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王女と勇者(最終話)
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その日の午後、アイディリク領の領主の館を二人の男女が訪れた。
客人に失礼があってはいけないからと、この館で働く使用人には、領主夫妻にとって重要な人物であることが数日前から周知されているため、使用人達はどこか緊張していた。
客人の訪れを告げるため門番の1人が館に走ってきたとき、その緊張は最高潮に達していた。
普段は応接間で待つ領主夫妻が、自ら玄関まで客人の出迎えをしているのだ。
その様子からも相当な重要人物であることがうかがえるため、決して粗相をしてはならないと、壁際に立つ使用人達は、気を引き締めた。
領主夫妻は、客人を笑顔で迎えた。
「ようこそお越しくださいました。リチャード殿、リリー殿」
「お久しぶりです、ギルベルト様、レイチェル様」
領主夫妻にとっての重要な客人は、リチャードとリリーであった。
リリーと夫妻はこの数年の間に何度か会っているが、リチャードは実に十年ぶりの再会である。
領主ギルベルトは、既に六十路にさしかかっているのだが、若い頃から変らぬがっしりとした体躯を持ち、少しも衰えた様子がない。
彼の後妻であり、この国の第二王女であるレイチェルも、十年の歳月を経てなお美しいままだった。
彼女が5年前に生んだ娘は、母親に似てとても可愛らしい。
夫妻の間に出来た子供は一子だけだが、アイディリク領には領主が前妻との間に設けた男児が二人いるため、後継者の心配は無かった。
むしろ、後継者争いに発展せずに済んで良かったのかもしれない。
「遠いところからお越しくださり、ありがとうございます。お二人ともお疲れでしょう。どうぞ、こちらに」
領主自らが先導し、応接間に彼らを案内した。
応接室は広く、息苦しさを感じない造りになっている。
防音であるため、会話が外に漏れる心配はない。
領主に促されるまま、リチャード達は革張りのソファに腰を下ろした。
執事は人数分の紅茶を淹れると、音を立てずドア付近の壁際に控えた。
彼の隣には、レイチェルの専属侍女も控えている。
リチャード達四人は、穏やかな雰囲気で話し始めた。
ギルベルトが何気ない世間話を振り、リリーも各地で見聞きした噂話を彼らに提供した。
何気ないやりとりをしばらく続けた後、ギルベルトが行動に移した。
「――そうだ。実はリリー殿に見ていただきたいものがあるのですが、よろしいですかな?」
「えぇ、構いませんわ」
「実は持ち運ぶには障りがあるものでしてな…。移動が出来ないのです」
「あら、それでしたら私がそちらに行きますわよ。案内してくださる?」
「ありがとうございます。では、リチャード殿、しばしリリー殿をお借りいたします。――レイチェル、リチャード様に失礼のないように頼む」
「かしこまりました、旦那様」
ギルベルトとリリー、そして執事が退室すると、当たり前だが部屋にはリチャードとレイチェル、そして彼女の専属侍女が残された。
専属侍女はレイチェルが幼少の頃から仕えている。彼女の口からレイチェルが不利になるような情報が漏洩することは皆無だ。
領主夫人が男性と室内で二人きりになる事を防ぎ、かつ主人の密談を口外することのない信頼できる人物である。
先に口を開いたのはリチャードだった。
「――レイチェル様。本日は、会っていただけて…その、ありがとうございます」
「いいえ。私の方こそ、リチャード様とお話しできる日を心待ちにしておりましたから。ご連絡いただき、ありがとうございます」
彼らが直接言葉を交わすのは、あの日――10年前の国王との謁見以来である。
レイチェルは国を救った勇者であるリチャードとの対話を望んでいたが、心に傷を負っていたリチャードは、それに応じる余裕がなかった。
結局リチャードへの褒美について話すことや、今まで勇者への支援が出来ておらず王族として無責任であったことを詫びたくとも、出来ずにいた。
「時間が経ってしまいましたが、リチャード様。彼の大戦では、この国を救ってくださり感謝いたします。この国の王族に連なる者として、改めて御礼を申し上げます」
レイチェルは立ち上がると深く頭を下げた。
リチャードは慌てる。
「か、顔を上げてください! 俺なんかに頭を下げる必要なんてないです!」
彼は以前『王族は気軽に頭を下げてはいけない』のだと聞いたことがあった。
勇者の肩書きを持っていた頃ならともかく、今のリチャードはただの領民だ。
