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憧れの女性
しおりを挟む新一は、スコットに跨ると坂を一気に下った。
あれ程苦しみながら登った坂道も下りになるとまるで天国である。気持ちよく風を受けながら、一瞬で県道まで下りきった。これが自転車のだいご味である。県道に合流してからも車道を走り、高いギアで目一杯ペダルを踏んだ。
夕方だが、まだ気温は高く、汗が吹き出てくる。喉の渇きに耐えられなくなったので、最初のコンビニに寄って水を二本買った。一本目を一気に飲み干してから、広い駐車場の端まで移動して、灰皿の近くに座り込んだ。
煙草に火を点け一服する。体内にニコチンが染みわたっていく心地よさを感じながら、新一は爺ちゃんの話を思い出した。
大津島に行ってみよう。幸いな事に俺は今ニートだ。時間はいくらでもある。ネットの検索によると大津島には回天の記念館があるらしい。早い方がいい、爺ちゃんがまだ元気なうちに行っておきたい。
二本目のペットボトルに口をつけた時、一台のスクーターが近づいて来た。
「やっぱり新一さんだ。緑のマスカット」
ん? フルフェイスのヘルメットをしていたが声で分かった。床枝さんだ。
だから、葡萄じゃなくて……新一の自転車はライムグリーンのスコット(自転車のブランド)である。多分母親がそう教えたのだろう。それにしても、床枝さんもたいがいである。フレームに印字されたアルファベットはSから始まっているのに……SCOTTだ。
「このコンビニ、私よく帰りに寄るんです。アパートがすぐ近くだから」
そう言ってヘルメットを脱いだ床枝さんは、さっきホームで会った時とはイメージが随分違っていた。
白いジーンズに紺のカットソー、髪は長くてサラサラのストレートヘアー。ホームで見ている彼女は可愛らしい看護師さん。というイメージだが、こうして私服の彼女を見ると全く違って見える。明らかに美人だ。頭一つ抜き出た美人と言っても過言ではない。新一の頭の中で小さな警報が鳴った。ホームで床枝さんは髪を束ねている。それを解いただけで、こんなにイメージが変わるのか……
「あっ、すみません」
新一は慌てて煙草をもみ消した。
「えっ、あっいいんですよ。昔、父が吸っていたから、煙草の臭いは嫌いじゃないです」
「今は吸っていないんですか?」
新一の問いには答えずに床枝さんは続けた。
「新一さんのご家族って素敵ですね」
そう言って床枝さんは新一の隣に腰を下ろした。
心臓の鼓動が早くなった。憧れの女性が自分のそばにいる。それも僅か三十センチ程の距離に。どう考えたらいい? 少なくともこの状況は? 新一に好意を抱いている? イヤイヤ勘違いするな。今、警報が鳴ったばかりじゃないか。新一が無害だと確信しているから気を許しているだけだ。そうに違いない。
「素敵?」
新一は気を取り直して聞き返した。
「素敵です。お爺さんはお医者様で、お母様は優秀な看護師さん。お父様は警察官。それに、皆さん礼儀正しくて優しくて、わたし、いろんなご家族と接する機会が多いから分かるんです」
「爺ちゃんは死にそうだし、母親はキツいし、親父に至っては仕事人間で、家にいる事なんてほとんどありませんよ」
本当の事だった。ただ、母親とは仲がいいし、よき相談相手であるが、マザコンと思われたくなかったので、そう言っておいた。キツイというのは事実だから嘘をついているわけではない。
「羨ましいです」
「羨ましい? うちが?」
「はい。ホームにいらした時だって賢一さんのご家族は皆さん、他のご家族やお年寄り、そしてスタッフにも優しく気を使ってくださいますが、全てのご家族がそういうわけじゃないですよ。賢一さんのご家族は皆さん素敵です」
「僕は何にもしていませんよ」
「そんな事ないですよ。この前は佐久間さんと折り紙をしていたじゃないですか。それにタオル干しも手伝ってくれたって、師長さんが言ってましたよ」
