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銀のストラップ
しおりを挟むカーテンの隙間から差し込んでくる日の光と蒸し暑さで、新一は目が覚めた。
今何時だろう? ここ最近は朝までオンラインゲームに現を抜かしているので、昼夜が逆転している。
壁掛け時計を見ると午後二時を少しまわったところだ。階段を降りて台所に行くと、キッチンテーブルの上に母からのメモが置かれていた。
【冷蔵庫の中に、残り物があるからチンして食べなさい。今日は夜勤なので帰りません。夕飯はレトルトのハンバーグ。洗濯物は夕方取り込んで畳んでしまうこと。戸締りちゃんとすること。追伸 いい加減、当たりもしない懸賞の為に缶珈琲を大量に買うのは止めなさい! どうしても買いたいのなら、ちゃんと働いて買いなさい】
チラシの裏に赤いボールペンでそう書かれていた。
「もう買わないよ。当たったから」
新一は声に出して呟いた。
冷蔵庫を開けるとラップされたお皿が二つあった。一つは昨日の残りの生姜焼と朝食の残り物であろうブロッコリーの炒め物。もう一つの皿にはハンバーグのレトルトパックが置かれていた。ハンバーグは夕食ってことか―ご丁寧に【袋のまま熱湯三分】とピンクの付箋が貼ってある。生姜焼きの皿には、ご飯はお釜、味噌汁はインスタント。という黄色い付箋が貼られていた。
新一は生姜焼きの皿を電子レンジに突っ込み、テレビを点けた。午後のワイドショーでは、また北の某国がミサイルの発射実験を行ったというニュースに対して、お馴染みのコメンテーターが、お馴染みのコメントを繰り返している。
「みんな仕事しているんだな……」
口にだしてそう言った時に電子レンジが「チン」と音をたてた。
新一はこの春に大学を卒業。四月から幕張にある大手スーパーに就職したが、先輩店員と折り合いが合わず、僅か二ヶ月で辞めてしまった。無職になって約一か月、ダラダラとニートを続けている。
再就職の当ては今のところない。そもそも、世間でいうところのFラン大の卒業である。勿論、本人次第だが一般的に鑑みて一流大学を出た連中と同等の就職先にありつけるほど社会は甘くない。なんの努力もしなかったツケがまわってきたのである。友人の中には、履歴書に卒業大学を書かずに高卒とするものもいた。下手に出身大学を書くと受かる会社も受からないという。でもそれは学歴詐称になるという噂を聞いた事がある―情けない。
新一は決して出来が悪かった訳ではない。中学時代は成績も上位で、当時の夢は大好きな爺ちゃんと同じ、医者になる事だった。
高校は地元の進学校に進んだ。だが、そこで燃え尽きてしまったのだ。新一が通った高校は、二年生になると理系、文系に分かれ、それぞれ学力によってクラス分けがされる。高校に入ってから、全く勉強せずにゲームばかりしていた新一は、文系の最下位クラスになったが、それを当然の事と受け止め、三年生になっても受験勉強はしなかった。それでも進学校故、同じクラスの中に就職希望者はいなかったし、大半が二流、もしくは三流の大学には合格していた。
実のところ新一は大学に進学するつもりは無かった。三流大学に行くくらいならIT関連の専門学校にでも進もうと考えていた。だが、父親の猛反対にあい、取りあえず大学に進んだのだ。そもそもITの専門学校といっても、具体的に考えていたわけではない。明確な意思も覚悟も無かった新一は、父親の説得に屈したのである。そして卒業後は比較的給料も良く、自宅から通う事の出来る大手スーパーに就職した。
