表裏一体

驟雨

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八話目

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 平日の水曜に私は誰もいない台所を漁りおじさんがたまに飲んでいるウイスキーとこの前たまたま見つけた風邪薬を探していた。

 風邪薬を一箱ポケットの中に入れ、ウイスキーを水筒に4分の1ほど移し替える。移し替えた後好奇心から水筒の中に鼻をそっと近づけると、アルコールの匂いが鼻腔を突き刺しその場で悶え苦しんだ。おじさんはこんなものを飲んでいるのか、どこが美味しいのか全くわからない、その気持ちと水筒に蓋をしながら自分の部屋に向かう。

 2階の廊下の左側にある鏡が、私の姿を映し出していた。顔も体もボロボロになった。あざや傷は数ヶ月前と比にならないくらい多くなっていたが、たまに現れる黒い影は跡形も無くなっていた。

 じっと鏡を見つめていると、鏡に映った私が私じゃない別の人物に見えた。いや、正確に表現するなら何か人型の置物のような、自分の銅像がそこにあるような感覚に陥った。

 それもそうか、私はもう私じゃないし私はこれから私じゃなくなるのだから。私は鏡に向かって微笑みかけた。すると鏡の中の銅像は不気味に頬を吊り上げ私を威嚇してきた。

 心臓がバクバクした私は急いで自分の部屋に駆け込む。さっきの銅像は悪魔だったのか、頭が混乱して訳がわからなくなる。落ち着こうと、くまのぬいぐるみを出して香水をかけギュッと抱きしめる。

 ここ数年くまのぬいぐるみを抱きしめてなかったくせに、最近はことあるごとにぬいぐるみを抱きしめていた。我ながら薄情なやつだ、天国のお母さんになんて言われるか分からない。

 落ち着きを取り戻した私は椅子に座りDメガネを起動する。『私は数年前から叔父から暴力を受けていました。もう耐えきれません。みんな本当にありがとう。幸せになってね』何度か見直し、明日の夕方の17時に投稿されるようにタイマーをセットしDメガネを机の上に置いた。決行は明日の午前2時、いわゆる丑三つ時だ。何となくお母さんに会いに行くならこの時間がいいような気がする。

 後13時間、それまで暇な時間を持て余す。

 心残りは特にない。もうやりたいことはないし、別れを告げたいと思う人もいない。むしろ、天国にいるお母さんに手紙を書きたいくらいだ。お母さんにあったら何を話そう。背が伸びたことも、ニンジンが食べられるようになったことも、平泳ぎができるようになったことも、お母さんに話さないといけない。

 純情を失ったことは話さなくてもいいかな、お母さんもそんなことは知りたくないはずだ。思い出したくないことを頭から追い出すように部屋を見渡す。最近の自堕落な生活のせいで少々いやかなり散らかっている。

 後12時間、部屋の掃除でもして時間を潰そう。

 まずは机の上から片付け始める。チョコレートのゴミや雑多な化粧道具をゴミ箱に入れ、棚にある本や雑誌を段ボールに詰めていく。意外と多くの本があり段ボール2個分くらいになった。机の上をきれいに磨くまでしていたら、かなり腰が痛くなってきた。体力がなくなってきたな、そう思いながら段ボールを部屋の隅に寄せようやく机周りが終わった。

 後11時間、次は床の掃除。

 まずは床に落ちている洗濯物をお風呂場の洗濯機に入れにいく。戻ってきてから、部屋の隅々まで髪の毛やちりが落ちていない確認しながらゆっくり掃除機をかける。きれいに掃除機をかけ終わった後は乾いた衣類をベランダから持って来て畳んでたんすにしまった。

 後10時間、時間があるなら押し入れの整理もしよう。

 押し入れにはコートやジャンバーなどの羽織る衣類と、ファンレターが入っている段ボールがある。衣類は今どうこうできるものでもないくらいあるし適当に捨ててもらおう。もしかしたらお金に変わるかもしれないし。ファンレターはこれだけは私の手で捨てたかった。ファンレターは一つ一つに想いが込められており、何だか他の人に見られるのはとても嫌な気がするし、特におじさんに見られたくない。

 段ボールを持ち上げると、はらりと一枚の桜色のファンレターが床に落ちていった。一旦段ボールを置き差出人を確認すると、数少ない女性ファンのカジュさんからだった。綺麗な字と年下とは思えない言葉遣いが特徴でいつもファンレターが来るのを楽しみにしていた。

 久しぶりに手紙をひらく。『拝啓 桜の花も満開となり桜並木は足元まで綺麗に桜色に染め上げられる季節になりましたが、いかがお過ごしでしょうか』自己流の時候の挨拶もファンレターが届く日の楽しみだった。懐かしな、毎月12日は私にとって最高な日だった。ファンレターが家に届くのを今か今かとそわそわし、届いたらそのまま2日配信を休みファンレターを読み耽る。

 涙が溢れてきた。そんな幸せはもうやってこない。どれだけ生きようと、どれだけ苦しもうと、どれだけあざが酷くなろうと、どれだけ穴が広がろうと、一生やってこない。それならもうここで辞めてもいいじゃないか、もうここでみんなから忘れ去られてもいいじゃないか。

