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第5話
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そんな二人の様子を眺めつつ、父も兄も破顔。
「問題ないようだな……。さて坂本君。率直に申し上げる」
今度は父が口を開いた。本家・お玉ヶ池千葉の男達は皆、水戸藩に仕官したせいもあり、尊皇攘夷の風が強い。桶町千葉の父も兄も、因州鳥取藩に仕官しているが、こちらもいわば水戸の分家のようなもので、尊皇攘夷の家風である。そのせいか、父も攘夷論者達の流行りに倣い、男に君付けで声をかける。
「坂本君。我が娘、さなを嫁に貰ってくれないか」
「はあ」
途端にしゃんと背を伸ばしたものの、その癖呆けたような声を出す大男、龍馬。
しばらく思案顔だったが、程なく真っ直ぐ父・定吉の方を向き、
「いや、有り難いお話です。土佐高知城下では“坂本の洟垂れ”と呼ばれた落ちこぼれが、このように天下の千葉家からお声がかかるとは、エラい事です。大いに恐縮しちょります」
と頭を下げた。
「されば……」
父も兄も喜色を浮かべつつ身を乗り出す。それを、
「ちょっと待っとーせ」
と龍馬は二人を制し、
「このような、国難の時代です。儂は儂なりに、天下国家の為にやるべき事がある思うちゅう」
「はあ」
「男として命を捨てるつもりで、こがに国許から出て来ちゅうとです」
「……」
「だから率直に言うと、今は嫁どころではないですロウ!? ひとたび事あらば、不肖、坂本龍馬の命なぞたちどころに放り出す覚悟。そがな男が嫁を貰うなんざ、どだい無茶な話ですキニ。おさなさんの、女としての幸せを約束出来ん男に、おさなさんと夫婦になる資格など無い思うちゅう」
悦子は維新後――王政復古の大号令の後――の、生まれである。
しかも、一応華族の娘として生まれた。世間知らずの箱入り娘である。知識として維新以前の事情は知っているものの、当時の社会情勢の凄まじさの、実感がない。
それでも舎監さんのおかれた状況はよく解った気がする。
その時、舎監さんがどう感じたのか。痛いほど、共感できた。
本人立会いのもと、縁談を断られただけでも、女として辛いことだろう。ましてや互いの想いに支障はなく、ただふたりのおかれた状況、社会情勢がその仲を引き裂いたのであれば、余計にやりきれない思いだったに違いない。
「悦子さんも近い将来、どなたかと結ばれます。いずれ、ご両親から“この殿方に嫁げ”と仰せ付けられることでしょうね。華族の子女という御身分ならばこそ、ご両親のご判断には従わざるを得ますまい」
「覚悟は出来ておりますわ」
「わたくしの場合、有り難いことに、互いに憎からず想い合う者同士でした。されどふたりの置かれた立場は、全く異なっていました」
舎監さんによれば、“黒船来航”が世を一変させたらしい。それこそが二五〇年続いた泰平の世を、一気に末期状況へと叩き込んだ。
「黒船来航……」
悦子も、知識としては知っている。いわゆる“幕末の動乱”は、そこから始まった。
アメリカという国がある。
一八世紀後半の建国早々から、アジア利権獲得に野心満々だった。が、阿片戦争が終わってみれば、東アジアにおいて利権を拡大出来たのは英仏のみで、アメリカはその蚊帳の外に置かれた。
そこでアメリカは、
――されば“黄金の国ジパング”を獲る! 我々が真っ先に日本に乗り込む。
と意気込んだ。その、戦略の第一弾こそが、米国東インド艦隊のペリー提督による来航(黒船来航)である。
ペリーは黒船の艦載砲で幕府を恫喝した。
