ひねもすのたりのたり

うさぎ猫

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妙乙女の降臨

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    壱

 ぼくに奇妙な力が備わったのは半年前ほど前のことだ。
 その日、実家へ荷物を持ち帰ったついでに、幼なじみの塚本美津江みつえと店先で軽く会話を楽しんでいた。
 みっちゃんは、この春から女学校にあがるそうだ。見慣れたいつもの帯締め和服とは違う、モダンな絣模様の着物に海老茶色の袴。それに革のブーツを履いていた。小さな躰なのに着るものによって雰囲気が変わるのは、みっちゃんもやはり女なのだな、と関心した。
「馬子にも衣装か」
「あ、ひどーい」
 丸い顔が頬を膨らませて益々丸くなる。笑いそうになったところに突如、お婆の声が被さった。
「恋之助さん、こちらへおいで」
 みっちゃんに「悪いね」と呟いてから仏間へ向かった。
 四畳半の小さな部屋に大きな仏壇をむりやり持ち込んでいるため、ぼくとお婆のふたりが座れば食事すら取れないほどに狭い。
 こんなに狭い空間を有り難がる年寄りの気持ちは理解出来ないが、それでもお婆に苦情を言うことはない。先祖代々の当主が写真のなかから睨みを利かせ、見下ろすこの場所で食事を取る気などないのだから。
「なんの用だよ」
 言葉に少々険が出た。
 もっともお婆はそんなこと気にも止めていない様子だ。
「恋之助さんは明日で高等小学校を卒業でしょう。戸鞠文具堂の跡継ぎとして渡しておきたいものがあるのよ」
 ぼくは家業の文具屋を継ぐことにした。てっきり中学で受験勉強に専念し、将来は親父のように学者になるものだと思いこんでいたお婆は三日続けて赤飯を炊いた。勉強しないと宣言した孫を喜ぶ祖母というのも奇妙な話だが、それだけ文具屋の行く末を心配していたのだろう。十四で一国一城の主になるのは気後れするが、級長の長谷川だってカフェを経営する親父さんに弟子入りするそうだ。帝大を目指すだけが人生じゃないさ。
「学費のことなら心配いらないんだよ、いいんだね」
 お婆が最後に念を押してきた。
 お金のことで諦めるわけじゃないよ、と答えたが半分は嘘だ。
 親父が死んで、お袋もサナトリウムに入院したっきり。お金は出て行くのに、入ってくるのは鉛筆や帳面を売って得た分だけ。そんな現状を無視して進学出来るはずがない。
「ぼくは文学だけは好きなんだ。だから一生懸命働いて、儲けたお金で本を買おうと思っている」
「そうかい。恋之助さんなら、玄之助のような立派な本が書けるよ」
「いや、作家になんてなるつもりはないさ。ぼくは戸鞠文具堂に図書館を併設したいんだ。世界中の本を誰でも自由に読める場を提供したいと思ってる」
 お婆はぼくの夢物語を話半分で打ち切ると、曲がった腰で立ち上がった。
 自分の背丈より高い戸棚へ器用に手を伸ばし、樫で出来た木箱を取り出す。
「これはね、お爺さんがオランダの貿易商を通じて購入したものなんだよ。お爺さんが死んだあとは、玄之助の持ち物になっていた」
「親父の?」
 うやうやしく開けられた小箱には、和紙にくるまれた真っ黒な棒状の物体が眠っていた。
「これ、なんだい?」
「万年筆だよ」
「万年筆……って、そんな高価なものどうして」
「お爺さんは舶来モノが好きでね。あの頃はうちの店も随分と賑わっていたし、もともと店で売るために何本か仕入れたんだ。これは、そのうちの一本」
 万年筆に触れてみた。
 ずんぐりとした太軸で、どうやら何かしらの木を削って作られたようだ。塗料はうるしのような光沢を放っていたが、はて、西洋にも漆があるのだろうか。何処の国で作られたものか、刻印すらない全身真っ黒な物体では検討がつかない。
「あれ、開かない」
 キャップ部分が漏れたインクで固まって、このままでは使い物にならなかった。
「そうなのかい。それは困ったね。万年筆の修理なんてお爺さんしかやったことがないからねえ」
 落ち込むお婆を元気づけようと「大丈夫、ぼくが直す」と口が滑ってしまった。
 もちろん万年筆の本物なんて初めてみる。親父が持っていたことすら知らなかったのだ。
「そうかい。良かったよ、さすが恋之助さんだねえ」