 私はフラフラと立ち上がった。定まらない焦点を使って、震えておぼつかない手を使って、カジュからのファンレターを拾い上げて段ボールの中にパサっと落とした。それから近くの資源回収場に行き段ボールを捨てようとした。パジャマ姿で突っ立っている私を通行人は奇妙な目で見たことだろう。

 家に帰って部屋の床に座り込んだ私の膝の上には段ボールが乗っていた。結局捨てられなかった。ファンからの思いか、過去の楽しみ故なのか分からないが、どうしてもファンレターを捨てられなかった。そのままファンレターにもたれかかり項垂れた。

 後9時間、何もやる気がなくなった。

 もたれかかっていた段ボールから数枚のファンレターを取り出し、一文字一文字取りこぼさないように丁寧に目を通す。全体的に桜の絵が描かれていたり、桜色の便箋を使っていたりしているファンレターが多い。みんな桜サクのことが好きなんだな、と思うと嬉しい感情より共感する感情の方が先に出てきた。

 ふと手に取ったファンレターに『これからも配信楽しみにしています!お体に気をつけてくださいね!』と書かれていて、また心に穴の空いたような、体が削り取られたような喪失感に襲われる。涙が出そうになり部屋の隅を見上げるが視界が潤んでくる。もう泣き飽きた。ここ数日嫌というほど涙を流し、嫌いな感情に支配され続けた。

 もういいよ、もういいんだよ。神様はなんで私にだけこんな酷い仕打ちをするのだろうか。私が何か神様の逆鱗に触れることをしたのだろうか。絶対に神様が怒るようなことはしてないし、何なら生まれて19年間粛々と生きてきた。考えれば考えるほど怒りの感情が湧き上がってくる。行き場のない怒りを抱えながらファンレターを段ボールにしまう。また後で読もうと段ボールを押し入れの手前の方に置き押し入れの扉を閉めた。

 後8時間、風呂に入る。

 着替えを持ちお風呂場に向かう。今日が最後のお風呂だからしっかりと体を洗い湯船に浸かりたい。脱衣所からお風呂場を覗くと運がいいことにお湯が張ってあった。先程のことが頭によぎり鏡を見ないように慎重に脱衣を済ませお風呂場のドアを開けると一気に湯気と生暖かい風が流れ込んできた。一瞬視界が真っ白になりあの世に迷い混んだみたいな錯覚を覚えるが、湯気が晴れたらそこにあるのはいつもの汚いお風呂場だった。

 気を落としたような、安堵したようなため息を漏らしながら椅子に座り体を洗い始める。ここ数日、会えない恋人に恋焦がれている少女のように、お母さんのことを考えている。恋、それは私が生まれてこの方一度も抱いたことがない感情だ。シロはよく運営の人やアニメのキャラに恋しているが、どれだけシロに恋を説明されても私には恋がわからない。

 もしこの感情が恋なら、私の初恋の人はお母さんということになるのか。馬鹿げた考えに自分で嘲笑し、湯船に足からゆっくりと浸かり始める。足先から伝わってきた暖かさはすぐに全身へと広がっていき、私の体温を徐々に上昇させていった。ふぅ、吐息を漏らし全身を湯船に預ける。時間がゆっくりと流れたかと思うと脱衣所の扉の開くゴロゴロという音が聞こえてくる。咄嗟に今さっき吐いた息を再び体内に戻してしまう。

 心臓がばくばくと唸る音としばらく服を脱ぐ音が聞こえる。人が服を脱ぐ時間なんて数十秒に満たないだろうが、その時間が数時間にも感じられた。ガラガラ、運命の扉が開く音に反応しドアを凝視していると、そこに現れたのは意外なことにも夏樹だった。

「お母さ…。ごめんなさい!」

 夏樹は湯船に浸かる私を視認すると一目散にドアを閉め脱衣所に戻っていった。それから、急いで服を着る音が聞こえ夏樹は脱衣所から走って出ていってしまった。そんなに私のことが嫌いなのだろうか。なかなか下がらない心拍数と心に現れたモヤモヤに、ゆっくりと入浴する気もなくなりすぐにお風呂を出てしまった。

 後7時間、これがもう最後の晩餐になる。

 髪を乾かし終える頃には心拍数は下がりモヤモヤは消え、後に残るのは早くにお風呂を上がった後悔だけだった。気にしても仕方ないとリビングに最後の晩餐を取りに行く。私の最後の晩餐はおばさんの得意料理のカルボナーラパスタだった。部屋に持ち帰り一口一口味わいながら麺を口に運ぶ。口の中にカルボナーラのクリーミーさ広がり端々にブラックペッパーのピリッとした風味がいいバランスだ。これが最後の晩餐でよかった、そう思えるほどカルボナーラは絶品だった。

 皿を返しに行く時にお風呂場に忘れ物をしていたのを思い出し、リビングに行ったついでにお風呂場に取りに行った。できるだけ音を立てないようにお風呂場に向かう途中、お風呂場の向かいにある夏樹の部屋からすすり泣く声が聞こえてきた。何か嫌なことでもあったのだろうが私にできることは何もない、と思いまた音を立てないように自分の部屋に戻っていった。

 後6時間、おじさんからメッセージがきた。
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