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5章「生きてくださいね」
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しおりを挟む俺はどうも、幸枝さんを母に重ねてしまいがちで嫌になる。これが反抗期なら、まったくもってお門違いだ。彼女はなにも関係ないのに。
幸枝さんは優しい。こんな俺にも分け隔てなく接し、俺を俺として見てくれる数少ない人間のひとりだ。それでも、母ではない。
いっそのこと父や兄たちと同じようにぞんざいに扱ってくれた方が、幾分気が楽かもしれないとすら思う。
じゃあ戻るね、と小さく言い置いて炊事場を出ると、変わらず朗らかな声で「頑張ってくださいね」と背中に声がかけられた。
振り返ることもせず、俺は持ってきたペットボトルの側面をぎゅっと握りしめる。
どうして俺は、こうなんだろうか。この家にいると、やることなすことすべて、俺を取り巻くすべてがままならない。本当に、なにもかも、腑に落ちない。
もやもやとした気持ちを抱えたまま、廊下の角を曲がった。しかし直後、突然目の前に壁が現れて俺は顔面から衝突した。考えごとのせいで反応が遅れたらしい。
「うわ、びっくりした。結生か」
「っ……ハル、兄」
次男の千代春。長男とは年子で、俺とは九つ離れている兄だ。
存在からどこか優艶な雰囲気を纏うハル兄は、こんなにも暑いというのにしっかりと和装を着こなしていた。うちの人間は普段から和装なのだ。俺以外。
「なんだか久しぶりな気がするな。元気だったか、結生」
同じ家に住んでいて、そんな問いかけが出てくること自体おかしい。
うちの異常さは、こういうところだ。
お家元なだけあって、日頃から多くの人間が出入りする。家族以外の人間が、平気で敷地内を歩いている。だからこそ、この家は気が休まるところがない。
俺が普段からアトリエに籠りきりなのも、こういった特殊な家庭環境が背景にある。
「というか、結生がこっちに出てくるなんて珍しいな」
肩下まで伸ばした癖のない黒髪が、縁側を通り抜けた夏の風がさらりと攫って流れる。それを横目に一瞥しながら、俺はひとつ息を吐いた。
「……ちょっと喉が渇いたから」
「ああ、なるほどね。ちゃんと水分は摂らないとだめだよ。脱水症状になるから」
「……うるさいな。そっちこそ、稽古中じゃなかったの」
「うん、今さっき終わったところ」
唯一家族と顔を合わせる機会があった夕食も、ここ数年は離れまで幸枝さんが運んできてくれるものをひとりで食べている。
こちらの母屋へ自ら出てくるのは、それこそ入浴時くらいだ。
よって、こうして廊下でばったり家族と鉢合わせることもほぼない。
「結生もたまには稽古に顔を出してくれてもいいんだよ。息抜きにさ」
「息抜きなんてなるわけないでしょ。ストレス溜まるだけ」
「うーん。絵を描くのもいいけど、もう少し他のことに気を割いてくれないと心配なんだって。集中すると大抵のことは疎かになるんだから、結生は」
その集中力を華道に生かせればねえ、なんて本当に余計なことを言うハル兄に、さらに苛立ちが募っていく。どうしてこの兄は、俺に構ってくるのだろう。
昔からだ。俺に関心のない父や、そもそもあまり関わりのない長男とは違って、この次男だけはやたらと俺のことを気にしてくる。無関心でいられた方が楽なのに。
「あんたに関係ないでしょ」
いらいらしている俺に気づいたのか、ハル兄は心底意外そうに目を瞬かせる。
「おや、本当に珍しいね。結生がそんなに心を荒らしているのは」
「っ……うるさい」
「絵が上手くいかないの?」
「俺が絵のことしか考えてないとか思わないでよ」
「え? 違うの? だって他におまえを揺るがすものなんて早々……」
そこまで言ってから、ハル兄はハッとしたように俺を見た。わざとらしく着物の袖口で口元を覆い、一昔前の少女漫画のような反応をする。
「まさか……彼女でもできたり」
「…………」
「なーんて。他人に興味がない結生に限ってそんなわけな──」
「できたよ。だからなに。ハル兄になんの関係があるの」
え、とハル兄がわかりやすく硬直した。父によく似た切れ長の目を限界まで見開いて、まじまじと食い入るように俺を見つめてくる。
「嘘。結生が、彼女? あの結生が?」
「俺のことなんだと思ってんの」
なぜか俺は、周囲から『人形』だとか心のない人間だと捉えられることが多い。
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