それだけではない。幕府に白旗さえ献上した。降伏しろ、という意味である。
敢えて強調するが、これは決して外交などではない。純然たる軍事的恫喝行為であった。
幕府首脳は江戸の町が焼け野原になる事を怖れ、ペリー及びその背後に控えるアメリカ政府に対し下手に出た。恫喝に屈し、翌(一八五四)年には祖法の鎖国政策を転換して日米和親条約を結んだ。
さらにその四年後には、通商条約を結ばされた。全権大使ハリスの主導で、極めて不平等な条項を飲まされた。
いや、最大の問題はそこではない。この時、野心家ハリスによって詐欺同然の為替レートをゴリ押しされ、日本国内の金をごっそり奪われてしまったのである。
古来、日本は世界でも指折りの金産出国である。
あまりにも金がありふれ過ぎていたため、古代においては貴金属という認識すら無かった。だからこそ、古代の有力者の墓からも金の宝飾品はほとんど出土しない。
江戸の世においても金は、諸外国程の希少性はなく、ごくごく身近な存在だった。誰もが当然のように、通貨たる金貨を所持していた。それこそ長家住まいの庶民達でさえ、懐から巾着を取り出せば、一朱金や一分金の数枚は入っていたものである。
しかしハリスは、幕府役人を脅し上げて不当な通貨交換レートを設定すると、早速格安で日本国内の金を買い占めて軍艦ポーハタン号に満載。上海を数往復しつつ国際相場で売り捌き、アメリカに巨利をもたらした。
我が国は当然、膨大な金が失われたことにより社会経済が大混乱に陥った。
ただでさえ黒船来航以降、人々は幕府の外交力政治力に疑いの念を抱くようになっていたが、まさにこれこそが徳川幕府崩壊の決定打となった。長年盤石だった幕府への信頼は、地に堕ちた。世間は激昂し、
――毛唐相手に弱腰の公儀(幕府)なぞ、もはや頼むに足らず。天子様(朝廷)中心の世に改め、以って毛唐共を討ち払うべし。
という世論が轟々と沸き興ったのである。
アメリカは最初から、我が国を蹂躙、収奪する気満々で強硬に乗り込んで来ているのだ。これには本来、強硬姿勢で望まなければならない。そうでなければいずれ国が滅ぶ。
当時の日本には、アメリカと対峙し得る強大な軍事力があった。諸藩の武士団である。しかし社会秩序の安定を祖法とする徳川幕府に、江戸の街を焦土と化してでも外敵を追い払い、国家安全保障上の脅威を排除するという覚悟が無かった。
誇り高き諸藩の武士達は、幕府の弱腰姿勢、覚悟欠如に業を煮やした。我が国の行く末を憂う武士達が多数、藩を捨て京や江戸へ出て来た。
本来、
――主君のために命を擲つ覚悟を持つ者
を、武士と言う。
だが幕末、主君を見限り脱藩する武士が後を絶たなかった。このままでは、我が国は西洋列強の食い物にされる。公儀はもう駄目だ、我が国を守り切れない。さりとて我らが主君もこの時勢を、指を咥えて呆然と眺めるのみ。ならば天子様のご親政を請い、その下で神州日本を守る。そのためならばいつでも我が身を擲つ。天使様に我が命を委ねる……と覚悟を決めた者が、ぞろぞろと湧き出てきたのである。
彼らは自らを“志士”と称した。志士の本質とは、
――天子様のために命を擲つ覚悟を持つ者
である。
また、本来武士でない者達も、社会混乱の臭いを嗅ぎつけ、
――乱世こそ己が身を立てる好機。
と、納屋の奥底から引っ張り出した先祖伝来の錆刀一本を携え、一旗上げんとばかり意気揚々と江戸に集まって来た。それら有象無象の輩もまた、“志士”を自称した。
そういった男達が一〇年以上世を騒がせ、多くの血が流れた挙げ句、ついに革命成って幕府が倒れたのである。そして明治新政府が誕生し、悦子と舎監さんの語り合う、今此の時に至る。
