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遺言
しおりを挟む青々と茂った欅の枝が夏のそよ風に揺れている。
蝉が鳴き、トンビが空を舞い、風鈴の短冊が揺らいでいる。遠くからは無邪気に遊ぶ子供達の声が聞こえてくる。
終戦から六年、ベッドの上で隆明は、いつもと変わらぬ平和な日常に感謝した。
日本は負けたのだ。軍人、民間人合わせ、途方もない数の尊い命を犠牲にして得た結果は無条件降伏だった。
死んでいった戦友達は皆、日本の勝利を信じて疑わなかった。勿論、自分もその一人だ。だが、今になって冷静に考えれば分かる事である。連合軍との力の差は歴然だった。本土空襲が激しくなってから、いや、それ以前からアメリカ軍やイギリス軍によって伝単(投降勧告や空襲予告のビラ)も撒かれていた。それは降伏を促すサインでもあり、連合軍の圧倒的な優位を示すものでもあった。
もっと早くに降伏していれば、原爆を落とされる事もなかったかもしれない。母ちゃんも弟の茂も死なずに済んだかもしれない。皮肉な事に軍人として、特攻隊員として出撃した自分が助かったのだ。運命のいたずらに憤りを拭えない。
現在、上田隆明はここ静岡県浜松市にある療養所にて療養中である。成長と共に病弱であった身体は克服できたものと思っていたが終戦後、再び体調が悪化したのだ。
隆明は戦後、地元の新聞社に籍を置いたが、体調の悪化が目に見えて酷くなった半年前に退社し、この療養所に入った。
千代子とは二年前に結婚した。そして昨年、待望の長男が産まれたが、自分の体調は日々悪化の一途をたどっている。
医者は免疫系の病気だというが、画期的な治療法は現代の医学では確立されていないという。つまり、この命の期限はそう長くはないという事である。
死は怖くはない。そもそも自分は特攻隊員だったのだ。だが、まだ若い妻と、一歳にも満たない修をおいて死なねばならないという事は無念極まりない。
上田家の財産は如何程になるだろう。僅かに残った金品と土地家屋に、たいした値がつくとは思えない。自分の死後、修が成人するまで、母子二人で生きていくのに必要な銭は残るだろうか……補助が出ているとはいえこの療養所だってただではない。最近はそんな計算ばかりをするようになった。
枕元には、谷崎潤一郎の細雪と吉川英治の宮本武蔵が置かれている。妻が取り寄せてくれた本で、いずれも発刊されたばかりの新刊だ。
『相良、貴様も本が好きだったな。どちらもいい本だ。そっちに行く時は持って行ってやろう。今、俺がこうして生きていられるのは貴様のおかげだ。待っていてくれ、俺もすぐそこに行く』
「隆明さん、どなたかいらっしゃるのですか?」
病室に入ってきたのは妻の千代子だった。
「いや、独り言だ。それより修をよく見せてくれないか」
隆明は上体を起こして修を覗き込んだ。
「やっと寝たところです。汽車の中では泣いて大変だったのですよ」
千代子の腕の中で修はすーすーと寝息をたてている。
「それは難儀だったな。いつもすまない」
「私は大丈夫ですよ。そんなことより、お身体を治す事に専念してくださいね」
「ああ、ありがとう。なあ千代子。お前はほんとに良かったのか」
「何がです?」
「俺の身体の事だ。今更だがこうなる事は承知していただろ」
「はい。隆明さんには感謝こそしていますが、微塵も後悔などしておりません。私は貴方が大好きです。そしてこんなに可愛い修まで頂きました。これ以上の幸せはございません」
そう言うと千代子は修の顔をわざと隆明に近づけた「女だてらに、何度も何度も求婚した甲斐があったというものです」
修を抱きながらにっこりと微笑んだ千代子。その姿はまるで釈迦如来像のように隆明の目に映った。
「隆明さんは何も気にせず療養して下さい。先程、お医者様にも伺ったのですが、病状のほうも最近は少し落ち着いているとおっしゃっていましたよ」