王族でありリチャードが暮らす土地の領主夫人である彼女は、どうあがいてもリチャードより立場が上である。
彼女にとって頭を下げて良い相手ではないはずだ。
慌てるリチャードは、思わず己の背後を振り返った。
ドア付近にはレイチェルの専属侍女がおり、彼女の主人がただの領民に頭を下げるのを止めてもらおうとしたのだが、なんと侍女も深く頭を下げていた。
主従揃って頭を下げられては、どうすることも出来ない。
リチャードはその場に立ってオロオロしながら、レイチェル達が顔を上げるのを待った。
やがて顔を上げたレイチェルは、困った顔のリチャードを見て申し訳なさそうな顔をする。
「申し訳ございません、困惑させてしまいましたね。どうぞ、お掛けになってください」
「い、いえ…、はい…」
レイチェルに促され、リチャードはソファに腰を下ろした。
レイチェルも音を立てずに座る。
「リチャード様。確かに今のあなたは、ここアイディリク領の領民の1人です。ですが少なくとも私や、後ろに控えております侍女のグレースにとって、あなたは英雄のままなのです。
あなたに助けていただいた、その事実は変える事が出来ませんわ。
それに私はもう王女では無く領主夫人です。お世話になった方に対して頭を下げることに、なんの問題もありません。
――仮に王女のままであっても、私はあなた様であれば、躊躇をせずに頭を下げることが出来たでしょう」
おそらくレイチェルの父――国王でさえも、他の臣下がいない場であれば、リチャードに頭を下げただろう。
リチャードはなんと返答したものか困ってしまう。
「リチャード様やリリー様達へのご恩は、一生忘れることは出来ません。また王族としては、一生忘れてはいけないことなのです。
――ね、グレース?」
「はい」
レイチェルに促され、年かさの侍女が口を開いた。
「わたくしの夫も、兵士としてあの大戦に参加しておりました。
上官の無茶な作戦が失敗し、ユリガ平原で主人は仲間数人と敵に取り囲まれてしまい身動きが取れなくなったのです。
死を覚悟したときに、皆様に助けていただいたのだと聞きました。上官は主人達をあっさりと見捨てたというのに、リチャード様が周囲の制止を振り切ってまで、見捨てず助けに来てくれたのだと。
夫はずっとあなたに感謝しておりました。
もちろん私も、娘も、夫の命を救ってくださったあなたにお礼を申し上げたいと思っておりました」
本当にありがとうございました。
侍女はあらためて、深く腰を折った。
「グレースだけではありません。リチャード様達に助けられた人々は、きっと、あなた様が想像するよりもずっと多いのです」
「…そう、ですか…。それなら、よかった…」
リチャードが日頃思い出すのは、あの大戦の最中、救えなかった町村の人々からぶつけられた怒りだばかりだった。
感謝された人々の顔や言葉よりも、それは強く記憶に残っている。
だがグレースが言うユリガ平原での一件は、リチャードも覚えていた。
無能な貴族の尻拭いをするはめになり、取り残された兵士を救うためには、敵の数が多く危険だからとマークやルーイには止められたのだった。
だが助けられる人を見捨てたくはない。
単身で駆けだしたリチャードにすぐさま加勢したのはロベルトだけだった。
止めることや説教めいたことは一切口にせず、彼はただひたすら、リチャードが戦いやすいようにサポートし続けてくれた。
敵の数は多く、2人だけでは苦戦を強いられたが、どうにか持ちこたえることはでき、追いかけてきたダンとケインが加わって無事に敵を一掃することができたのだった。
(そういえばその時助けた人達から、すごく感謝されたな…。そうか、あの中にこの人の旦那さんがいたんだ…)
助けられて本当に良かった。
リチャードの心のじんわりと染みこんでいった。
――とはいえ、リチャードがその一件を覚えていたのは、戦いが一段落した後、マークとルーイ、リリーの3人にしこたま叱られたからだ。
ロベルトと2人、固い地面に正座をさせられ、コンコンと説教された。
解放されたときにはロベルトもリチャードも、生まれたての子鹿のように足がぷるぷるして歩けなかった。
シャラとケインが嬉々として、リチャード達の足を突くのだからたまったものではない。
その時の様子思い出して、リチャードは頬を緩める。
「私は今でも、救国の英雄であるあなたへの報奨が、あれでよかったのか考えてしまいます」
「――え?」
「命を賭して戦ったあなた方に、国から贈ることができたのは報奨金のみでした。本来ならば爵位や領土、国宝級の品物をお贈りすべきでしたのに…」
