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中国分割と世界戦略始動-東アジアの風雲-
第759話 『哱拝の乱』
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天正十九年三月四日(1590/4/8) 紫禁城
天正十一年(1582年)に張居正が死んでから、都・北京の空気は少しずつ、しかし確実に変質していった。
かつて大和殿で政務を執っていた万暦帝の姿は、もはや見られない。
名宰相であった張居正の死後、わずか数年で宮城の様相は一変したのだ。十年前には威厳に満ちていた朝議の場も、今では皇帝の不在が当たり前となり、大臣たちは形だけの議論に時を費やしている。
大和殿での朝議を終えた礼部(礼楽儀仗・教育・国家祭祀・宗教・外交・科挙などの部署)尚書(長官)は、礼部侍郎(副官)を呼び寄せた。
「琉球と朝鮮の件、詳しく報告せよ」
尚書は威厳のある声で命じる。
「はっ」
侍郎は恭しく一礼し、報告書を広げた。
「琉球でございますが、二年に一度の朝貢を完全に放棄しています。那覇港は肥前の船であふれております。また首里の天子館は閉鎖され、福州にあった琉球館の役人や琉球人はすでにおりません」
「朝鮮の動向は?」
「申し上げにくいことではございますが」
侍郎は慎重に言葉を選ぶ。
「正朝使、聖節使、千秋使は形式上は続いているものの、滞在期間は例年の半分ほどに。まるで儀礼をこなすだけのようでございます」
「肥前の影響か」
尚書の声には重みがある。
「然様でございます」
侍郎は新たな報告書を取りだした。
「密偵の報告では、肥前より火薬製造、造船、その他諸々の技術を得ているとのこと。わが大明が下賜していた生糸・絹織物・陶磁器などは、すべて肥前国との貿易により得ているとのことです」
「対抗策は考えたか」
「申し訳ございません」
侍郎は頭を深く下げた。
「我らには冊封の権威と伝統はございますが、肥前は実利をもって各国を引き寄せ……火縄銃に大砲、新しい農具に医術。そしてわが大明への朝貢品と同じものを自由に、そして大量に売買しているとのことです」
尚書は黙って目を閉じる。
「陛下への上奏文の準備は?」
「ただいま準備中でございます。……しかし今さら……」
侍郎は慎重に答える。
「これまで同様の上奏文を奏上いたしましたが、陛下が政務より遠ざかっておられる昨今、どこまでご理解いただけますやら……」
「言ってはならぬ。それでもわれらは、為すべきことを為さねばならぬのだ」
「ははっ」
■寧夏鎮
黄河の流れを見下ろす城壁の上で、年老いた副総兵の哱拝はため息をついた。かつて『塞北の江南』と謳われた肥沃な大地も、今は中央政府に搾取されるだけとなっている。
「父上、また給与の支払いが滞っているそうです」
息子の哱承恩が近寄ってきた。
「またか」
哱拝は目を細める。
「党馨の新しい圧政か」
「はい。今度は戦死した兵士の未亡人からまで、馬の賠償金を取り立てているとか」
城下の通りでは、痩せ細った家丁たちが行き交う。かつては誇り高い帝国の守り手だった彼らも、今では給料も満足に支払われない傭兵同然だ。
「報告がございます」
側近の家丁が駆け寄ってきた。
「京営への兵力移動が、また命じられました」
哱拝の表情が曇る。
「また精鋭を北京へ差し出せとの命か」
側近の家丁の報告に、哱拝の声は苦々しい。
「はい。今度も京営への差し出しです」
側近は申し訳なさそうに続ける。
「しかも、装備も併せてとの要求が」
「愚かな」
哱拝はうなる。
「辺境の守りを薄くして、いったい何になる。アルタンの死後、モンゴルの侵入は増える一方というのに」
「父上」
息子の哱承恩が近寄ってきた。
「毎度のように精鋭が抜かれ、辺境の防衛は危うくなる一方です」
哱拝は黙ってうなずく。京営への兵力供出、そして党馨による圧政。残された兵も給与は滞り、士気は地に落ちていた。
