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2章「わからなかったんだ」
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しおりを挟むほら、と小鳥遊さんは証拠を提示するように手の甲を見せてくる。
『五時十五分、愁、迎え』
──愁とは名前だろうか。いったい、誰の。
一瞬だけ胸の内をじわりと渦巻いた黒い靄。そんな醜い感情を抱くことに自分で驚き面食らう。詳しく聞きたいような、聞きたくないような複雑な心境で「へえ」と小さく答えた俺に、小鳥遊さんは陰りのない笑顔で振り返った。
「じゃあ先輩! また明日!」
「……うん。気をつけて」
「先輩も、集中しすぎて真夜中までいるとかやめてくださいね! 今日は私、いつもみたいに連れ戻してあげられませんから」
思わず、その言葉に意表を衝かれた。
連れ戻す、とは沈んだ状態から俺を持ち上げることだ。
そういえば小鳥遊さんが入部する前は、絵を描くことに集中しすぎて気づいたら夜中だったことがあった。一度ではなく、数回。学校の屋上ならまだしも、ふらりと学校を出て目の付いたところで絵を描いていると、わりとやらかしがちなのだ。
そのたびに俺は行方を探されて、危うく警察沙汰になりかけたこともある。まあ、大抵は過保護な兄が必要以上に騒ぐからいけないのだが。
ああでも、そうか。思い返せば、ここ一年はそういうことがない。
本来の終了時間に合わせて切り上げて、あとは家のアトリエで描く、という規則正しいルーティンが確立されている。
「……そうか。いつも小鳥遊さんがいたから、俺は時間を忘れずに……」
彼女とは家の方向が違うため、一緒には帰れない。けれど、毎日部活を終えた後は校門まで一緒に歩く。その道すがら、何気ない話をする。
そこまでが日常だ。今日はそんな日常がないから、こんなに寂しいのか。
なるほど。そんな小さな時間の積み重ねで、俺は小鳥遊さんに惹かれたのか。
「俺ね、小鳥遊さん。君がいなかった四月の間、実は一度も終了時刻を過ぎるまで絵を描いてたことないんだよ。むしろ早めに切り上げてたくらいで。……だから心配ないよ、って言えたらカッコいいんだろうけど」
あの一ヶ月は驚くほど集中できなくて、絵がまったく描けなかった。あんなことは春永結生の人生では初めてのことで、正直途方に暮れていたくらいである。
だというのに。
「たぶん、ね。俺、小鳥遊さんがいる日常に、慣れすぎちゃったんだと思う。ほら、君が帰ってきたとたん、嘘みたいに描けるようになったでしょ」
さすがにそれが示す意味をわからないほど、俺も鈍感ではない。
「だから、ごめん。今の俺、きっと君がいないとまた沈んじゃうんだ」
小鳥遊さんは呆気に取られたように硬直して直立している。その困惑に染まった表情すら可愛く見えて、俺は思わずふっと口許を綻ばせた。
「大丈夫?」
「っ……、いや、ちょっと、ダイジョバナイかも、です」
はっと我に返ったのか、おろおろと視線を彷徨わせた小鳥遊さん。そのまま一歩、二歩と小さく下がって俯くと、上目遣いで恨めしそうな視線を送ってくる。
「お、遅くなったら先輩のお家の方も心配しますよ……」
「うん。だから、連絡して」
俺はスケッチブックの端っこを切り割いて、素早く自分の連絡先を書きこんだ。
携帯番号とメールアドレスとチャットのID。SNSでもやっていればもっと連絡手段が増えたのかもしれないが、ひとまずはこれで充分だろう。
「時間になったら連絡して教えてよ、いつもみたいに。俺が沈んでても、たぶん小鳥遊さんからの連絡なら気づくから」
切れ端を渡すと、小鳥遊さんは面白いくらいにぽかんとした。
前に連絡先を知らないと言われたとき、なんでそんなことを見落としていたのかと愕然とした。いくら俺が電子機器に興味がないとはいえ、あまりに盲点だった。
なかなかタイミングが掴めずにいたものの、きっと不自然ではなかったはず。
「え、あの、いいんですか? こんな貴重なの……」
「貴重って。部長の連絡先知らない方がおかしいかなって思っただけ。ものすごく今さらだけどね」
普段、俺はあまりスマホを見ることはない。連絡してくるのは隼くらいだし、してきても大して重要なことだったためしがないから、見る必要性を感じなかった。
でも、これで放課後の活動時間以外の小鳥遊さんとの繋がりができる。
その小さな糸口でさえ、俺にとっては特別だ。
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