スーパーを辞めた後、いくつかの会社に履歴書を提出してみたが、まだ一社も面接までこぎつけることが出来ていない。売り手市場である現在、選ばなければ就職先はいくらでもあるのだが、条件の良い会社はことごとく書類審査で落ち、面接までもたどり着けないのが現状だった。やりたい仕事も無いし、いっその事、就職なんか辞めてフリーターでもいいかなと思い始めている。いわゆる、そのうち何とかなるだろうという考えでブラブラしているのだ。
食事を終え、換気扇の下で煙草に火を点けたところで、家の電話が鳴った。カノンだ。母と母の勤務先からの呼び出し音をカノンに設定したのは新一である。家の電話には極力出たくない。カノン以外の呼び出し音には基本出ない事にしている。携帯電話が普及した今、昼間の時間帯に鳴る家電は、たいてい何かしらのセールスだという事が分かった。煩わしさこの上無い。
「はいはい」
返事をしながら新一は受話器を取り上げた。
「新ちゃん。ホームに行って来て、お願い」
いきなり響いた母の声はお願いというよりは命令という口調だ。
「なんで?」
「お爺さんの調子が少し悪いらしいのよ。大した事はないみたいだけど、私これからオペだし、夜勤だから行かれないの」
「えっ、爺ちゃんヤバいの? 親父は?」
言ってから後悔した。そもそも親父と連絡がとれないから新一に電話したのだろう。
「繋がるわけないでしょ!」
案の定怒られた。
「あんた今ニートなんだから、お願いね。行ってくれなかったら、もう二度とあんたのご飯作らないから」
「すぐ行くよ。俺、爺ちゃん好きだし。車貸してよ」
「ダメ。ニートに貸す車なんてないから。あんたこの前マスカットとかいう、六十キロくらい出るチャリ買ったでしょ。あれ、半分お金出したの誰? お母さんでしょ」
「葡萄かよ……スコットだよ。それに六十キロも出ねえし」
スコットはスイスの自転車メーカーで、新一のお気に入りである。
「何でもいいから行って来て頂戴。大丈夫だとは聞いているけど、お爺さんの様子次第では連絡してね」
新一の次の言葉を待たずに電話は一方的に切られた。
約一時間後、新一は緑区にある、さくらホームの駐輪場にスコットを停めていた。千葉市中央区の自宅からは八キロメートル程の距離だが、新一の太ももは悲鳴をあげ、息も絶え絶えになっていた。
このホームは高台に建てられているため、最後の約三百メートルは急な登り坂が続く。自転車を利用する人で、この坂を漕いで登る人は少ない。ホームに着いた頃には、Tシャツは汗で身体に張り付き、顎からも汗が滴り落ちていた。
さくらホームは民間の有料老人ホームで、庭には約三十本の立派な桜の木がある。名前の由来は聞いた事がないが、多分この桜で間違いないだろう。ここに親父の父親、つまり新一の爺さんがいる。ボケてはいないが御年九十七歳、ほぼベッドの上での生活で、いつお迎えがきてもおかしくない。
柳原賢一。新一の爺さんの青春時代は、太平洋戦争真只中だった。本人も若くして出兵したが無事帰還。戦後は医者になり、地元で小さな医院を開業していた。医院は子供達が跡継ぎにならなかった為、新一が生まれてすぐの頃、閉院したと聞いている。賢一の妻は新一が生まれる前に亡くなっている。
新一が中学生の頃、爺さんから、たまに戦争や医院の話を聞いたが、あまり興味も無かった為、何を聞いたかほとんど覚えていない。
新一が大学に入った年に、賢一は転んで尻の骨を折ってしまった。手術はしたのだが、まともに歩くことが困難になってしまったのである。それ以来、賢一はこのホームに入所してケアを受けている。家族の反対を押し切ってホームに入ったのは、賢一の強い希望があったからだ。忙しく働く息子夫婦に迷惑をかけたくなかったようである。
新一の母親が週に一回、父親が月に一、二回程、面会に行っているが、新一は気が向いた時、勝手に会いにいく。父親には姉が二人いるが、二人共遠くで暮らしている為、年に数回、顔を見せに来る程度である。
