54 / 76
5章「生きてくださいね」
54
しおりを挟む俺は静かに腰を浮かして、弟くんの目尻に浮かぶ雫を指先で弾いた。
病院全体を支配する消毒の香りは、あの頃まだ幼かった俺が感じていたものと変わらない冷たさを孕んでいる。救われる命と救われない命を天秤にかけることなどできなくて、常に行われている命のやり取りは、きっと人が目を背けがちなものだ。
結局、生と死が対にあることを、人は最期まで受け入れることはない。
「鈴に似て優しい弟くんは、こんな俺にも気遣いを向けてくれるけど。……たまには、君のそのままをぶつけてみてもいいんじゃないかな」
「お、れの、そのまま……?」
「うん。今だからこそ伝えられること。今だからこそできること。なんでもそうだけど、やりたいこと、しなければならないことをちゃんと見極めないとだめだよ。そうじゃなきゃ、俺みたいに後悔することになるからね」
鈴と重なる黒髪をさらりと撫でて、俺は「帰るね」とその場を後にした。
しまったな、と思う。こんな話をするつもりではなかったのに。
だが、きっと今の弟くんにはひとりで考える時間が必要だ。
俺の言葉を受け入れてほしいとは微塵も思っていないけれど、せめて彼がこれから抱えることになる傷が、少しでも救いのあるものになればいい。
俺のように、後悔しか残らない傷だけはどうか避けてほしい。
「……まあ俺も、偉そうには言えないけど」
ひとり口のなかでつぶやいて、ふっと誰に向けるわけでもない自嘲を浮かべた。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
演じる家族
ことは
ライト文芸
永野未来(ながのみらい)、14歳。
大好きだったおばあちゃんが突然、いや、徐々に消えていった。
だが、彼女は甦った。
未来の双子の姉、春子として。
未来には、おばあちゃんがいない。
それが永野家の、ルールだ。
【表紙イラスト】ノーコピーライトガール様からお借りしました。
https://fromtheasia.com/illustration/nocopyrightgirl
『愛が揺れるお嬢さん妻』- かわいいひと -
設樂理沙
ライト文芸
♡~好きになった人はクールビューティーなお医者様~♡
やさしくなくて、そっけなくて。なのに時々やさしくて♡
――――― まただ、胸が締め付けられるような・・
そうか、この気持ちは恋しいってことなんだ ―――――
ヤブ医者で不愛想なアイッは年下のクールビューティー。
絶対仲良くなんてなれないって思っていたのに、
遠く遠く、限りなく遠い人だったのに、
わたしにだけ意地悪で・・なのに、
気がつけば、一番近くにいたYO。
幸せあふれる瞬間・・いつもそばで感じていたい
◇ ◇ ◇ ◇
💛画像はAI生成画像 自作
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる