モノクロに君が咲く

琴織ゆき

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3章「いいよ、言わなくて」

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「小学生のときから熱く聞かされてきた鈴ちゃん憧れの彼と、まさか会えるなんて思ってなかったわ。予想以上にイケメンでびっくりしちゃった」

 さきほどの神妙さはどこへやら、隅に置けないわね、と私をくいくい小突く先生。
 五年もの付き合いにもなれば、主治医とはいえ友だちのような親しさだ。
 私が属しているのが小児科だというのもあるだろうけど、こういう話題は伊藤先生に限らず看護師さんたちも大好きだった。
 聞かされてきた、ではなく、聞き出されてきたの方が正しい。

「せ、先輩のことはいいですから……!」

「ふふっ初心ねえ、鈴ちゃん。じゃあ先生、さっきのことも含めてもう少しご両親とお話してくるから。なにかあったらナースコール押してね」

「は、はあい」

 伊藤先生が出ていった後、入れ違いにユイ先輩が戻ってくる。

「あ、先輩……」

「話、終わったみたいだから。……でもまだ、入ってこない方がよかったね」

 どうやら気を遣って外にいてくれたらしい。
 ユイ先輩は相変わらず泣き続けている愁を見て、しゅんと眉尻を垂らした。どう接するべきか悩んでいるようだけれど、そんな様子を見せる先輩もまた珍しい。

「ごめ……ごめん、姉ちゃん……っ」

「え?」

 突然謝り始めた弟に狼狽えて、私はおろおろと愁へ手を伸ばす。
 それに応えるようにしゃがみこんだ愁は、そのままベッドに顔を埋める。その肩は、いっそ気の毒なくらいに震えていた。小さい頃と変わらない、とまたも思う。
 私と同じ色の髪を梳くと、愁はなおのこと強い嗚咽を漏らした。

「お、おれが、おれが姉ちゃんのこと、興奮させたりしたからっ」

「ち、違うよ、愁。なに言ってるの。愁のせいなわけないでしょ」

 なんとなくだけれど、覚えている。
 私が意識を失う前、頭に血が上った愁が、ユイ先輩へ堪えきれない鬱憤をぶつけていたこと。
 たしかに愁は、前々からユイ先輩のことを嫌っていた節があった。
 しかしそれはあくまで私との会話上で毒づくくらいだったし、そもそも愁と先輩が知り合いなわけでもなかったから、大して気にはしていなくて。
 けれど、愁は──取られた、と言っていた。
 ユイ先輩が、私を取ったのだと。
 その言葉の真意は定かではない。ただ、なんとなく、私の意識がいつも先輩へ向かっていたことに対する不満から来るものなのではないかと、そう思った。

「……ねえ、愁。愁は小さい頃から優しくていい子だから、私のこといつも心配してくれるけど。もっと、わがまま言っていいんだからね」

「っ、え……?」

「たしかに、私にとってユイ先輩は大切な人だよ。生きる指針で、道標で、理由だから。でも、だからって、他のことをどうでもいいなんて思ってないの。とくに家族に関しては、ないがしろにするつもりはないよ」

 なんと言葉を紡いだら、この気持ちが嘘偽りなく伝わるのだろう。
 言いようのないやるせなさに苛まれながら、私は小さく息を吐いた。

「……きっと私にできることなんて、限られてるんだろうけどね」

 私がいなくなった後も、愁やお父さん、お母さんはこの世界で生きていく。
 そんな家族に、今の私が残せるものなんて、そう多くはない。
 それでも、ばらばらにならないように──ちゃんと家族のまま、みんながこれからも生きていけるように、私はその根っこの部分をしっかり作っておきたいと思う。
 どうしたらいいかなんてわからなくても、そう願ってしまう。

「愁は、私になにをしてほしい?」

「っ……おれ、は」

「なんでも聞くし、なんでもするよ。我慢しないでちゃんと言っていいんだよ、愁」

 ちがう、ちがう、と愁は幼い子どもがイヤイヤするように首を振る。

「なにかしてほしいわけじゃない。おれは、姉ちゃんがいなくなるのが嫌なんだ」

「……うん」

「おれの姉ちゃんは、姉ちゃんだけなのにっ……勝手に、いなくなるとか、ふざけんなよぉ……っ」

 ベッドに顔を押しつけながら、押し殺すように啜り泣く愁の頭を撫でる。

「ごめんね」

 痛覚はなくなっても心の痛みだけはなくならないのだな、と。
 謝ることしかできなくて、私は軋む胸を押さえながら、ユイ先輩を見た。
 うしろで戸惑ったように立ち尽くし、瞳を揺らす先輩。いくら先輩だって、こんな状況に遭遇したことはないだろう。本来はここにいるはずのない人なのだから。
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