爺さんは親父と違って、新一にとても優しい。だから気が滅入った時などにふらっと来るのだが、最近は寝ている事が多い。爺ちゃん、そう長くはないのかな……そう思うと気持ちが沈む。
スコットに鍵を掛けようとしてかがむと、そこに吸い殻が落ちていた。ここで煙草を吸った奴がいるのか。しかも捨てていきやがった。こういう奴がいるから、どんどん喫煙者の肩身が狭くなるんだ。全くもって頭にくる。新一はブツブツと独り言を言いながら吸い殻を拾い、玄関近くに設置された喫煙所の灰皿に捨てた。
「新一さん?」
そう言って声をかけてきたのは看護師の床枝さんだった。
最近、新一が爺ちゃんに会いに来るのは、少なく見積もっても三割くらいは床枝さんに会いたいからである。歳は新一と同じ二十三歳。童顔で可愛らしく、それでいて胸が大きい。アニメ風と言えばわかりやすいか。とにかく、床枝さんに会うのも楽しみだった。
「ごめんなさい。賢一先生は大丈夫です。昼食の後に少し咳込んで、苦しそうだったから高松先生呼んで診て頂いたの。そしたら、少し咽ただけだって。わたし、慌ててお母様に連絡しちゃって……」
「いえ、ありがとうございます。じゃあ爺ちゃん……祖父は大丈夫なんですね」
そうか、大した事ないならよかった。
「大丈夫です。変に心配かけちゃってごめんなさい」
そう言って床枝さんが頭を下げた時、彼女の大きな胸が視界に入った。新一は一瞬、凝視してから、彼女が頭を上げる前に視線を元に戻した。
「新一さんのお宅、お母様は外科の看護師さんだし、お父様は刑事さんですものね。直ぐには来れないって分かっているんですけど。でも、新一さんが来てくれると賢一先生凄く喜ぶんですよ」
にっこりとはにかんだ床枝さんはとても可愛らしい。
看護師だからだろうか? 爺ちゃんは二十年以上も前に医者を引退しているが、彼女は爺ちゃんのことをいつも先生と呼んでいる。
床枝さんは以前、新一の母親が務める病院で看護実習をした経験があり、それ以来、母とは親しくしているらしい。全く持って羨ましい限りである。
「あ、あの、これ……もう一つ当たったから」
新一は、珈琲豆を模った銀製のストラップを彼女に渡した。
以前、このストラップを見た床枝さんは凄く羨ましがっていた。あまりに羨ましそうだったので、あげると言ったのだが、とても貰えないと言って断られた。それから約一カ月。新一はほぼ毎日、十本の缶珈琲を買って、せっせと応募し続けた。缶珈琲に貼ってある応募シール十枚で一回応募できるのだ。前回は一回目で当たったが、今回は二十五回目だった。実際に応募したのは二十七回だから、新一は都合二百七十本の缶珈琲を買った事になる。
「えっ、本当に? また当たったんですか?」
床枝さんの大きな目が更に大きくなった。
「僕、運がいいみたいです」
そう言って、新一はスマホにつけた自分のストラップを見せた。
「え~! 嬉しすぎます。絶対に当たらないって言われていて、ネットオクでも二万円以上してるんですよこれ」
床枝さんは本当に喜んでいる。
そうか、ネットという手があったか……しかしすぐに思い直した。それはなんか違う気がする。
「お揃いですね。今度お礼させて下さい」
床枝さんは、ストラップを握り締めて玄関に向かって走って行った。
二百七十本買った甲斐はあった。新一は心の中でガッツポーズをした。
玄関で、スリッパに履き替えていると、また床枝さんがやってきてタオルを差し出した。「汗だくですね」
そう言うとまた廊下を走って戻っていった。 彼女が貸してくれたタオルはハイビスカスの模様が描かれていて、明らかに私物と思われるものだった。新一はゆっくりとタオルの香りを楽しんでから汗を拭いた。
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