「坂本様も、そういった方々――つまり“志士”――の一人だったのですよ」
「なるほど」
「問題ないようだな……。さて坂本君。率直に申し上げる」
今度は父が口を開いた。本家・お玉ヶ池千葉の男達は皆、水戸藩に仕官したせいもあり、尊皇攘夷の風が強い。桶町千葉の父も兄も、因州鳥取藩に仕官しているが、こちらもいわば水戸の分家のようなもので、尊皇攘夷の家風である。そのせいか、父も攘夷論者達の流行りに倣い、男に君付けで声をかける。
「坂本君。我が娘、さなを嫁に貰ってくれないか」
「はあ」
途端にしゃんと背を伸ばしたものの、その癖呆けたような声を出す大男、龍馬。
しばらく思案顔だったが、程なく真っ直ぐ父・定吉の方を向き、
「いや、有り難いお話です。土佐高知城下では“坂本の洟垂れ”と呼ばれた落ちこぼれが、このように天下の千葉家からお声がかかるとは、エラい事です。大いに恐縮しちょります」
と頭を下げた。
「されば……」
父も兄も喜色を浮かべつつ身を乗り出す。それを、
「ちょっと待っとーせ」
と龍馬は二人を制し、
「このような、国難の時代です。儂は儂なりに、天下国家の為にやるべき事がある思うちゅう」
「はあ」
「男として命を捨てるつもりで、こがに国許から出て来ちゅうとです」
「……」
「だから率直に言うと、今は嫁どころではないですロウ!? ひとたび事あらば、不肖、坂本龍馬の命なぞたちどころに放り出す覚悟。そがな男が嫁を貰うなんざ、どだい無茶な話ですキニ。おさなさんの、女としての幸せを約束出来ん男に、おさなさんと夫婦になる資格など無い思うちゅう」
悦子は維新後――王政復古の大号令の後――の、生まれである。
しかも、一応華族の娘として生まれた。世間知らずの箱入り娘である。知識として維新以前の事情は知っているものの、当時の社会情勢の凄まじさの、実感がない。
それでも舎監さんのおかれた状況はよく解った気がする。
その時、舎監さんがどう感じたのか。痛いほど、共感できた。
本人立会いのもと、縁談を断られただけでも、女として辛いことだろう。ましてや互いの想いに支障はなく、ただふたりのおかれた状況、社会情勢がその仲を引き裂いたのであれば、余計にやりきれない思いだったに違いない。
「悦子さんも近い将来、どなたかと結ばれます。いずれ、ご両親から“この殿方に嫁げ”と仰せ付けられることでしょうね。華族の子女という御身分ならばこそ、ご両親のご判断には従わざるを得ますまい」
「覚悟は出来ておりますわ」
「わたくしの場合、有り難いことに、互いに憎からず想い合う者同士でした。されどふたりの置かれた立場は、全く異なっていました」
舎監さんによれば、“黒船来航”が世を一変させたらしい。それこそが二五〇年続いた泰平の世を、一気に末期状況へと叩き込んだ。
「黒船来航……」
悦子も、知識としては知っている。いわゆる“幕末の動乱”は、そこから始まった。
アメリカという国がある。
一八世紀後半の建国早々から、アジア利権獲得に野心満々だった。が、阿片戦争が終わってみれば、東アジアにおいて利権を拡大出来たのは英仏のみで、アメリカはその蚊帳の外に置かれた。
そこでアメリカは、
――されば“黄金の国ジパング”を獲る! 我々が真っ先に日本に乗り込む。
と意気込んだ。その、戦略の第一弾こそが、米国東インド艦隊のペリー提督による来航(黒船来航)である。
ペリーは黒船の艦載砲で幕府を恫喝した。
それだけではない。幕府に白旗さえ献上した。降伏しろ、という意味である。
敢えて強調するが、これは決して外交などではない。純然たる軍事的恫喝行為であった。
