モノクロに君が咲く

琴織ゆき

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8章「答え合わせをしましょうか」

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 この一ヶ月、先輩とは毎日のようにチャットで連絡を取り合っていた。
 けれど、直接会えないというのは特有な寂しさが付きまとう。触れたときの体温を感じられないのも、ほんのわずかな表情の変化を汲み取ることができないのも──たったそれだけ、と言い切れるようなことが、ひどく不安と焦燥を誘うのだ。
 自分が言い出したことなのに、何度も何度も後悔した。
 酸素マスクなしには生活できなくなり、ただ起きて、寝て、絵を描いてを繰り返す単調な日々だった。両親や愁はもちろん、ちょくちょく円香やかえちん、沙那先輩がお見舞いに来てくれていたし、完全なる孤独ではなかったのだけれど。
 でも、やっぱり、先輩に──大好きな人に会いたくて仕方がなかった。

「答え合わせをしましょうか」

 私がそう告げると、ユイ先輩は少しの間を置いて「そうだね」とつぶやいた。

「なにか見つかりました? 先輩にとっての私がどんなものか」

「……俺にとっての、鈴。そう聞かれると正直困る。わからないというよりは、上手く言語化できないんだ。でも、気づいたことはあったよ」

「気づいたこと?」

 私は体を起こして、隣のユイ先輩を見上げる。
 微かに寂しそうな色を灯しながらも、先輩は私を見つめ返して目線だけでうなずいた。

「俺の心には、もう鈴が棲んでるんだってこと」

「……私が棲んでる?」

「うん。そして鈴が、俺の世界を照らしてくれているんだってこと」

 私の頭を包むように撫でながら、ユイ先輩は穏やかに続ける。

「離れてる間、すごく寂しかった。時間の流れが、いつもの何倍も遅く感じて。毎日毎日、会いたくて仕方がなかった。でも、これだけ離れていても、俺のなかにはいつも鈴がいたよ。はっきりと感じてた。いつも俺のことを支えてくれてたんだ」

 ふわりと冬初めの風が吹く。ユイ先輩はさっと立ち上がり、いつになく素早い動きで着ていたブレザーを脱ぐと、そっと私の膝にかけてくれる。

「……俺ね、鈴。絵を描けるようになったよ」

「絵?」

「色づいた世界を、描けるようになった」

 私は思わず目を見開いた。驚きすぎると咄嗟に声も出ないらしい。
 モノクロ画家と名高い先輩が、色を描く。
 灰色の世界しか見えていないと言っていたユイ先輩が、色を──。

「……先輩の世界が、色づいたってことですか?」

 声が、心が、震えた。

「うん。すべてではないけどね。でも、鈴が色をつけてくれたんだよ。鈴と出逢って──鈴があまりにも綺麗に輝いてるから、俺の世界も一緒に染められたみたい」

「私、が……っ」

「そう。鈴が俺の世界を変えてくれたんだ」

 気づけば、頬に涙が伝っていた。嬉しいとか悲しいとか、そんなひとつの感情で表現できるような気持ちではなかった。ただただ、感極まってしまった。
 心が打ち震えて、それ以上なにも考えられなくなる。
 こんなに嬉しいこと他にあるだろうか。大好きな人の世界に、このうえなく影響を与えられるなんて。だってそれは、私がここに生きたなによりの証になる。

「君に泣かれると、俺はどうしたらいいかわからなくなるんだけど」

 少し困ったように眦を下げて笑いながら、先輩が細い指先で私の頬を拭った。
 ユイ先輩の手は、男の人とは思えないくらい綺麗だ。
 けれど、ずっと鉛筆を握っているせいで中指のペンだこがひどい。
 そんな画家の手が、私は好きだった。
 ユイ先輩の存在をそのまま表しているようで、大好きだった。

「……ねえ、鈴。鈴は俺に生きてって言ったでしょ」 

「っ、はい」

 それは覚えている。朧気ではあるが、強く強く願って、先輩へ伝えたことだった。

「正直あのとき、よくわからなかったんだ。俺はそもそも……なんていうのかな、生きてるって感覚がわからなくて。死にたいわけではないけど、なにもない俺がこうしてこの世界に命を得ている意味ってなんなんだろうって、ずっと考えてたから」

 なにもない。
 そう言うユイ先輩は、もしかしたらこの世界の誰よりも、自分のことを人形だと思っているのかもしれない。不意にそんなことを思う。
 それが悲しくて、私はユイ先輩の手に自らの手を重ねて強く握りしめる。
 触れ合った箇所から私の不安を汲み取ったのか、先輩は大丈夫だと目を細めた。
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