新一は少し後ろめたくなった。佐久間の婆さんと折り紙をしたのも、タオル干しを手伝ったのも、そこにいれば床枝さんと会える確率が上がると思ったからだ。勿論、佐久間の婆さんと折り紙をする事は苦痛ではないし、年寄りと話すことも嫌ではないが。
「ねえ、新一さん。わたしってどう見えます?」
急な質問だった。どう答えれば正解なのだろう? 可愛いよ……イヤ違う。そういう事を聞いているんじゃないだろう。
「えらいと思います」
「えらい?」
「はい。若くて……えっと……そんなに素敵なのに看護師さんで……」
焦って自分が何を言っているのかわからなくなったが、新一はなんとか続けた。「いろんな職業があると思うけど、その中でも看護師って職業を選んでホームでお年寄りの世話をするって、誰にでも出来る事じゃないと思います。爺ちゃんも、あっ祖父も褒めていました」
「やっぱり新一さんって優しいんですね」
そう言って床枝さんは微笑んだ。
「わたし、今の仕事、気に入ってるんです。でも、たまに昔の癖が出ちゃって」
そう言うと床枝さんは舌を出して見せた。
「昔の癖?」
「わたし、昔ちょっとヤンチャだったんです。家庭にも問題はあったけど、高校も中退で……」
「えっ? そうなんですか?」
「でも一応、高校認定取って、それから看護学校に行ったんです。嫌いになりました?」
「全くそんな事はないですよ。てか、むしろ立派です」
少し驚いたが本当にそう思った。ニートの自分よりよっぽど偉い。
「ありがとうございます」
にこっと微笑んで床枝さんは続けた「父は働かない人で、厳密に言えば父ではなく母と同棲していた男性です。小さい頃は遊んでもらった記憶もあるんですけど、わたしが小学校五年生の時にその人は出ていきました。今も消息は分かりません」
「そうだったんですね……すみません……」
「謝らないで下さい。父がいなくなった事は全く気にしてません。そもそも母とは籍も入れていなかったし、わたしの本当の父ではないんです。本当の父が誰なのか母だってわからないんですよ。笑っちゃいますよね」
新一は何か言おうと必死に頭を巡らせたが、適当な言葉をみつける事が出来なかった。
「母は元々、男にだらしない性格で常に二、三人の男性と付き合っていました。わたしはそんな母との生活がイヤになって中学三年生の時に家出したんです。それで、みかねた祖母が稲毛の自宅に住まわせてくれて、高校にも行かせてくれたんですが、その恩を仇で返すようにわたしは勝手に学校を辞めちゃったんです」
「でも、今は立派な看護師さんじゃないですか」
本当の事だ。授業にも出ない大学に行って、今はニートの自分よりずっとしっかりしているのは間違いない。
「ありがとうございます。なんか変な話しちゃってすみません。わたしが言いたいのは、新一さんのご家族は素敵だなって。羨ましいって事です」
「俺は……僕は自分の仕事に誇りを持って、しっかりと自立している床枝さんが羨ましいです」
「そんなに褒めたって何も出ませんよ」
そう言って笑う床枝さんは本当に可愛いらしかった。こんな人が彼女だったらどんなに嬉しいだろう。床枝さんが彼女になってくれるのなら、どんな事だって我慢できるだろうと思った。
「あっ、そうだタオル」
新一はリュックから床枝さんのタオルを取り出した。爺ちゃんの時計をジーンズのポケットに入れて、ハイビスカス柄のフェイスタオルを畳んで床枝さんに差し出した。
「それ……」
「あっ、すみません。そうですよね、洗ってお返しします」
そうだよな、俺の汗が染みこんだ臭いタオルをそのまま返すのは失礼だ。それにタオルを返す口実で、もう一度床枝さんと話をする事が出来るじゃないか。
「違うんです。その時計……賢一先生の?」
「え、はい。今日、爺……祖父から貰ったんです」
「わたし、その時計の事、賢一先生からちょっとだけ聞いた事があるんです。戦争中に貰った物だって」
「うん。あ、はい。そうみたいです。祖父にいろいろ話を聞いて、俺……僕なりに考えてみたんですけれど、爺……いや祖父が元気なうちに大津島に行ってみようと思っているんです」
ダメだ……床枝さんを目の前にするとどうしても緊張する。