「いえ、それは誰も求めていませんでしたので…」
勇者のパーティメンバーには、報奨金が支払われている。
パーティメンバーの誰もが、権力など求めていなかったため、大金を貰って大喜びしていたくらいだ。
「それに、リチャード様から勇者の肩書きを外してしまって、本当に良かったのか…」
レイチェルは当時を思い出す。
勇者が望んだことではあるが、レイチェルたち王族は彼から勇者の肩書きを外した。
国を救った英雄を、ただの男にして片田舎に押し込んだのだ。
「俺は、ああして貰えて良かったと思っています。
あのときの俺は、勇者を続けられそうに無かったですし、それに今はもう剣を持つことは出来そうにありません。
…王女様を俺の花嫁にとすすめてくださったのに、お断りする形になってしまい、本当に申し訳ありません。
その…俺のせい…というか、俺を匿うために、あなたはここの領主夫人となったと聞きました…」
リチャードが断ったから、レイチェルは父親ほど年の離れた男の後妻になった。
そのことを、彼は密かに気にしていた。
レイチェルはゆるりと首を横に振る。
「この国にとって意味のある婚姻を結ぶことが、王族の務めですわ。私がこの領地に嫁ぐことになったのは、王族にとって利となるからであり、リチャード様のせいではありません。
――それに、旦那様は私を大事にしてくださいますの。この家に嫁ぐことが出来て、私は幸運でしたわ」
そう言って微笑むレイチェルの顔に、憂いは無かった。
幸福そうな彼女の顔を見て、リチャードは安堵した。
「そう…ですか。よかった…」
リチャードは改めて、レイチェルに礼を言う。
「レイチェル様。あの時――俺の望み通りに勇者を殺してくださり、ありがとうございました。おかげで俺は今、大切な人と一緒に暮らすことが出来て、とても幸せです」
あの時とは違い、目の前の青年はとても穏やかな笑みを浮かべている。
ああ、とレイチェルは思う。
この人はきっと、私の側では心安らかに過ごすことはできなかっただろう、と。
大戦を終えた勇者が心から求め、彼の傷ついた心を癒やすことができたのは、安全な場所にいた王女などではなく、彼と共に戦場を駆けた者だった。
勇者への褒美は、王女では駄目なのだ。
あの日、国王へ異を唱えたことは、決して間違いでは無かったのだ。
レイチェルも心の底にずっと残っていた憂いが晴れて、微笑んだ。
客人に失礼があってはいけないからと、この館で働く使用人には、領主夫妻にとって重要な人物であることが数日前から周知されているため、使用人達はどこか緊張していた。
客人の訪れを告げるため門番の1人が館に走ってきたとき、その緊張は最高潮に達していた。
普段は応接間で待つ領主夫妻が、自ら玄関まで客人の出迎えをしているのだ。
その様子からも相当な重要人物であることがうかがえるため、決して粗相をしてはならないと、壁際に立つ使用人達は、気を引き締めた。
領主夫妻は、客人を笑顔で迎えた。
「ようこそお越しくださいました。リチャード殿、リリー殿」
「お久しぶりです、ギルベルト様、レイチェル様」
領主夫妻にとっての重要な客人は、リチャードとリリーであった。
リリーと夫妻はこの数年の間に何度か会っているが、リチャードは実に十年ぶりの再会である。
領主ギルベルトは、既に六十路にさしかかっているのだが、若い頃から変らぬがっしりとした体躯を持ち、少しも衰えた様子がない。
彼の後妻であり、この国の第二王女であるレイチェルも、十年の歳月を経てなお美しいままだった。
彼女が5年前に生んだ娘は、母親に似てとても可愛らしい。
夫妻の間に出来た子供は一子だけだが、アイディリク領には領主が前妻との間に設けた男児が二人いるため、後継者の心配は無かった。
むしろ、後継者争いに発展せずに済んで良かったのかもしれない。
「遠いところからお越しくださり、ありがとうございます。お二人ともお疲れでしょう。どうぞ、こちらに」
領主自らが先導し、応接間に彼らを案内した。
応接室は広く、息苦しさを感じない造りになっている。
防音であるため、会話が外に漏れる心配はない。
領主に促されるまま、リチャード達は革張りのソファに腰を下ろした。
執事は人数分の紅茶を淹れると、音を立てずドア付近の壁際に控えた。
彼の隣には、レイチェルの専属侍女も控えている。
リチャード達四人は、穏やかな雰囲気で話し始めた。
ギルベルトが何気ない世間話を振り、リリーも各地で見聞きした噂話を彼らに提供した。
何気ないやりとりをしばらく続けた後、ギルベルトが行動に移した。
