桔梗一凛

幸田 蒼之助

文字の大きさ
上 下
7 / 10

第7話

しおりを挟む
   五、
 翌朝。――
 障子窓越しに差し込む朝日を感じ、悦子は飛び起きた。
 一刻ほどしか寝ていない計算だが、幸いにして頭も体もすっきりしている。
 身支度を整え寄宿舎を出ると、今朝もまた、いつもの場所に“朝の顔”が見当たらなかった。
(やはり……。私がなんとかして差し上げないと)
 そんな思いを強くしつつ、女学校の門をくぐる。
 何をすべきかは既に考えてある。昼過ぎに学校が終わると、悦子は真っ直ぐ寄宿舎に戻り、自室に籠もった。机に向かい、ペンを握って二通の手紙をしたためる。
 一通は出版社宛である。

 ――御社刊行の坂崎紫瀾著「汗血千里駒」の記述に、誤りがあります。そのため深く傷付き、心痛のあまり健康を損ねている女性がおられます。是非とも筆者の方にお伝え下さい。その女性に直接お会いになり、正しい事情を取材なされて、記述の訂正をお願い申し上げます。

 はしたなくもうんうん唸りながら、一生懸命そのような主旨の文面を考え、改めて丁寧に清書した。
 もう一通は、実家のお父様宛である。

 ――私の恩人である、女学校舎監の女性が、とある小説の誤記に苦しんでおられます。出版社を通して筆者に訂正を要請したいと思います。たかだか小娘に過ぎない私が申し入れたところで聞き入れて貰えないかもしれませんので、是非ともお父様の方から、私のお手紙を出版社に届けて頂けないでしょうか。

 こちらもどうにか清書まで漕ぎ着け、小間使いを呼び悦子の実家へ届けるよう頼むと、そこで力尽きた。何しろ昨晩、あまり寝ていない。またもや夕食もとらず、寝床へ転がり込んだ。
 翌朝、いつものように起床した。熟睡し心身共に爽快である。身支度を整え、寄宿舎を出る。
 その、悦子のあとを追いかけるように、
「悦子お嬢様ぁ~っ」
 と昨夕の小間使いが走って来た。彼曰く、お父様は悦子の頼みを快諾してくれたらしい。
 はたして数日後、春陽堂書店社長の和田篤太郎と名乗る人物が、悦子を訪ねて来た。手紙の効果があった、と悦子は喜色を浮かべる。
「幸いにして」
 と、和田社長は悦子に語った。
 あの本、“汗血千里駒”の著者・坂崎紫瀾氏というのは、執筆に関しては誠実な御方だ、と。小説とはいえなるべく正しく書き記そうと、常に様々な人に逢って取材を重ねているのだとか。
 そして過去の記述に誤りが判明すれば、頻繁に訂正を入れているというのである。
「それは、よろこばしゅうございますわ」
「ですが、その坂崎紫瀾氏は現在、土佐か京のいずれかにおられるのです。どちらにせよ、氏が東京に来られて改めて取材……となると、随分先の話になるかと」
「なるほど。それは困りますわねえ……。いかがいたしましょう」
 されば、と和田社長は、まず私めが舎監さんに取材を行いましょうと提案してきた。それを然るべき媒体に発表し世間に公表する。坂崎氏の小説に関しては後日改めて対応してもらう、というのである。
「そういう事であれば、舎監さんも納得して下さるかもしれません」
 悦子は和田社長を待たせて舎監さんの部屋を訪れると、彼女にその旨説明した。舎監さんは、
「悦子さん、ありがとう」
 と礼を述べて下さり、和田社長の取材を受け入れてくれた。
 小間使いに命じて別室に席を用意すると、舎監さんと和田社長の対談が始まった。
「あの本に書かれている、坂本龍馬様とご縁のあった女とは……このわたくしの事なのです。神田お玉ヶ池千葉の娘“光子”ではなく、桶町千葉の次女、さなゝゝでございます」
「ほう」
「お玉ヶ池千葉はもとより桶町千葉にも、光子という名の子女はいないのです」
「ああ、なるほど。つまり小説序盤に登場する千葉道場の女丈夫とは、あなた様でございましたか。大千葉の“光子”は全くの誤りで、正しくは小千葉のおさなゝゝ様……と」
「ええ」
 舎監さんは冷静に、淡々と、在りし日の龍馬との出来事や、思いの丈を語った。
 彼女の話から想像するに、龍馬との関係は実質一〇年にも満たない。
 が、そこにはひとりの女性の人生そのもの、愛と苦悩、葛藤など全てが――全てと言ってよいものが――あった。舎監さんの傍らで耳を傾けていた悦子は、時勢に翻弄されつつもひたすらひとりの男性を愛し通した気高き女性の、凄まじい想い、いや想いの熱量に圧倒され続けた。そしてそれが全て失われた後の、虚しさ、哀しさに改めて涙した。
「いやはや……。なんとも数奇な運命をお持ちのようで」
 舎監さんが全てを吐露されると、和田社長はペンを置いて額の汗を手拭いで拭きながら、感嘆の声を漏らした。
(そんな陳腐な言葉で表せるような、容易い人生ではありませんわ)
 悦子は舎監さんに同情し、内心切歯扼腕の思いがしたが、しかし和田社長にしてみれば仕方ない事だろう。悦子だって、自ら感じた事をすべからく言葉に表せるものではない。それこそ先日、涙を堪えられなかった舎監さんに対し、かけるべき言葉を失ってしまったではないか。
 それでも、
「おさな様のやるせないご心情、この和田もとくと承知致しました。心よりご同情申し上げます。この件、必ずや著者坂崎氏に伝えますので、何卒気を落とさず……。おさな様の今後の人生に幸あらんことを」
 と寄宿舎を辞する和田社長に、
「ありがとうございます」
 と、微かな笑みを見せつつ頭を下げる、舎監さんの様子を見て、
(これで少しは、舎監さんのお力になれたかしら。何か吹っ切れたようなお顔をなさっていらっしゃる)
 と感じた。若い悦子は、ひとつ大きな仕事を成し遂げたかのような、手応えを感じた。
 もっとも、この対談がいつ、どこに発表されるのかは判らず終いとなった。程なく悦子は女学校を卒業し、それと前後して舎監さんも、
 ――老齢のため
 と、職を辞したためである。
 今後のお住まいを尋ねるいとまもなかった。悦子の、舎監さんとの縁は、それっきりとなった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

