爺ちゃんの時計

北川 悠

文字の大きさ
上 下
12 / 44

美代子の想い

しおりを挟む
 
 敏子ちゃんが死んじゃった。
 別れる時に抱き合った彼女の肌の感覚がまだ残っている。彼女の遺体は右腕がちぎれて無くなっていた。それでも顔は綺麗なままだった。聡一は……聡一の遺体は母が見せてはくれなかった。父親も焼け焦げて遺体の判別が困難だったという。
「ねえ、どうして、どうしてみんな死んじゃうの? どうしてお父さんや聡ちゃんが死ななきゃいけないの? どうして敏子ちゃんが死ななきゃいけないの? どうして戦争なんてしなきゃいけないの……」
 美代子は泣いた。声を荒げて泣いた。
「なんで、なんで日本の飛行機は来なかったの? ここは日本でしょ? ねえ、そうでしょ? なんで? なんで? 日本の軍隊は世界一だって、ねえ、お母さん違うの? いったいどこで何をしていたの? どうして助けてくれなかったの? ねえ、誰か教えてよ。私だって、もう死んじゃいたいよ」美代子は泣き続けた。父親が死んだ時も、聡一の死が告げられた時も歯を食いしばって耐えた。泣き崩れる母の肩を抱き、自分がしっかりしなきゃと言い聞かせた。でも、もう耐えられない。
 和子はぐっと美代子を抱き寄せた。
「美代子、お前は生きている。進も生きている。頑張ろ。美代子、頑張ろ。もう少しだけお母さんと健二と頑張ろ。死にたいなんて言っちゃだめ」
 泣き崩れている美代子を抱きながら和子も涙を流した。
 隆三は静かに立ち上がり、仏壇の引き出しから一枚の紙を取り出した。
「和子、このままここで子供達と暮らしなさい」
 そう言って和子の父、隆三が差し出した紙は兄の死亡告知書だった。
「つい先だって届いた。丁度お前に報告しようと思うちょったんだが、幸成君と聡一があんな事になってしまったから……」
 和子の兄、隆志は海軍士官として巡洋艦に搭乗していたが、今年五月ペナン沖の海戦で戦死したというものだった。
「兄さん……兄さんも逝かれてしまったのですね……」
 いつの間にか和子の母も美代子を抱きしめていた。
「絹子さんはなんて? 登紀子は? 武は?」
 絹子は和子の兄、亡くなった隆志の嫁で、十二歳の節子と十歳の博という二人の子供がいる。登紀子は和子の妹で武は弟だ。
「登紀子は宮島家の嫁だし、武も独立しているから心配ない。絹子さんはここで、この川島家で子供達を育てると言ってくれた。そして、お前達の同居を提案したのも絹子さんだよ。和子、ここで暮らしなさい」
「ありがとう……ありがとう……」

 美代子はその晩、秀則に宛てて手紙を書いた。
前回、彼から届いた手紙。今生の別れとも受け取れる手紙を手にして以来、諦めるよう努力してきた。もう手紙も送ってはいけないのだと自分に言い聞かせてきたが、今日はもう我慢が出来なかった。
 美代子が初めて秀則に会ったのは四年前だった。饅頭屋を営んでいた松野家は、金物問屋である相良金物店と昔から付き合いが深かった。当時、相良金物の当主は手広く商売を展開していて、大豆や小豆、小麦粉、米粉なども取り扱っていた為、松野家はお得意様だった。
 その日、頼まれていた修理が終わったといって、鍋を届けにきたのは相良家の長男、秀則だった。
 和子は、秀則がW大学の学生だと聞くや、彼に美代子と聡一の家庭教師を頼んだのである。
父母共に学は無かったが、美代子は学校の成績が良かった。当時は商売もうまくいっていた為、少しばかりの余裕はある。なので、子供達には上の学校まで行かせてやりたいという思いがあったのだろう。もちろんお給金は支払うし、休日などの来れる時で構わないという条件だった。和子の申し出に対して秀則は快く、しかも無償で引き受けてくれたのだ。今思えば、父親の商売の取引相手のお宅だからだったのかもしれない。しかし、秀則は思った以上に松野家を訪れ、二人に勉強を教えてくれた。
 最初は恥ずかしがっていた美代子だったが、回を重ねる事に聡明で優しい秀則に惹かれていった。
 美代子と秀則は六つ離れていたが、美代子が早熟であった為、街では恋人同士に間違われる事もしばしばであった。
 二人の仲は急速に進展した。とは言っても戦乱の世の中である。恋人同士のように交際をしていた訳ではない。せいぜい二人で公園の椅子に座って話しをする程度であった。それでも美代子は嬉しかった。とても幸せだったのだ。しかし、そんな僅かな幸せの時をも戦争は無情に切り裂いた。学徒出陣である。
 昭和十八年、それまで徴兵猶予されていた大学生にも入隊や出征が義務付けられたのである。
十月。美代子は、明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場跡地)で開かれた出陣の壮行会を見に行った。そしてその日の夜、初めて秀則と口づけをした。

