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3章「いいよ、言わなくて」
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しおりを挟むおろおろとユイ先輩を見上げて、さらに困惑する。
私を見下ろす先輩は、見たこともないくらい真剣な表情をしていた。
「具合が悪いなら、早く家に着いた方がいいし。今呼んでくるから、待ってて」
「は、え、でも」
「待ってて。弟くんは小鳥遊さんについててあげてね」
ユイ先輩は有無も言わさず踵を返した。とんでもなく機敏な動きだ。
普段ののんびりとした先輩は見る影もなく、私も愁も呆気に取られるしかない。
やがて電話を終えて戻ってきたユイ先輩は、かたわらに置いてあった私の鞄を持つと「荷物これだけ?」と訊いてくる。
いつにも増して無表情なのに、不思議と怖いとは感じない。
「あ、はい。でも、教室に画材が……」
「その調子じゃ絵も描けない、というか、描かないで休まないとだめでしょ。すぐタクシー来るはずだから、とりあえず校門まで行くよ」
心なしか早い口調で言い切り、ちらりと棒立ちしている愁を見る。
「……小鳥遊さん、弟くんが背負っていく? 俺でもいいけど」
「っ、おれが背負う!」
「わかった。じゃあ、俺は荷物持つから。弟くんのも貸して」
ユイ先輩は素早く二人分の荷物を取り上げる。
指示されるままわたわたと私を背負った愁は、しかしすぐさま我に返ったように動きを止め、憎々し気に先輩を見上げた。
「あんた、なんで……」
「ん?」
「なんでそんなに、姉ちゃんに構うんだよ」
ユイ先輩は突然の敵意にも動じず、わずかに眉をひそめただけだった。
「……理由が必要?」
「っ、なんも知らないくせに……!」
「こら、愁! いい加減にしなさい!」
私は思わず声を荒らげる。
耳元で叫んだせいか、愁はビクッと肩を揺らして黙り込んだ。やりきれないように唇を引き結ぶ様子は胸が痛むけれど、今のはあきらかに愁が悪い。
「謝って、愁。そういうのはよくないよ」
「……嫌だ。絶対、謝んない」
「愁……!」
ユイ先輩は険悪な雰囲気に包まれる私と愁を見比べて、すっと目を細めた。
「……君は、俺のことが嫌い、なのかな」
「っ、嫌いだよ! 嫌いに決まってるだろ! おまえが姉ちゃんを取ったんだから!」
「愁っ!」
ふたたび声を荒らげたそのとき。
ドクンッ、と心臓がひどく歪で嫌な音を立てて、強く胸を突いた。
形容しがたい衝撃が走り、全身が大きく揺らいだ。
中心から外側へ、激しく波渡るように感覚が鈍っていく。同時に襲ってきたのは、各所の痺れ。まずい、と思う間もなく、愁の背中から滑り落ちそうになる。
「あ、ぐ……っ」
そんな私をまたもや受け止めてくれたのは、ユイ先輩だった。
「姉ちゃん!?」
「っ、小鳥遊さん?」
息が堰き止められたように詰まり、私は胸を押さえながら喘ぐしかできない。
視界が霞む。意識が混濁して、自分がどこを向いているのかすらわからなくなる。
なにこれ。知らない。こんなの、なったことない。
「ね、姉ちゃ……っ! あ、あんた! 救急車呼んで、早く!」
「救急、車……わかった。小鳥遊さん頑張って、今呼ぶから」
私をふたたびベッドに寝かせた愁に、手を握られたのがわかった。
薄れゆく意識のなか、大粒の涙を溜めて私の名前を呼ぶ、愁の姿が見えた。
その先には、ユイ先輩がいる。
銀が、脳裏に焼きついた。
それはまるで、水のなかから遥か遠くの月を見上げているみたいで。
「──……小鳥遊さん! しっかり……鈴っ……」
幻聴だろうか。ユイ先輩に、名前を呼ばれたような気がした。
「姉ちゃん、しっかりして。死なないでよ、ねえ、姉ちゃん……!」
声が次第に遠のいていく。
ごめんね、とつぶやけたのかどうかも、わからない。
──死にたいなんて、思っていない。
一度も思ったことはない。
私は、死にたくない。
本当はもっと、もっと、もっと、生きていたい。
もうずっと、生きたいと願って、死を受け入れながら、生きてきた。
けれど、こうして周りの人の心に傷をつけていくのなら、せめてひと思いに死んでしまった方がいいのではないかと、そんな馬鹿げたことを考えたりもする。
枝を離れた花弁の散り行く先など──。
枯れた桜の末路など、きっと、はなから決まっているというのに。
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