大江戸美人揃

沢藤南湘
歴史・時代
江戸三大美人の半生です。

江戸の櫛

春想亭 桜木春緒
歴史・時代
奥村仁一郎は、殺された父の仇を討つこととなった。目指す仇は幼なじみの高野孝輔。孝輔の妻は、密かに想いを寄せていた静代だった。(舞台は架空の土地)短編。完結済。第8回歴史・時代小説大賞奨励賞。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

華日録〜攫われ姫君の城内観察記〜

神崎みゆ
歴史・時代
時は江戸時代、 五代将軍徳川綱吉の治世。 江戸城のお膝元で、 南町奉行所の下っ端同心を父に持つ、 お転婆な町娘のおはな。 ある日、いきなり怪しげな 男たちに攫われてしまい、 次に目にしたのは、絢爛豪華な 江戸城大奥で…!? なんと、将軍の愛娘…鶴姫の 身代わりをすることに…! 仰天するおはなだったが、 せっかく江戸城にいるんだし…と 城内を観察することに! 鶴姫として暮らす江戸城内で おはなの目に映ったものとは…?

ようこそ安蜜屋へ

歴史・時代
 妻に先立たれた半次郎は、ひょんなことから勘助と出会う。勘助は捨て子で、半次郎の家で暮らすようになった。  勘助は目があまり見えず、それが原因で捨てられたらしい。一方半次郎も栄養失調から舌の調子が悪く、飲食を生業としているのに廃業の危機に陥っていた。勘助が半次郎の舌に、半次郎が勘助の目になることで二人で一人の共同生活が始まる。

空蝉

横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。 二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。

石の手紙〜元女学校教員美代子のビルドゥングス・ロマン

イチモンジ・ルル
歴史・時代
私立女学校の教員畑中美代子(はたなかみよこ)は、人生を捧げると決めた研究のための精進を怠らず、三十路を迎えた。大学時代の研究仲間で華族令息の凪見小路通麿(なぎみのこうじみちまろ)に請われ、帝国考古学研究所に転職。烏池小路と共に古文書解読と検証の案件に取り組む 実は大学時代から美代子を溺愛している凪見小路。不羈独立(ふきどくりつ--つまり他人に借りを作らず頑張るひと)の志を凪見小路に尊重されていることにも、自分の恋心にも、気づいていない美代子。 最初の案件は大航海時代にヨーロッパの楽器と西太平洋の楽器で奏でられた合奏曲の謎にまつわる物語。     ◆   ◆   ◆ ふたりの「頭脳明晰恋はお子様」な研究バディ生活をオムニバス形式で。ただし、2023年2月現在第一章しかできていません。続きはいずれ。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

処理中です...