。千葉に戻ると自分の家も美代子の家も空襲で無くなっていて、美代子がどこにいるのかは解らなかった。だがつい最近、彼女が稲毛で家業を継いでいると聞いたので訪ねてきたのだという。そして最後に、貴女のお母さんはとても聡明な人だったと付け加えた。
松子が彼の話を翻訳すると、彼はグレイト! と言って褒めてくれた。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。

アレンジ可シチュボ等のフリー台本集77選
上津英
大衆娯楽
シチュエーションボイス等のフリー台本集です。女性向けで書いていますが、男性向けでの使用も可です。
一人用の短い恋愛系中心。
【利用規約】
・一人称・語尾・方言・男女逆転などのアレンジはご自由に。
・シチュボ以外にもASMR・ボイスドラマ・朗読・配信・声劇にどうぞお使いください。
・個人の使用報告は不要ですが、クレジットの表記はお願い致します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる