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3章「いいよ、言わなくて」
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しおりを挟む自分の涙を拭ってから、安心させるように愁に微笑みかける。その瞬間、愁は濡れそぼった瞳から、ふたたび大粒の涙を溢れさせた。
そんな愁を撫でたくても、肝心な体が起き上がらない。
まるで重力が倍になったみたいだ。
泣いている弟の涙も掬ってやれないなんて──なんて、情けないんだろう。
やりきれない思いを奥歯でぐっと噛みしめたそのとき、ノックと同時に病室の扉が開いた。
「鈴ちゃん」
入ってきたのは、発病以来ずっとお世話になっている、主治医の伊藤先生だった。
まだ三十代という若さで枯桜病の研究の第一線に携わっている研究者であり、聞いた話、この界隈ではとても名の知れている人らしい。
伊藤先生は泣いている愁に驚いたような顔をしながらも、素早く目で心電図を確認しながら「びっくりしたねえ」と存外のんびりとした声をかけてくる。
「せん、せい……」
「うん。どこか気になる不調とかある?」
私は首を横に振る。
体が重いことくらい、先生もわかっているだろうと思ったから。
「そう、よかった」
先生は安堵したようにうなずき、神妙な面持ちでベッドの傍らにしゃがみこんだ。
「……あのね、ちょっと鈴ちゃんの心臓、動きが悪くなってるみたいなの」
隣で立ったまま泣き続ける愁の腰に手を添えているあたり、とても優しい。
伊藤先生は、なによりも患者のことを第一に考えて、なるべくこちらの要望に沿う治療をしてくれる人だ。こうしてベッドから起き上がれない私に視線を合わせるのも、医者としての威圧を与えないためだと前に言っていた。
私が学校に通えているのも、間違いなく先生のおかげだった。
そんな先生だから、冗談を言ったりする人ではないと私もわかっている。
「このあいだ検査したときは、目立つ異常は見られなかったんだけどね。ただ少し、進行が早まってるのかな。心臓の血液の循環が悪くて、いわゆる不整脈を起こしちゃったのよ」
「……不整脈……」
「もう落ち着いてるけど、今日はこのまま入院してもらうね。今後のことはまたゆっくり考えていこうか。ちょうど来月検査期間だったし、ほんの少し予定を早めて──」
「ま、待って、先生」
話の雲行きが怪しくなってきて、私は申し訳ないと思いながらも口を挟む。
「予定は早めないでください。夏休みに入ってからで大丈夫です。来週には定期テストがあるし、それに」
まだ、ユイ先輩にもきちんと話せていないのだ。
なんとなく、わかる。
きっと次に入院したら、私はもう退院できなくなるだろう。この五年間、入退院を繰り返してきた感覚的にも、先生の態度を見ても、ほぼ確実に。
「……でもねえ、鈴ちゃん。あなたの体は……」
「お願い、先生。どちらにしても治らないなら、私は最期まで悔いなく生きたいの」
主治医としての気持ちも、理解はできる。
いつどうなるかわからない患者を、なるべく外に出したくない気持ちは。
たとえ治らなくとも、病院にいれば延命治療ができる。なにかあったときはすぐに処置できるし、今日のように突然の体の変化にも対応が可能だ。
少しでも長く生きたいと願うのなら、今すぐにでも入院して、命を引き延ばすための治療に専念するのが最適解なのだろう。
けれど、それでも、嫌だった。
ここに──病院にいると、ひどく孤独を感じるのだ。
生きているのに生きていない。
毎日が、日々が、まるで年季を帯びた紙のように黄色く色褪せていく。
そういう場所だと、私はもう嫌というほど知っている。
「先生。もう少しだけでいいんです。八月からにしてください」
「……わかったわ。じゃあ予定通り八月からにする。でも、もしそれまでにまた今回みたいなことがあったら、そのときは折れないからね」
「っ、はい。ありがとう、先生!」
仕方なさそうに、けれどしっかりと了承してくれた先生は、かたわらでしゃくりあげている愁の頭を撫でた。この構図も、初めて見る光景ではない。
「愁くんもびっくりしたよね。でも、本当にひとりのときじゃなくてよかったよ。あのすごく綺麗な彼も……」
ふと思い出したように、ちらりと私を見て、先生がいたずらに口角を上げる。
「彼、例の子でしょう。鈴ちゃんの好きな子」
「っ……う、バレた」
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