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2章「わからなかったんだ」
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しおりを挟む一年前の、春。まだ新学期が始まる前、一年生の入学式の日だった。
いつものように屋上庭園でひとり絵を描いていた俺の前に、突如としてひとりの少女が現れたのは。いや、この場合、舞い降りた──と言った方が適切だろうか。
「こんにちは、春永結生先輩」
風に凪ぐ新月の夜を映したような長い黒髪。陽を知らない真っ白な肌。細い足と華奢な肩。こちらを向く大きな黒曜石の瞳は、子どもが宝物を見つけたときのように嬉しそうで──同時に、この世のなによりも切ない色を灯しているように見えた。
後ろ手を組んで柔らかく微笑む姿に、馬鹿らしくも天使を連想してしまったのはなぜなのか。それほど彼女の存在は、ひどく淡く、儚いものに感じたのかもしれない。
「…………。誰」
まるで全身を雷で貫かれたような衝撃だった。あまりに茫然として、いつにも増して不愛想で素っ気ない態度になってしまったような気がする。
木を離れた桜の花弁が嵐のように吹き荒ぶなか、俺はすぐさま後悔した。
けれど彼女は、そんな俺の態度にも微動だにせず、むしろおかしそうに笑った。
「ふふ、ですよね。はじめまして、先輩。小鳥遊鈴です」
たかなしすず。
その名前がなんとも反響して、頭の隅々まで広がっていった。人を見て、直感的に描いてみたいと思ったのは、たぶん十八年の人生ではじめてのことだった。
「今日はこれを渡しにきました」
「……? 入部届?」
「はい。先輩が美術部の部長って聞いたので、どうしても直接渡したくて」
拍子抜けした、とでも言えばいいだろうか。
渡された紙には、たしかに『一年・小鳥遊鈴』と丁寧に記されていた。
そういえば三年生が卒業してから部長を任されていたな、と今さらながら思い出す。
「……なるほど。わかった、受け取っておく。顧問に渡せばいいんだよね」
「はい、お願いします」
「じゃあ……」
「ところで、活動場所はここですか?」
被せるように追従された質問。一瞬、思考が追いつかなかった。
なにせ美術部の部員がはたして今何名いるのかすら、俺は把握していない。
だが、少なくとも俺以外にまともに活動している生徒を、ここ二年見たことはなかった。うちは基本的に放任主義だし、個人創作に重きを置いているから。
まあ、がちがちな運動部でもあるまいし、高校の部活なんてそんなものだろう。
とりわけ美術部のような影が薄い文化部は、入部こそすれ幽霊部員上等だ。強制でもされない限り、実際に部活に顔を出す生徒なんてほとんどいない。
当の俺だって、部活動を理由に絵を描いているわけではないし。
しかし一応、表面上の決まりごとはあったはずだ。さて、なんだったか。
ようやく思考が働くようになってきた俺は、遥か彼方に葬り去られた記憶の欠片からそれらしいものを引っ張り出しつつ、軽く捏造を交えて伝えることにした。
「……活動内容はとくに決まってないよ。描きたいものはみんな違うしね。場所も固定じゃない。時間も自由。好きなときに描いて、好きなときに切り上げればいい」
実際口に出してみればただの願望で、まったくの捏造であるような気もした。
だが、実際そんな感じで成り立ってきたのだから問題はないはずだ。仮に間違っていても今の部長は俺だし、それぐらい許されるはずだと都合よく思うことにする。
「ふむ、なるほど。先輩は? いつもどこで活動してます?」
「……俺は、基本的にここだけど」
「おお! じゃあ私も、ここに来ていいですか?」
にこにこと屈託なく笑いながら、こてんと小首を傾げる小鳥遊さん。なんとも無邪気な反応に面食らって、しかし同時に、どこか落ち着かない気分になる。
「べ、つに、好きにすればいいんじゃない。俺専用の場所ってわけじゃないし」
「やった。ふふ、楽しみ」
「……画材とかは自分で美術室から持ってくる必要があるけど、いいの? 俺みたいに鉛筆一本で済むならまだしも、君は絵具いるでしょ。大変じゃないの」
「大丈夫ですよ。それくらい、どうってことないです」
「──……そう」
まさか本当に来るつもりなのかと驚いて、けれどそのときはどうせそのうち来なくなるだろうと軽く捉えていた。これまでも何度かこういうことはあったから。
なぜか、俺に関わった者は、遠からず離れていくのだ。
怖い、とか。なにを考えているかわからない、とか。もう聞き飽きた言葉だ。
「集中切らしちゃってごめんなさい、ユイ先輩。ちょっと名残惜しいけど、私、戻りますね。入学式抜け出してきたので、そろそろ戻らないとバレて怒られそう」
「うん。……ん? は?」
入学式を、抜け出してきた?
頭のなかでゆっくりと反芻して、ふたたび「は?」と声が漏れる。
タタッと跳ねるように踵を返した小鳥遊さんを、理解が追いつかないまま呆気に取られて見送る。しかし彼女は、唐突に立ち止まった。
そしてなにやら慌てた様子でこちらへ戻ってくる。
「いちばん大事なことを言い忘れてました」
なに、と問い返す間もなく、小鳥遊さんは俺の頬に顔を近づける。
急激に縮まった距離にぎょっとする間もない。
耳朶を桜の花弁が掠めるように、そっと囁かれた言葉。
「──……です」
すぐさま離れた彼女の小ぶりな唇が、せんぱい、と動くのを見て。
「大好きです! ユイ先輩」
ふたたび紡がれたその言葉に、幻聴ではなかったことを思い知らされた。
「それじゃあ、また明日」
満面の笑みを浮かべて、とても満足そうに去っていった見知らぬ少女。
突然の嵐に見舞われ呆気に取られるしかなかった俺は、まさかそのあと本当に彼女が屋上庭園に通い続けるなんて思いもしていなかった。
そして、いつしかそんな彼女を待ちわびるようになる自分も。
たった一ヶ月顔を見ないだけで、絵が描けなくなるほど惹かれてしまうことも。
──そのときの俺は、なにもかも想像していなかった。
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