背中越しの温度、溺愛。

夏緒

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1話 蝉。1

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side I

「触んな」

 手狭な台所で振り払った手は、暑さで少し湿っていた。
 夕下がりの生温い風が開けていた窓から入ってきて、蝉が、煩かった。
 目前の男は戸惑ったような顔で黙り込む。振り払われた手をどうするか迷っているようだった。下ろされることもなく、もう一度持ち上げられることもなく、宙を漂う。

「……やめたろ、もう」

 芝居みたいだ。
 自嘲して、雰囲気に合わず笑いそうになる。
 限界だった。
 シンクに二つ並んだ色違いのグラスは、飲みかけの中身が汗を掻いていた。

 夕暮れ時、蝉が喚いて、煩かった。





「涙とまらん……」
「一度聞こうと思っていたんだがよ、お前らって馬鹿なんだよな? 樹」
 鼻水を盛大な音でかんでいると、カウンターの向こうから呆れたような低いハスキーボイスが侮蔑してくる。
「んなこたぁ分かってますよ……」
 まだ誰も来ないような夕方六時過ぎの、駅前の寂れた雑居ビルの、一番奥のバーには譲治がいる。まだBGMも流されていない。
 ヒカルと揉めるたびにここに来ては譲治に泣きつくのも我ながらどうかとは思うが、ここのカウンター席は居心地がいいのだ。今日は箱ティッシュを持参してきた。ついでにゴミ捨て用のコンビニのレジ袋も。何度鼻をかんでも止まらない。涙を拭うのはもう諦めた。
「ったく。で? 何度目だよ」
「三度目です……」
「たった二年でよくもまぁ、それだけ引っ付いたり離れたり出来るな。同じ相手と」
 本当かどうかは知らないが、今年四十二になるらしい譲治には子どもが五人もいるらしい。そのおかげか、どうやら大学生の自分のことも我が子と同じように見えるらしく、譲治はいつも呆れながらも愚痴を聞いてくれる。
 ことりと譲治がカウンター越しに置いたのは、二杯目のブラックコーヒーだ。温かな湯気が顔をくすぐるのも二回目。
「うちは喫茶店じゃないんだがな、樹くんよォ」
「じゃあ酒くださいよ」
「こんな時間からガキに呑ませる酒はねぇよ」




 ヒカルと出会ったのは、大体二年とちょっと前だ。
 大学に入りたての頃、たまたま仲良くなった女の子のまなかに、何の集まりか良く分からない新歓という名の飲み会に誘われて、居酒屋に行った。
 そこにヒカルが居た。
 笑い声の目立つ客だった。
 入口近くの席で、いかにも仕事終わりな感じの男二人がスーツで飲んでいた。良く見たらネックレスとか指輪とか、アクセサリーが目立っていて、ちょっと感じの悪い男だなぁと、遠くから見ていた。
 自分達が通されたのは、店の奥の広い座敷で、注文の受け渡しをするために開けっ広げな空間になっていた。
 新歓はあまり楽しくはなくて、愛想笑いを浮かべながら酒ばかりが進んでいた。まなかがよそってくれた食べ物も、そんなに美味しいと思えなくて、部屋の入口近くに座って退屈な会話を聞いていた。
 唯一の知り合いであるまなかは隣の女の子と楽しそうに話していて、つまんないな、帰りたい。そう思っていた。
 酒が進めばトイレも近くなる訳で、幸運なことに座敷からトイレはとても近くて、退屈だったし、何度かトイレに立った。
 ヒカルと目が合ったのは、二度目にトイレに行った時だった。トイレに先客が居て、出て来たのがヒカルだった。
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