「――そうだ。実はリリー殿に見ていただきたいものがあるのですが、よろしいですかな?」
「えぇ、構いませんわ」
「実は持ち運ぶには障りがあるものでしてな…。移動が出来ないのです」
「あら、それでしたら私がそちらに行きますわよ。案内してくださる?」
「ありがとうございます。では、リチャード殿、しばしリリー殿をお借りいたします。――レイチェル、リチャード様に失礼のないように頼む」
「かしこまりました、旦那様」
ギルベルトとリリー、そして執事が退室すると、当たり前だが部屋にはリチャードとレイチェル、そして彼女の専属侍女が残された。
専属侍女はレイチェルが幼少の頃から仕えている。彼女の口からレイチェルが不利になるような情報が漏洩することは皆無だ。
領主夫人が男性と室内で二人きりになる事を防ぎ、かつ主人の密談を口外することのない信頼できる人物である。
先に口を開いたのはリチャードだった。
「――レイチェル様。本日は、会っていただけて…その、ありがとうございます」
「いいえ。私の方こそ、リチャード様とお話しできる日を心待ちにしておりましたから。ご連絡いただき、ありがとうございます」
彼らが直接言葉を交わすのは、あの日――10年前の国王との謁見以来である。
レイチェルは国を救った勇者であるリチャードとの対話を望んでいたが、心に傷を負っていたリチャードは、それに応じる余裕がなかった。
結局リチャードへの褒美について話すことや、今まで勇者への支援が出来ておらず王族として無責任であったことを詫びたくとも、出来ずにいた。
「時間が経ってしまいましたが、リチャード様。彼の大戦では、この国を救ってくださり感謝いたします。この国の王族に連なる者として、改めて御礼を申し上げます」
レイチェルは立ち上がると深く頭を下げた。
リチャードは慌てる。
「か、顔を上げてください! 俺なんかに頭を下げる必要なんてないです!」
彼は以前『王族は気軽に頭を下げてはいけない』のだと聞いたことがあった。
勇者の肩書きを持っていた頃ならともかく、今のリチャードはただの領民だ。
王族でありリチャードが暮らす土地の領主夫人である彼女は、どうあがいてもリチャードより立場が上である。
彼女にとって頭を下げて良い相手ではないはずだ。
慌てるリチャードは、思わず己の背後を振り返った。
ドア付近にはレイチェルの専属侍女がおり、彼女の主人がただの領民に頭を下げるのを止めてもらおうとしたのだが、なんと侍女も深く頭を下げていた。
主従揃って頭を下げられては、どうすることも出来ない。
リチャードはその場に立ってオロオロしながら、レイチェル達が顔を上げるのを待った。
やがて顔を上げたレイチェルは、困った顔のリチャードを見て申し訳なさそうな顔をする。
「申し訳ございません、困惑させてしまいましたね。どうぞ、お掛けになってください」
「い、いえ…、はい…」
レイチェルに促され、リチャードはソファに腰を下ろした。
レイチェルも音を立てずに座る。
「リチャード様。確かに今のあなたは、ここアイディリク領の領民の1人です。ですが少なくとも私や、後ろに控えております侍女のグレースにとって、あなたは英雄のままなのです。
あなたに助けていただいた、その事実は変える事が出来ませんわ。
それに私はもう王女では無く領主夫人です。お世話になった方に対して頭を下げることに、なんの問題もありません。
――仮に王女のままであっても、私はあなた様であれば、躊躇をせずに頭を下げることが出来たでしょう」
おそらくレイチェルの父――国王でさえも、他の臣下がいない場であれば、リチャードに頭を下げただろう。
リチャードはなんと返答したものか困ってしまう。
「リチャード様やリリー様達へのご恩は、一生忘れることは出来ません。また王族としては、一生忘れてはいけないことなのです。
――ね、グレース?」
「はい」
レイチェルに促され、年かさの侍女が口を開いた。
「わたくしの夫も、兵士としてあの大戦に参加しておりました。
上官の無茶な作戦が失敗し、ユリガ平原で主人は仲間数人と敵に取り囲まれてしまい身動きが取れなくなったのです。
死を覚悟したときに、皆様に助けていただいたのだと聞きました。上官は主人達をあっさりと見捨てたというのに、リチャード様が周囲の制止を振り切ってまで、見捨てず助けに来てくれたのだと。
夫はずっとあなたに感謝しておりました。
もちろん私も、娘も、夫の命を救ってくださったあなたにお礼を申し上げたいと思っておりました」
本当にありがとうございました。
侍女はあらためて、深く腰を折った。