「……父上、このままでは」
「分かっておる」
哱拝は城下を見渡した。
「二十年前、わしがモンゴルから投降したときとは、すっかり様変わりじゃ。衛所は形骸化し、精鋭は京営へと引き抜かれる」
通りの片隅では、新任の巡撫・党馨の役人が、老いた家丁から過酷な取り立てを行っていた。
「都指揮使としての意見を聞かせてくれ」
哱拝は息子に向き直る。
「父上の家丁二千。私の配下の兵。そして劉東暘、許朝らの部隊。みな同じ思いです」
哱承恩の声は低い。
「しかし……一度反旗を翻せば、もう後には引けません」
「うむ。党馨は我らを疎ましく思っておる。次は何を仕掛けてくる?」
哱拝の目は遠くを見ていた。
城門の近くで、突如として怒号が響く。また誰かが取り立てに抗議したのだ。
「父上」
哱承恩が声を潜める。
「劉東暘たちが、動き出そうとしています」
「そうか」
哱拝は静かにうなずく。
「六十の生涯、まさか反乱軍の将となるとはな」
「父上、それは!」
哱承恩は声を震わせる。
「そのようなことをなされては……明への反逆は、一族の命運を賭けることになります」
「わしは既に引退した身」
哱拝は苦笑する。
「だが、この寧夏の民と兵を、党馨の圧政から守らねばならん。わしにも、そなたにも、この責務がある」
黄河の流れは変わらず悠々と続いている。
だが、その畔で明朝の屋台骨である衛所の軍制は、内側から朽ち果てようとしていた。正規の軍から逃亡する兵は増え続け、代わりに台頭した家丁たちにも給与は行き渡らない。
「申し上げます!」
血相を変えた家丁が駆け寄ってきた。
「何だ! ?」
「官軍家丁の劉東暘と許朝が反旗を翻しました! 兵備副使の石継と巡撫の党馨を討ち取り、城門を封鎖したとの報せです!」
哱拝と哱承恩の表情が強張る。
「やはり動き出したか……」
哱拝の声は沈んでいた。
「父上!」
「時は来た」
哱拝は静かに、しかし確固とした声で告げた。
「わしらの家長たちも、もはや黙ってはおれまい」
黄河の流れに夕陽が赤く映えていた。寧夏の反乱は、こうして始まったのである。
次回 第760話 (仮)『乱、その後』
天正十一年(1582年)に張居正が死んでから、都・北京の空気は少しずつ、しかし確実に変質していった。
かつて大和殿で政務を執っていた万暦帝の姿は、もはや見られない。
名宰相であった張居正の死後、わずか数年で宮城の様相は一変したのだ。十年前には威厳に満ちていた朝議の場も、今では皇帝の不在が当たり前となり、大臣たちは形だけの議論に時を費やしている。
大和殿での朝議を終えた礼部(礼楽儀仗・教育・国家祭祀・宗教・外交・科挙などの部署)尚書(長官)は、礼部侍郎(副官)を呼び寄せた。
「琉球と朝鮮の件、詳しく報告せよ」
尚書は威厳のある声で命じる。
「はっ」
侍郎は恭しく一礼し、報告書を広げた。
「琉球でございますが、二年に一度の朝貢を完全に放棄しています。那覇港は肥前の船であふれております。また首里の天子館は閉鎖され、福州にあった琉球館の役人や琉球人はすでにおりません」
「朝鮮の動向は?」
「申し上げにくいことではございますが」
侍郎は慎重に言葉を選ぶ。
「正朝使、聖節使、千秋使は形式上は続いているものの、滞在期間は例年の半分ほどに。まるで儀礼をこなすだけのようでございます」
「肥前の影響か」
尚書の声には重みがある。
「然様でございます」
侍郎は新たな報告書を取りだした。
「密偵の報告では、肥前より火薬製造、造船、その他諸々の技術を得ているとのこと。わが大明が下賜していた生糸・絹織物・陶磁器などは、すべて肥前国との貿易により得ているとのことです」
「対抗策は考えたか」
「申し訳ございません」
侍郎は頭を深く下げた。
「我らには冊封の権威と伝統はございますが、肥前は実利をもって各国を引き寄せ……火縄銃に大砲、新しい農具に医術。そしてわが大明への朝貢品と同じものを自由に、そして大量に売買しているとのことです」
