偽典尼子軍記

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第36話 1547年(天文十六年)5月 吉田郡山城

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 清水寺に置いた長海ちょうかいから毛利元就宛に文が届いた。この文を元就は待っていた。世鬼衆を通して出雲の消息は受け取っているが長海からの知らせは確度が高い。富田城下と城内の生の声が聞こえるからだ。
 元就は文を一読して思考の山岳に登る。己が持つ知識、記憶、経験、感情、他人の振る舞い、垣間見える心の動き…多種多様の『情報』を使って山に登る。登りきればそこに景色が見える。見えるまで何度も何度も山を登る。

 あの時から今までこうしてきた。城を奪われ、着の身着のまま放り出されたあの時からずっと。幸い考える時間だけはタップリとあった。後は考えるだけ、如何にしてこの哀れで、ひもじく、腹わたが煮えくり返る様から抜け出せるのか。考え考え考え抜くその果に…元就はこの過程を通じて恐ろしいほどの集中力とそれに伴う記憶と推論による思考実験を体得していった。己が得た知識と経験、感情、他人の振る舞い、他社の思考法などを高速で脳内で組み立てる。結果新たなる現象、物事の推移を予測する。童のときはまだ不確実だったが成長し経験を積み、新たな知識を得ていくごとに予測は確実に精度が高まっていく。今や実用に十分耐えるレベルで思考実験は行われる。『謀神』の誕生である。
 今回の実験のはて山の頂にて見たものは

『尼子三郎四郎』

 此奴は神仏を恐れておらぬのか。寺社に対して遠慮が全く無い。元服前の童にしてはあり様があまりにも異質だ。古き武具と新しき武具をサラリと使いこなす妙よ、非凡な才よな。草を自在に操るか…やっかいよのう。


「隆元よ。陶殿に文を送る際、儂が言ったことを憶えておるか」
 文を食い入るように見る隆元に元就は問を投げかける。
「はい、我々には失うものは何もないゆえ、適度に煽ればよろしいと父上はおっしゃいました」
「ん。その結果毛利が得たものはなんぞや」
「新宮党の解体。尼子の強力な軍の中枢である新宮党が滅びました。戦力低下は確実です。毛利にとって喜ばしい出来事です」
「ほかには?」
「…伯耆と美作の統治者不在による混乱、謀反人たちのあぶり出しと成敗に費やす時間…我らは時を得ることができました」
「ん。では失った、いや違うな尼子が得たものはなんぞや」
「得たものでございますか」
「そうじゃ、得たものじゃ」
 隆元は首を傾げながら考える。暫くして答えを口にする。
「今少し時が必要かと思われますが、尼子家の結束は強まるのではないでしょうか」
「そうじゃの。これは面倒くさいのう。他にあるか」
「…なにかあるような、ないような…」
 ほう、少しは頭が回るようになったか、と元就は心の中で笑みを浮かべる。
「此度の尼子の動き、手際が良すぎる。謀ったかのよう、いや謀っておったのであろう。まるで盛時の経久殿を見るようじゃ。晴久ではこうはいかん」
「そのような智慧者が尼子に居りましょうや」
「出てきたのじゃ、いきなりな。富田の麒麟児、噂は本当であったか。隆元、これが一番難儀なできごとぞ」
「元服前の童がですか」
「そうよ、此度の戦、尼子の嫡男の差配に相異ない。そうとしか考えられん」
 元就は立ち上がり庭を見た。そして一つ一つ言葉を選ぶように隆元に語りかける。
「備後と備中は必ず手中に収めねばならん。そのため尼子の神辺城支援は絶対にさせてはならん。尼子が美作を抑えるのにかかる時間を伸ばすのだ。隆元よ、美作内の国人と備前の浦上を調べ尼子に反旗を翻す勢力を作り上げよ。備中の三村に渡りをつけこちらに引き込むのだ」
「はっ。仰せのとおりに」
「それと尼子の乱破を調べよ。鉢屋とそれとは違う新参者両者を調べよ」
「分かりました」
 うむ、コヤツもだいぶ大内かぶれが抜けてきたな。雅も必要だが適度で良い。武士は所詮力よ。智力、武力、胆力これがあれば後はなんとでもなるわい。

 謀神の謀は淀むことがない。ただ流れるのみ。その先で溺れる者は誰であろうか。


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