わんこな部下の底なし沼

千環

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 突然のことで反応することができず、ドアに肩と額をぶつけた。その痛みが少し引いてから、ピッタリと背後から俺にくっ付いている身体を感じた瞬間、身体が竦んだ。次は何をされる? 息が荒くなって、今にも泣き出しそうになる。

「主任、俺です。島田です」

 耳元で囁かれた声に安堵して、身体の強張りが少しずつ解れていく気がする。

「前、ちゃんと直して下さい」

 言われて初めてチャック全開のスラックスに手を伸ばす。少し乱れたシャツやネクタイも整えた。

「次の駅で一度降りますか?」

「…………」

「……主任?」

 何か言わないと。分かっていても言葉が出てこない。島田は俺が痴漢をされていると気付いて来てくれたんだろうか? それはそうだろう。『前をちゃんと直せ』と言ってきたんだから。
 助けてくれて本当に感謝している。
 でも、やっぱり恥ずかしいという感情もある。大の男が、同じ男に尻を撫でられて、声も出せず、抵抗も出来ず、ただただ泣きそうになっていたなんて。
 そんなところを、会社の後輩に見られるなんて。

「もう大丈夫です。俺がちゃんとそばにいますから。……恐かったですよね。気付くのが遅くなって、本当にすみません」

 そんなことを本気で申し訳なさそうに島田が言うから、自分の浅さにまた恥ずかしくなる。
 島田は、俺を格好悪い奴だなんて、これっぽっちも思っていない。そんな奴じゃない。こいつはきっと、自分がもっと早く気付けていたらと心から思っているんだろう。
 そっと振り返ると、そこには見たこともないような苦々しい表情をしている島田がいた。

「島田……どうした?」

「主任を触った奴、ぶん殴ってやりたいです。少なくとも警察に突き出してやりたい。でもそんなことしたら、主任に迷惑がかかるし……耐えてるんです。本当に嫌な思いをした主任が黙って堪えてたんだから」

 こいつって、まじでいい奴だよな。
 おかげで恐くてどうかしてた頭が正常に戻った。痴漢をされたことが非日常すぎてパニックになってしまっていたが、この電車は始業時間前になんとか出社できるくらいに到着する電車だ。別の駅で降りているような時間はない。
 そこでまた気付く。こいつは俺が『降りる』と言えば、きっと当然のように一緒に降りてくれていただろう。
 会社に遅刻するなんてことは省みずに。

「降りなくて、いいんですか?」

 電車のドアが開いても動こうとしない俺の顔を、心配そうに覗き込んでくる島田。

「バカ。これ以上お前に迷惑かけられるかよ」

「迷惑なんて、俺思ってないですよ!」

「分かってるよ。でもいいんだ。……助けてくれて、サンキュな」

「主任……」

「ほんとに、助かった」

 俺が礼を言うと、褒められた犬みたいに嬉しそうな顔で笑った。こっちが嬉しくなるくらい。

「あの、主任さえ良ければなんですけど。今晩……」

 そう島田が何か言いかけていたのに、俺の携帯が鳴ったせいで続きは聞けなかった。たぶん『今晩メシ行きませんか』って誘いだと思うけど。俺としてはもちろんOKだし、今のお礼も兼ねて、好きなものを奢るくらいのことはしたい。
 そんなことを考えながら携帯のメールを開くと、今晩食事の約束をしている女からの『時間に遅れないで』『楽しみにしてる』というような内容のメールだった。
 ……完全に忘れてた。割と最近いい感じになってきて、そろそろ手を出してもイケるんじゃねえかと俺の方も楽しみにしてたのに。

「メール。彼女からですか?」

「あ? ああ、……いや、まだ別に付き合ってはいねえけど」

「じゃあ、楽しんで来て下さいね」

 にっこり笑う島田。俺は何となく申し訳ないような気分になる。
 会社に着くまでの間に、『今度お礼に何か奢らせてくれ』と言うと、一度はお礼なんてと断った島田が、最終的には『じゃあ、焼肉で。たらふく食って飲んでやりますから』と悪戯っ子みたいな顔で笑ってくれて、なんかホッとした。
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