 あれが、最初で最後の口づけになるなんて……

 あの時は嬉しくて飛び上がりそうだった。初めて秀則さんの気持ちを確かめる事が出来た。軍隊に入ったからと言って死ぬわけではない。学徒出陣で入隊した士官候補生が、いきなり前線に飛ばされるはずはない。そう聞いていたので美代子は安心していた。
 美代子は手紙を書いた。何通も、何十通も、その度に秀則は必ず返事をくれた。軍隊での日常や初めてできた親友の事。時には家庭教師の延長で、歴史や数学の問題を書いてくる事もあった。
 幸せだった。離れていても繋がっている。そう感じることができた。ところが半年前、突然あんな手紙がきたのだ。もう終わりにしよう。手紙のやり取りもこれが最後だと……
 秀則さん。何があったの? 何をしているの? 先日の空襲で相良金物店は美代子の家と同様、燃え尽きてしまったと聞いた。ご家族はどうしたのだろう? 無事なの?
 返事はもらえなくてもいい。それでも美代子は手紙を書かずにはいられなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

09部隊、祠を破壊せよ!

doniraca
大衆娯楽
山奥にある蛹女村(さなぎめむら)――だがそこは怪異に蝕まれていた。 異常な村人たち、謎の邪神、09部隊は元凶となる祠を破壊するために潜入する! さらに、サヤという名の少女まで加わって……?

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

声劇・シチュボ台本たち

ぐーすか
大衆娯楽
フリー台本たちです。 声劇、ボイスドラマ、シチュエーションボイス、朗読などにご使用ください。 使用許可不要です。(配信、商用、収益化などの際は 作者表記:ぐーすか を添えてください。できれば一報いただけると助かります) 自作発言・過度な改変は許可していません。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

半官半民でいく公益財団法人ダンジョンワーカー 現代社会のダンジョンはチートも無双も無いけど利権争いはあるよ

大衆娯楽
世界中に遺跡、ダンジョンと呼ばれる洞窟が出現して10年という時が経った。仕事の遅いことで有名な日本では、様々な利権が絡みいまだ法整備も整っていない。そんな中、関東一円でダンジョン管理を行う会社、公益財団法人ダンジョンワーカーに入社する1人の少女の姿があった。夜巡 舞、彼女はそこでダンジョンの本当の姿を知る。ゲームの中のような雰囲気とは違う、地球の病巣ともいえるダンジョンと、それに対処する人々、そして舞の抱える事情とは。現代社会にダンジョンなんてあったってなんの役にも立たないことが今証明されていく。 ※表紙はcanva aiによって作成しました。

勇者の如く倒れよ ~ ドイツZ計画 巨大戦艦たちの宴

もろこし
歴史・時代
とある豪華客船の氷山事故をきっかけにして、第一次世界大戦前にレーダーとソナーが開発された世界のお話です。 潜水艦や航空機の脅威が激減したため、列強各国は超弩級戦艦の建造に走ります。史実では実現しなかったドイツのZ計画で生み出された巨艦たちの戦いと行く末をご覧ください。

処理中です...