モノクロに君が咲く

琴織ゆき

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4章「臆病だね、君は」

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 どこに行ってもあのクラゲのように自由気まま、ゆらりゆらりと泳いでいそうだ。
 溺れるなんて印象とは程遠い。けれど、なぜか気持ちはわかるような気がした。

「これだって確信して描いている絵でも、途中で見えていたものの輪郭がぼやけたりね。そうすると、ああでもないこうでもない、って底のない沼に嵌っていく。そのまま溺れそうになって、絵自体を破り捨てることもしょっちゅうあるし」

「先輩が荒々しいところとか想像つかないんですけど……。へえ、見てみたいなあ」

「なんで」

「どんな先輩でも興味があるんですよ、私」

 ふふ、といたずらに笑って見せれば、先輩は面食らったように押し黙った。
 そしてクラゲやチンアナゴを見ていたときと同じ瞳で、私をじっと見つめてくる。
 さすがに自分が対象となれば『絵になる』なんて呑気に思っていられない。好きな人に見つめられて平然といられるほど、私はまだ大人ではないのだ。

「せ、先輩? 私の顔、なんかついてます?」

「いや……」

 言葉を濁らせながら憂いをまぶせた瞼を伏せて、ユイ先輩は息を吐いた。

「本当にね、いつも溺れそうになる。君と一緒にいると、調子が狂ってさ」

「えっ」

 もしやこれは全力で呆れられているのだろうか、と血の気が引きかける。
 しかし後に続いた言葉は、私の予想していたものとはまったく違っていた。

「興味があるのは、俺の方だ。小鳥遊さんのことならなんでも知りたい。君が見ている世界を見たい。そんなふうに思えば思うほど、溺れていくんだよ」

 ユイ先輩は私と繋いだ手をきゅっと少し強く握った。
 その手はかすかに震えを伴っていて、私は戸惑いを隠せないまま視線を落とす。私よりもずっと大きな手なのに、真冬の海に浸けた後のようにひどく冷え切っていた。

「せんぱ……」

「──俺は、小鳥遊さんのことが好きだから」

 私とユイ先輩を取りこんだ、すべての時が止まったような気がした。
 呼吸すら忘れて、ユイ先輩に射すくめられる。
 さきほどの胸の痛みがふたたびぶり返し、心臓なのか、喉なのかはわからないけれど、灰を詰め込まれたような苦しさを覚えた。
 どこか切なげな色を灯しながら揺れる瞳は、決して人形のものではない。

「……この好きは、君が俺に言う好きと、同じ?」

 まるで迷子の子どものようだった。自分でそれがなんなのかもはっきりしなくて、今も答えを探している。不安のなかで執着地点を見つけようと足掻いている。

「俺の好きは、君と一緒にいたいっていう好きだよ」

 好き。もう何度、先輩に伝えたかわからない言葉なのに。
 そのはずなのに自分が言われる側になってみればどうだろう。
 身体が、心が、焼けるように熱い。溶けてしまいそうなくらい、熱い。
 けれどその一方で、私の頭のなかは氷水を浴びたみたいに冷えきっていく。

「……どうして、そんなに泣きそうなの」

 ユイ先輩の表情が痛みを堪えるように歪んで、私の頬に手が添えられる。

「俺の気持ちは、迷惑?」

 そうじゃない。そうじゃない、と言いたい。
 私も好きだって、同じ意味の好きだって、そう伝えたい。
 けれど、だめだ。
 なにも伝えていないのに、私にユイ先輩の気持ちを受け取る資格はない。

「……ユイ先輩」

 私は頬に触れる先輩の手に自分の手を重ねた。締まりきった喉から無理やり声を押し出せば、それはまるで自分のものではないように掠れていた。

「大事な話があるんです」



 広海水族館を後にした私とユイ先輩は、敷地内の穏やかな散歩コースを歩く。
 海沿いの並木道。耳朶をくすぐるのは、子どものはしゃいだ声。木々の葉が擦れるさざめき。それから、さざ波が堤防に打ちつけられる音。
 そのすべてが混ざり合って、ひどく優しい音色を紡ぎ奏でていた。
 もう手は繋いでいない。私が切り出すのを待っているのか、数歩うしろから距離を取ってついてくるユイ先輩は、さきほどからずっと黙り込んでしまっている。

「海が綺麗ですね、先輩」

「……うん、そうだね」

「真夏の海って、どうしてこうきらきらしてるんでしょうね。冬も澄んでいて綺麗だけど、やっぱり真夏は違った輝きがあるというか」

「…………」

 靴底がじゃりっと地面を掠めて、背後でユイ先輩が立ち止まる気配がした。
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