「新一さん。わたしに気を使わないで下さいよ。さっきの話も、男の人にあんな話したのは新一さんが初めてなんですよ」
ん? どういう事だ? 考えろ! 考えろ! 床枝さんは俺に好意を持っている? イヤそんな事あるわけないだろ。あんなに可愛いんだぞ。メチャメチャモテるに決まっている。俺がニートだって事は母さんから聞いているはずだ。この前、床枝さんに言ってやったって……畜生! 息子の恋路を邪魔しやがって。いや、それ以前に俺はお世辞にもイケメンとはいえない。いつだって安全牌なんだ。少なくともモテるタイプじゃない。
「わたし迷惑な事言っちゃいました? ごめんなさい」
「イヤイヤイヤそんな事ないです」
新一は思いっきり被りを振った。
「いつ行くんですか?」
「えっ?」
「えっ? 大津島ですよ」
「あっ大津島ね。うん、さっき決めたばかりなんですけど、直ぐにでも行こうかなと思ってます」
「あの……もし良かったらですけど、わたしも一緒に行ってもいいですか?」
「えっ?」
「あっダメですよね。賢一先生の想いですものね。すみません。何でもありません」
どういう事だ? 考えろ! 考えろ! 今言ったよな? 言ったよな? 確かに言ったよな?
「いえ良かったら一緒に……」
いいんだよな? 俺、勘違いじゃないよな?
爺ちゃんの話を聞いて、山口県の大津島に行こうと思ったのは確かだが、床枝さんと二人で行くとなると話は大きく変わってくる。正直、回天の記念館などどうでもいい……とまでは思わないが。
「ホントですか? 嬉しいです。前に賢一先生から、少しだけ回天のお話を聞いた事があるんです。それで、記念館に行ってみたいって思ったこともあったんですが、山口はさすがに遠いなって。でも新一さんが行くなら、わたしも行ってみたいです。迷惑じゃなければ」
「迷惑だなんて、そんな事ないです」
そうか、そうだよ。床枝さんは回天の記念館に行きたいんだ。俺が無害だと悟っているから。そう、俺は安全牌なんだ。過剰な期待は後で裏切られた時のダメージが大きい。それは何度も経験済みだ。当初の目的を見失うな。床枝さんの同行は、たまたま起きたラッキーな出来事。新一は自分にそう言い聞かせた。
新一がなぜ女性に対してここまでネガティブなのか。それは今までの人生において培った経験に基づいている。
新一は全てにおいて普通なのだ。いや、むしろ劣っていると言ってもいい。性格は温厚で、外見は悪くもないが良くもない。身長百七十センチで六十キロ。頭も悪くはないが、良くもない。運動もしかり。特技は無く、趣味はオンラインゲーム。自転車は趣味というほどではない。
過去に数回、彼女らしき女性がいたことはある。しかし新一が望んだ女性と付き合えた事は一度もない。
女性が魅せる思わせぶりな態度は信用してはいけない。特に美しい女性はなおさらだ。彼女達が新一に近づく事があっても、それは新一が無害だからだ。友達としての基準はクリアするが、それ以上ではないのだ。それは経験によって学習している。イケメンでもなく、特技の無い一般男性が、それ相応の女性と付き合うためには、努力して何かしらのスキルを身につけなければならない。そしてやっと、選ばれない立場から、選ばれるかもしれない立場に昇格するのだ。だが新一は、何事にも頑張れなかった。それが普通の人間というものだ。頑張るくらいなら、現状を甘んじて受け入れる。それが新一の出した答えだった。
自宅に帰ってから携帯を確認すると、床枝さんからメールがきていた。先程、待望のアドレス交換をしたのだ。
【床枝です。お話できて嬉しかったです。大津島の件ですが私、今週は水曜日、来週は月曜日と金曜日がお休みです。再来週以降でしたら、まだシフトが決まっていないので、いつでも大丈夫です。連休を取る事も可能です。新一さんのご予定が決まったら連絡下さい。楽しみにしています。そうそうストラップ、ほんとうにありがとうございます。大切にしますね】
過剰な期待は禁物。という事は分かっていたが、新一は思わず「よしっ」と声をあげた。
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