幕府首脳は江戸の町が焼け野原になる事を怖れ、ペリー及びその背後に控えるアメリカ政府に対し下手に出た。恫喝に屈し、翌(一八五四)年には祖法の鎖国政策を転換して日米和親条約を結んだ。
さらにその四年後には、通商条約を結ばされた。全権大使ハリスの主導で、極めて不平等な条項を飲まされた。
いや、最大の問題はそこではない。この時、野心家ハリスによって詐欺同然の為替レートをゴリ押しされ、日本国内の金をごっそり奪われてしまったのである。
古来、日本は世界でも指折りの金産出国である。
あまりにも金がありふれ過ぎていたため、古代においては貴金属という認識すら無かった。だからこそ、古代の有力者の墓からも金の宝飾品はほとんど出土しない。
江戸の世においても金は、諸外国程の希少性はなく、ごくごく身近な存在だった。誰もが当然のように、通貨たる金貨を所持していた。それこそ長家住まいの庶民達でさえ、懐から巾着を取り出せば、一朱金や一分金の数枚は入っていたものである。
しかしハリスは、幕府役人を脅し上げて不当な通貨交換レートを設定すると、早速格安で日本国内の金を買い占めて軍艦ポーハタン号に満載。上海を数往復しつつ国際相場で売り捌き、アメリカに巨利をもたらした。
我が国は当然、膨大な金が失われたことにより社会経済が大混乱に陥った。
ただでさえ黒船来航以降、人々は幕府の外交力政治力に疑いの念を抱くようになっていたが、まさにこれこそが徳川幕府崩壊の決定打となった。長年盤石だった幕府への信頼は、地に堕ちた。世間は激昂し、
――毛唐相手に弱腰の公儀(幕府)なぞ、もはや頼むに足らず。天子様(朝廷)中心の世に改め、以って毛唐共を討ち払うべし。
という世論が轟々と沸き興ったのである。
アメリカは最初から、我が国を蹂躙、収奪する気満々で強硬に乗り込んで来ているのだ。これには本来、強硬姿勢で望まなければならない。そうでなければいずれ国が滅ぶ。
当時の日本には、アメリカと対峙し得る強大な軍事力があった。諸藩の武士団である。しかし社会秩序の安定を祖法とする徳川幕府に、江戸の街を焦土と化してでも外敵を追い払い、国家安全保障上の脅威を排除するという覚悟が無かった。
誇り高き諸藩の武士達は、幕府の弱腰姿勢、覚悟欠如に業を煮やした。我が国の行く末を憂う武士達が多数、藩を捨て京や江戸へ出て来た。
本来、
――主君のために命を擲つ覚悟を持つ者
を、武士と言う。
だが幕末、主君を見限り脱藩する武士が後を絶たなかった。このままでは、我が国は西洋列強の食い物にされる。公儀はもう駄目だ、我が国を守り切れない。さりとて我らが主君もこの時勢を、指を咥えて呆然と眺めるのみ。ならば天子様のご親政を請い、その下で神州日本を守る。そのためならばいつでも我が身を擲つ。天使様に我が命を委ねる……と覚悟を決めた者が、ぞろぞろと湧き出てきたのである。
彼らは自らを“志士”と称した。志士の本質とは、
――天子様のために命を擲つ覚悟を持つ者
である。
また、本来武士でない者達も、社会混乱の臭いを嗅ぎつけ、
――乱世こそ己が身を立てる好機。
と、納屋の奥底から引っ張り出した先祖伝来の錆刀一本を携え、一旗上げんとばかり意気揚々と江戸に集まって来た。それら有象無象の輩もまた、“志士”を自称した。
そういった男達が一〇年以上世を騒がせ、多くの血が流れた挙げ句、ついに革命成って幕府が倒れたのである。そして明治新政府が誕生し、悦子と舎監さんの語り合う、今此の時に至る。
「坂本様も、そういった方々――つまり“志士”――の一人だったのですよ」
「なるほど」
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