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七夕空襲
しおりを挟むふうっと、海風が吹き抜けていく。
辺りに一瞬、潮の香りが漂った。美代子はこの匂いが好きだ。いや好きだった。今はお腹が空くだけだ。お腹いっぱい、ご飯が食べたい。お魚が食べたい。お父さんと一緒に釣りに行ったっけ……お父さん……
美代子は下の弟、進の手をしっかりと握って歩いていた。進はまだ八歳になったばかりであったが、泣き言一つ言っていない。そんな弟を見て自分が弱音を吐くわけにはいかなかった。
「もうすぐだから頑張って」
さっきからもう何度も聞いている母、和子の言葉だった。容赦なく照りつける夏の太陽。汗と涙が目に染みて痛い。首にまいた手拭いをほどいて進の汗を拭いてやった。
一番しんどいのは母だろう。自分は慣れているからと言い、八貫(三十キログラム)を超える荷物を背負って歩いているのだ。美代子は六貫(二十二・五キログラム)ほどだが、それでも辛くて倒れてしまいそうだ。
松野家は明治初期から続く老舗の饅頭屋だが、戦争で物資の調達が難しくなった為、一旦店を閉め、父親は工場に働きに出ていた。
そして先月、昭和二十年六月十日の空襲によって松野家は被災した。店はほぼ全焼だった。母屋はなんとか全焼を免れたが、とても安心して住めるような状態ではなかった。それでも上の弟、聡一の無事を願いながら、何とかそこで頑張ってきたのだが、先週ついに聡一の死亡が確認された。
松野和子の夫である美代子の父、幸成と、長男の聡一は蘇我の日立航空機千葉工場(現在のJFEスチール東日本製鉄所)で働いていた。B29はそこを狙ったのだ。当日は日曜の朝であったが、工場に向かう為、千葉駅周辺にいた二人は被災した。
美代子の通っていた女学校(当時は日立航空機の疎開工場)も空襲の被害をうけ、死傷者が出たが美代子は無事だった。母と進も壕に入って難を逃れる事が出来たが、父と聡一は犠牲となってしまったのだ。
父の遺体はすぐに確認されたが聡一は見つからなかった。なので、一縷の望みを抱いて半壊した家に住み続けていたのだが、とうとうその望みは叶わなかったのである。
そして今日、松野親子は和子の実家である川島家まで、荷物を担いで歩いて行く事になったのだ。
途中、女学校で同級生の敏子に出会った。美代子と敏子は幼馴染みで大の親友だ。彼女の家は美代子の家と近かったが、幸運にも空襲の難を逃れていた。今日は母親の薬をもらいに行った帰りだという。
「美代ちゃん大丈夫? 聡ちゃんの事聞いたよ」
敏子は心配そうに美代子の手を握った。
「うん……ありがとう。これから稲毛のおばあちゃん家に行くの」
「おばさん。ちょっとだけ、美代ちゃんとお話してもいいですか?」
「もちろんだよ。美代子、後から追いついてきなさい。先行って途中で待っているから」
「うん」
「敏子ちゃん。これからも美代子と仲良くしてあげてね」
「もちろんです。こちらこそお願いします。私、馬鹿だから美代ちゃんに勉強教えてもらわないと落第しちゃいます」
そう言うと敏子は舌を出して笑って見せた。
敏子はいつも明るい。海軍に志願した敏江の兄は昨年、南方で戦死したと聞いている。お兄ちゃん子だった敏子が受けたショックは計り知れない。それに母親は昔から病弱である為、事実上、敏子が一家の母親代わりとして頑張っているのだ。辛いはずだが、そんな事はおくびにも出さない。優しくて明るい頑張り屋さんだ。
「お父さんお母さんによろしくね」
そう言うと和子は進の手を引いて再び歩き始めた。
美代子は荷物を下ろしてその場にしゃがみ込んだ。どっと疲れが沸いてくる。相変わらず雲一つない晴天が憎らしい。
「ねえ美代ちゃん。秀則さんとはどうなの? 海軍だったわよね」
「どうって……秀則さんはお兄さんみたいなもので……」
「美代ちゃん秀則さんの事、好いているでしょ? あの方は誰が見ても素敵だものね。秀則さんも絶対に美代ちゃんを好いているわよ。私には分かるんだから」
半年前、学徒出陣で海軍に行った秀則から手紙が届いた。自分の事は忘れてほしい。そして必ず幸せになってほしい。そんな内容だった。
「それより、靖彦君は無事なの?」
靖彦は敏子の婚約者だ。公に婚約したわけではないが、靖彦に召集令状がきたその日に二人で結婚を約束したのだという。
「無事よ。南方戦線だけど、あいつは通信部だから前線で戦う事はないの。お調子者だし、上手くやっていると思うわ」
一時、そんな話をし、二人はきつく抱き合ってから別れた。敏子と別れた後、美代子は母と進を追って歩き続けた。
秀則さんに逢いたい。逢いたいよ……ただただ涙が溢れて止まらなかった。
その日の深夜、正確には七月七日の未明、一二九機のB29によって千葉市は爆撃を受けた。後にいう七夕空襲で、千葉市中心部は焼け野原となり、死傷者は千二百四人にのぼった。
当日、稲毛の川島家に移動した美代子達は難を逃れたが、敏子ちゃんの一家は空襲の犠牲となった。
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