 ぼくは逃げるように小学校の寮へと戻ったが、そこからが大変だった。
 隣の棟に住んでいる長谷川を市松屋の団子で買収すると、一緒に化学の安藤先生のもとへ連れ立った。
 ぼくだけでは門前払いに会う可能性が高かったが、さすが級長と一緒なら問題無し。万年筆を見せると、これなら何とかいう西洋の薬剤で落ちるという。ただし劇薬なので、先生自らがインクを洗い落としてくれた。
「ほれ、綺麗になったぞ」
 キャップを外すと黄金に輝くペン先が姿を現した。本物の金を加工して作られた、とても高価なものだという。興奮でドキドキした。
「俺もいろんな万年筆を見てきたが、妖艶なほどに目を引くなかなかの逸品だ」
 教室ではいつも仏頂面の安藤先生がにこやかに笑った。
 確かに逸品かもしれない。ここまでひとの心を揺さぶるものが、たんなるペンであるはずがない。
 市松屋の団子を先生にも渡して帰ることにした。すると長谷川が「団子はあるだけ渡せ」と文句を言ってきた。仕方がないので袖に隠していた全部をくれてやった。
 寮に戻ってから先生に教わったように桶に水を張って、そのなかに万年筆を浸した。薬品を完全に落とすためだ。
「ああ、腹が減った」
 その晩は、晩飯代わりにと多めに購入した団子も食えず、空腹のまま床に入った。しばらくのあいだ腹の虫が未練たらしく鳴いていたが、気づけば眠っていた。

 真っ赤な空のした、懐かしい人が立っていた。
 親父だ。
 声をかけてみたが聞こえないようだ。
 ここが夢の中だとすぐに理解はしたが、これから何が起こるのか興味があったので親父の側にしゃがんでときを待った。
 見たこともない空の色だった。昼間なのか深夜なのか、月が出ているのでおそらく夜なのだろうが、その月は濁酒どぶろくを飲み過ぎた親戚の喜信おじさんように真っ赤だった。だから朝焼けかもしれなかった。天ノ川すら洪水で流れ込んだ赤土に淀んだ色をしていた。その水が氾濫して下界に押し寄せているような風景だ。
 親父は相変わらず病弱なほど細かった。
 学者にしては珍しく口髭がなかったから、なおのこと貧弱に見えた。いつも通りの舶来スーツに身を包み、ただ黙って、朦朧とした表情で立ち尽くしていた。
「父さん」
 もう一度声をかけた。やはり聞こえないようだ。
 どことなく寂しい気持ちになりかけた頃、ぼくは想像だにし得なかった事態を目撃した。
「なんだ、これはッ!」
 影のように真っ黒なだけの小僧がどこからともなく、わらわらと現れたのだ。百はいるだろうか。気持ち悪く蠢くそいつらは、突っ立ったままの親父を取り囲んでいく。
「ケケケ」
 奇怪な声をあげている。あきらかに人間じゃない。ならば何かと考えてみるが、適当な答えは思い浮かばない。
「モノノケ」
 親父が突然呟いた。
「父さん?」
 ぼくに教えてくれたというわけではない。奇怪な影のコビトへ向かって語りかけたのだ。
 親父はスーツのポケットから何やら取り出すと、それを右手に握って高く掲げた。
 左手ではなく右手であることに何らかの意味があるのか、ないのかは知らない。
 とにかく右手に何やら黒光りするものを握ると腕を垂直に伸ばした。途端、影のコビトたちは後ずさりを始める。
「さあ、諸君。わたしの新作をお目にかけよぉ」
 親父は、ぼくの知らない素っ頓狂な声をあげた。目が生き生きと輝いている。親父じゃないみたいだ。
「みょん、きみの力を借りるよ」
 親父が握っていたものは万年筆だった。
 間違いないのかと問われれば、手を開いて見たわけじゃないから自信はない。だぶん、そうだろうとしか言えないが、けれど万年筆としか思えなかった。
 何故ならば、ぼくがお婆から譲り受けた真っ黒な太軸のそれだったから。
「玄之助、待ちくたびれたよぉ」
 万年筆だと自信を持って言ったが、前言撤回。手に握られているのは女性だった。それも金髪を風になびかせている外人さんだ。
 何を言っているのか分からないとおもうが、ぼくもわからない。言えることはただひとつ、ここはぼくの夢のなかだ。
 金髪の美女が親父のうえでくるりと一回転した。
 艶のある黒い単衣を着てはいたが、首筋を隠すはずの襟は背中が露出するほどはだけて肩も顕わになり、さらしを巻いてない胸は西瓜すいかほどある膨らみがこぼれ落ちそうだった。
 短い裾は風に舞って踊り、うっすら桃色が透ける白い生脚が、まるで別の生き物のように宙をうごめいた。
 背中が、びくんッ、びくんッと海老のように反り返り、下腹部を天に突き上げるような動作を繰り返した。何度も、何度も、開いた両脚が跳ねて、そのたびに光を宿した輪郭は恍惚こうこつの表情を浮かべる。
 ぼくは思わず下半身を押さえてうずくまった。
「父さん、何やってんの」
 思春期の少年には毒であろう半裸女性の何事かが始まるのだろうと、後ろめたさと期待が入り交じった興奮状態のまま放置されたぼくだが、すぐに気持ちは萎えた。
 切れ長のまぶたを軽く閉じた美女は親父の周囲に曼荼羅まんだらを描いたあとで「ケケケ」と、先ほどの影の小僧と同じ笑い方をしたのだ。
「人間じゃない」
 本能的に悟った。
 バラバラと音をたてて雨が降り始めたが、それが雨ではなく紙の束だと気づくのに時間はかからなかった。それも紙面にマス目が印刷されている原稿用紙だ。親父は学者の傍ら西洋文学の翻訳本も書いていたが、そのときに使っていた紙だ。
「クウはクウなり……」
 突然声を張り上げる親父。いや、降り注ぐ原稿用紙に何やら書き始めたのだ。
「般若心経?」
 英国文学が専門のはずが、しん国の高僧のように流暢な漢字を書き連ねていく。

摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色無受想行識

 意味はまったく分からなかった。何かしら有り難い教えなのだろうと、想像するほかなかった。
色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしきッ!」
 額の汗を拭うこともせず、さらに声量は大きくなる。
「色、これすなわちくうなり。くう、すなわち、これ色なり。この世に生きるものすべては生かされているだけなり。役割を全うした者は天へ召されるのだ」
「グキャラ、グギャギャ」
 影の小僧が何やら騒ぎ始めたが、言葉の意味はつかめない。
「魚、水を行くのに意識はなし。鳥、そらを飛ぶのに意識はなし。なれど汝、いまの正体に苦しみないか。いまの姿に悲しみはないか」
 影の小僧らはあきらかに動揺している。親父の書き連ねた言葉に心が揺さぶられているのか、皆で手をつなぎ、抱き合い、一カ所で震え始めた。

 ──ッ!

 原稿用紙の束はそんな小僧の上に降り注ぐ。何枚、何十枚、いや何百枚もの原稿用紙が小僧の姿を視界から隠していく。
「戸鞠玄之助」
 一枚の端切れに自分の名前を記載したとたん、原稿用紙の塊は目を覆わんばかりに眩しい光に包まれ、やがてそれは炎へと変わった。巨大な薪が爆炎を伴って天へと昇華していく。
「きれいだ」
 素直な感想が口から漏れた。
 静寂が戻った夢の世界で親父は再び押し黙り、物静かに歩き始めた。慌てて呼び止めるがやはり聞こえないのか、振り向くことすらしない。
 けれど親父の隣で一緒に歩いていた金髪美女はくるりと向きを変えた。
「こいのすけ」
 ぼくの名を呼ぶ。ぼくは震えた。
「こいのすけ」
 また呼ぶ。
「な、なんだ化け物め。親父から離れろ!」
 激憤から我を忘れて飛びかかり、金髪美女を押し倒そうと体当たりした。
「ケケケ、強引なんだねぇ」
「な、なんだとお」
「いいよ、これからあんたに女をおしえてあげるよ」
 卑猥な言葉を耳に吹き込む。
 なんというゲスな妖怪だ、こんなモノが親父に取り付いていたのか。
「ほらあ、こいのすけぇ、いいんだよお、さわってごらん。あたしはさわり心地に、ちょっとばかり自信があるんだよ」

「う、うあああぁ!」

 目が覚めた。と、同時に布団から飛び起きた。
 部屋は真っ暗で窓から月明かりが漏れていた。いったい何刻だろうか。時計を見に行こうとして気づいた。
 布団で女が寝息をたてている。
 それは金髪で色白の……夢の中で触れた、万年筆の女だった。
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