尚書は黙って目を閉じる。
「陛下への上奏文の準備は?」
「ただいま準備中でございます。……しかし今さら……」
侍郎は慎重に答える。
「これまで同様の上奏文を奏上いたしましたが、陛下が政務より遠ざかっておられる昨今、どこまでご理解いただけますやら……」
「言ってはならぬ。それでもわれらは、為すべきことを為さねばならぬのだ」
「ははっ」
■寧夏鎮
黄河の流れを見下ろす城壁の上で、年老いた副総兵の哱拝はため息をついた。かつて『塞北の江南』と謳われた肥沃な大地も、今は中央政府に搾取されるだけとなっている。
「父上、また給与の支払いが滞っているそうです」
息子の哱承恩が近寄ってきた。
「またか」
哱拝は目を細める。
「党馨の新しい圧政か」
「はい。今度は戦死した兵士の未亡人からまで、馬の賠償金を取り立てているとか」
城下の通りでは、痩せ細った家丁たちが行き交う。かつては誇り高い帝国の守り手だった彼らも、今では給料も満足に支払われない傭兵同然だ。
「報告がございます」
側近の家丁が駆け寄ってきた。
「京営への兵力移動が、また命じられました」
哱拝の表情が曇る。
「また精鋭を北京へ差し出せとの命か」
側近の家丁の報告に、哱拝の声は苦々しい。
「はい。今度も京営への差し出しです」
側近は申し訳なさそうに続ける。
「しかも、装備も併せてとの要求が」
「愚かな」
哱拝はうなる。
「辺境の守りを薄くして、いったい何になる。アルタンの死後、モンゴルの侵入は増える一方というのに」
「父上」
息子の哱承恩が近寄ってきた。
「毎度のように精鋭が抜かれ、辺境の防衛は危うくなる一方です」
哱拝は黙ってうなずく。京営への兵力供出、そして党馨による圧政。残された兵も給与は滞り、士気は地に落ちていた。
「……父上、このままでは」
「分かっておる」
哱拝は城下を見渡した。
「二十年前、わしがモンゴルから投降したときとは、すっかり様変わりじゃ。衛所は形骸化し、精鋭は京営へと引き抜かれる」
通りの片隅では、新任の巡撫・党馨の役人が、老いた家丁から過酷な取り立てを行っていた。
「都指揮使としての意見を聞かせてくれ」
哱拝は息子に向き直る。
「父上の家丁二千。私の配下の兵。そして劉東暘、許朝らの部隊。みな同じ思いです」
哱承恩の声は低い。
「しかし……一度反旗を翻せば、もう後には引けません」
「うむ。党馨は我らを疎ましく思っておる。次は何を仕掛けてくる?」
哱拝の目は遠くを見ていた。
城門の近くで、突如として怒号が響く。また誰かが取り立てに抗議したのだ。
「父上」
哱承恩が声を潜める。
「劉東暘たちが、動き出そうとしています」
「そうか」
哱拝は静かにうなずく。
「六十の生涯、まさか反乱軍の将となるとはな」
「父上、それは!」
哱承恩は声を震わせる。
「そのようなことをなされては……明への反逆は、一族の命運を賭けることになります」
「わしは既に引退した身」
哱拝は苦笑する。
「だが、この寧夏の民と兵を、党馨の圧政から守らねばならん。わしにも、そなたにも、この責務がある」
黄河の流れは変わらず悠々と続いている。
だが、その畔で明朝の屋台骨である衛所の軍制は、内側から朽ち果てようとしていた。正規の軍から逃亡する兵は増え続け、代わりに台頭した家丁たちにも給与は行き渡らない。
「申し上げます!」
血相を変えた家丁が駆け寄ってきた。
「何だ! ?」
「官軍家丁の劉東暘と許朝が反旗を翻しました! 兵備副使の石継と巡撫の党馨を討ち取り、城門を封鎖したとの報せです!」
哱拝と哱承恩の表情が強張る。
「やはり動き出したか……」
哱拝の声は沈んでいた。
「父上!」
「時は来た」
哱拝は静かに、しかし確固とした声で告げた。
「わしらの家長たちも、もはや黙ってはおれまい」
黄河の流れに夕陽が赤く映えていた。寧夏の反乱は、こうして始まったのである。
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