「すまないな」
「だから、気になさらないでください。もうすぐお姉さまもいらっしゃると思いますので、少しお休みください」
隆明にはわかっていた。今日は担当医から家族が呼ばれたのだ。俺はもうそれ程長くはない。
修がぐずり始めたので、千代子は少し外に行くと言って病室を出て行った。
千代子に求婚された時、隆明は断ったのだ。勿論それは自分の身体の事があったからである。医者からも長生きは出来ないだろうと言われていた。それを全て打ち明けても尚、千代子は隆明との結婚を望んだのだ。
「あら、元気そうね」
そう言って姉の光子が病室に入ってきた。
「頼信さんと燈子は大丈夫なのか?」
頼信は光子の夫で、燈子はもうすぐ三歳になる姪である。姉夫婦は現在、磐田で小さな田畑を耕して暮らしている。
「大丈夫よ。余計な心配しないで早く治しなさい。千代子さんがかわいそうじゃない。そう言えば千代子さんは?」
「修がぐずったので、外に行った」
「そう。あのくらいの時って大変なのよ」
「なあ姉さん……俺、特効で死んだほうが良かった」
「隆明! また? いい加減にしなさい! 千代子さんがかわいそうだと思わないの」
「思う! だからだ。俺がいなければ千代子は俺と結婚することはなかった。若くして未亡人になる事もない」
「そんな事まだ言っているの? 男のくせに女々しいわよ」
光子は隆明の目の前に拳を突き出した。
「戦争が終わって、生きておめおめと帰ってきたら、母ちゃんも茂も亡くなっていた。戦地にいた俺に届いた情報は間違いだった。畜生! 俺が戦死していれば、姉さんだって戦没者遺族として恩給がもらえたはずだ。誰も不幸にならなくて済むはずだった」
「隆明がどう思おうと、私も千代子さんも幸せよ。そんな事言ってないで、千代子さんに優しくするのよ」
「ああ、分かっている。なあ姉さん、俺が死んだ後、千代子の事……気にかけてやってくれ」
光子はゆっくりと頷き、隆明の手を握ってから黙って病室を出て行った。
数分後、修を寝かしつけた千代子が戻ってきた。
「光子姉さん、もう帰られたけれど、お話出来ました?」
「ああ、姉さんは用事の途中で寄っただけだから」
姉が気を使ってくれたのは痛いほどわかった。
千代子は、すやすやと寝息をたてている修を隆明の隣に寝かせ、自分は蜜柑箱で作られた椅子に座った。
「なあ千代子、落ち着いて俺の話を聞いてくれ」
「はい」
千代子はしっかりと隆明の瞳を見つめて返事をした。
隆明は三通の封筒を千代子に渡した。二通は糊付けされていたが、もう一通は封がされていない。
「その封をしていない方には、上田家の財産、僅かだが金目の物についてまとめてある。主には土地家屋だが、その他、書や掛け軸など、その処分法についても、したためておいた。信頼して頼れる人物も列記してある。困った事があれば、頼るといい」
「そんな……隆明さん……」
「いいから、黙って聞きなさい」
「はい……」
「封をしてある封筒は二通共、私の死後開けなさい。一通は君と修に宛てたものだ。そしてもう一通は、その中に書いてある人物に渡して貰いたい」
「そんな……そんなお話、今でないといけませんか」
千代子の瞳から大粒の涙が溢れだした。
「察してほしい」
「はい……」
「これは遺言だ。手紙の内容については誰であろうと修以外、一切他言しないと約束して欲しい。将来、修にもそう言って聞かせてほしい」
「はい、お約束します」
辛い。特効で死を選んだときは、全く辛くはなかった。しかし、愛する妻と幼子の修を残して死なねばならないという事は何よりも辛い。生きたい。いつの間にか隆明の目からも涙が溢れだしていた。
それから五日後、隆明は他界した。昭和二十六年八月。享年二十九歳であった。
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