「グレースだけではありません。リチャード様達に助けられた人々は、きっと、あなた様が想像するよりもずっと多いのです」
「…そう、ですか…。それなら、よかった…」
リチャードが日頃思い出すのは、あの大戦の最中、救えなかった町村の人々からぶつけられた怒りだばかりだった。
感謝された人々の顔や言葉よりも、それは強く記憶に残っている。
だがグレースが言うユリガ平原での一件は、リチャードも覚えていた。
無能な貴族の尻拭いをするはめになり、取り残された兵士を救うためには、敵の数が多く危険だからとマークやルーイには止められたのだった。
だが助けられる人を見捨てたくはない。
単身で駆けだしたリチャードにすぐさま加勢したのはロベルトだけだった。
止めることや説教めいたことは一切口にせず、彼はただひたすら、リチャードが戦いやすいようにサポートし続けてくれた。
敵の数は多く、2人だけでは苦戦を強いられたが、どうにか持ちこたえることはでき、追いかけてきたダンとケインが加わって無事に敵を一掃することができたのだった。
(そういえばその時助けた人達から、すごく感謝されたな…。そうか、あの中にこの人の旦那さんがいたんだ…)
助けられて本当に良かった。
リチャードの心のじんわりと染みこんでいった。
――とはいえ、リチャードがその一件を覚えていたのは、戦いが一段落した後、マークとルーイ、リリーの3人にしこたま叱られたからだ。
ロベルトと2人、固い地面に正座をさせられ、コンコンと説教された。
解放されたときにはロベルトもリチャードも、生まれたての子鹿のように足がぷるぷるして歩けなかった。
シャラとケインが嬉々として、リチャード達の足を突くのだからたまったものではない。
その時の様子思い出して、リチャードは頬を緩める。
「私は今でも、救国の英雄であるあなたへの報奨が、あれでよかったのか考えてしまいます」
「――え?」
「命を賭して戦ったあなた方に、国から贈ることができたのは報奨金のみでした。本来ならば爵位や領土、国宝級の品物をお贈りすべきでしたのに…」
「いえ、それは誰も求めていませんでしたので…」
勇者のパーティメンバーには、報奨金が支払われている。
パーティメンバーの誰もが、権力など求めていなかったため、大金を貰って大喜びしていたくらいだ。
「それに、リチャード様から勇者の肩書きを外してしまって、本当に良かったのか…」
レイチェルは当時を思い出す。
勇者が望んだことではあるが、レイチェルたち王族は彼から勇者の肩書きを外した。
国を救った英雄を、ただの男にして片田舎に押し込んだのだ。
「俺は、ああして貰えて良かったと思っています。
あのときの俺は、勇者を続けられそうに無かったですし、それに今はもう剣を持つことは出来そうにありません。
…王女様を俺の花嫁にとすすめてくださったのに、お断りする形になってしまい、本当に申し訳ありません。
その…俺のせい…というか、俺を匿うために、あなたはここの領主夫人となったと聞きました…」
リチャードが断ったから、レイチェルは父親ほど年の離れた男の後妻になった。
そのことを、彼は密かに気にしていた。
レイチェルはゆるりと首を横に振る。
「この国にとって意味のある婚姻を結ぶことが、王族の務めですわ。私がこの領地に嫁ぐことになったのは、王族にとって利となるからであり、リチャード様のせいではありません。
――それに、旦那様は私を大事にしてくださいますの。この家に嫁ぐことが出来て、私は幸運でしたわ」
そう言って微笑むレイチェルの顔に、憂いは無かった。
幸福そうな彼女の顔を見て、リチャードは安堵した。
「そう…ですか。よかった…」
リチャードは改めて、レイチェルに礼を言う。
「レイチェル様。あの時――俺の望み通りに勇者を殺してくださり、ありがとうございました。おかげで俺は今、大切な人と一緒に暮らすことが出来て、とても幸せです」
あの時とは違い、目の前の青年はとても穏やかな笑みを浮かべている。
ああ、とレイチェルは思う。
この人はきっと、私の側では心安らかに過ごすことはできなかっただろう、と。
大戦を終えた勇者が心から求め、彼の傷ついた心を癒やすことができたのは、安全な場所にいた王女などではなく、彼と共に戦場を駆けた者だった。
勇者への褒美は、王女では駄目なのだ。
あの日、国王へ異を唱えたことは、決して間違いでは無かったのだ。
レイチェルも心の底にずっと残っていた憂いが晴れて、微笑んだ。
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