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第302話 『厚顔無恥と知らぬ存ぜぬ』

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 文久二年十月二十八日(1862年12月19日) 横浜 イギリス公使館 <エドワード・セント・ジョン・ニール>

 どうする? どうする? どうする?

 上海からの当事者始末の報告とその信憑性の疑わしさ。もし生きていれば、狙われた事を恨んで証言をするだろう。そうでなくても、脅されて証言するかもしれない。

 それにもう1人、上海の領事館の職員だが、この男は今回の事件とは直接は関係がない。しかし、日本側が保護しているということは、有利に運べる材料として考えているのだろう……。

 いや、待て待て、オレがいま考えなければならないことは、オレ自身の行動の正当性だ。そして母国イギリスの事件における無関与と、当初どおりの主張だ。

 ……オレのこの交渉における発言と行動、これはまったく問題ない。与えられた情報のなかで、国益を第1優先に考えての事だ。上海に伝えた要望にしたってそうだ。

 オレは駐日代理公使、そして相手は上海の駐清上海領事だ。代理公使と領事で立場はオレの方が上だが、他国における在外公館の領事であるから、オレに命令権はない。

 それにオレは、疑わしき2人の身柄の確保を命じただけで、始末しろなどとは言っていない。なぜ危害を加え殺したのだ? しかも殺し損ねて生きている。

『適切に処理』して欲しいと要望しただけで、『始末しろ』など依頼していない。




 よし、これでオレの行動に関しては正当性が保てる。

 それにしたって、ヤツらが何を言おうが、それが正しいなど立証できないのだから。……第一、本当にイギリスが関与したかどうかもわからない。オレは関わってないんだから。




 当然ながらイギリスは関与していない、と今まで通り主張できる。仮にオールコック前任公使が裏で糸を引いていたとしても、それを立証などできないし、オレ個人もそんな話は聞いたことがない。

『なかなか日本は手強い。上手いこといきませんね』

『なに、行かなければ行くように仕向ければいいだけのこと。あとはそういう考えでお願いしますよ』




 たったこれだけだ。

 何の事なのかさっぱりわからない。強気で交渉しろ、とも取れるし、やり方を変えろとも言える。いずれにしても生麦事件のような強硬手段など、誰が考えつくだろうか。

 考えついたとしても、実行はしない。




 ならば結論は1つ。

 知らぬ存ぜぬで通すのみ。




 ■公使館 会談室

「早速ですが、交渉を始めましょう」

 同席者はこれまで同様大老の安藤信正、大村藩主の大村純顕、そして事実上の全権となっている太田和次郎左衛門である。

「今回の生麦事件について、貴国政府の責任は重大です。我々は貴国に公式な謝罪と、関係者の処罰、そして賠償金の支払いを求めます」

 次郎の言葉は、静かだが力強い。

 ニールはまるで、ふっきれたかのように冷静である。少なくとも感情を表にださず、無表情である。

「今回の事件は誠に遺憾であり、深くおび申し上げます。しかしそれは、我が国の国民が貴国の領主に対して行った、貴国の慣習に従わない無礼な態度に関してであり、すでに謝罪は終わっています。この上なにを我が国が謝罪するのですか?」

 ニールは静かに、しかし毅然きぜんとした態度でそう言った。その言葉に次郎は少し驚いたようだったが、すぐに切り返した。

「確かに既に謝罪を受け入れました。しかし、今回の交渉の主題はそこではありません。我々が問題視しているのは、貴国政府が、この事件を意図的に引き起こしたという点です」

 次郎は鋭い視線でニールを見据えた。

「どういう意味ですか?」

 まったく表情は変わらない。

 人間、嘘をつけば言葉や仕草にその特徴が表れる。男と女で違いはあるが、典型的なものでは目をそらしたり、多弁になったりという事だ。
  
 しかしニールにはまったくそれが感じられない。

 なぜか?

 客観的にはどう考えても嘘ではあるが、本人が嘘をついているという認識がなく、本当だと信じている場合は、まったく読み取れない。この時のニールがそれに近かった。

 立証できるはずがない、納得させられるはずがない、と心の底から信じていたのだ。

「とぼけるのはよしましょう、ニール公使。我々は既に事件の真相を掴んでいます。貴国の前公使オールコック殿の指示、発砲の経緯、上海への逃亡、そして紅幇ほんぱんによる工作員の殺害。全てが貴国の陰謀だったのです」

 次郎は淡々と事実を述べた。
 
「はて……どこにそのような証拠があるんですか?」

 ニールは当然のように否定した。
 
「証拠はあります」

 次郎は静かに言った。そしてビル・スレイターの証言録取書や彦馬が撮影した写真、目撃者の証言をニールに提示したのだ。

 ニールはじっくりと、ゆっくりその書類を読み、答える。

「……ふむ。それで……? なるほど、ビルという男、はて、2人と聞いておりましたが……。なるほどなるほど、上海でそんな事件が……。ほうほう、この写真は……写真機を持ち運べるとは……。これは本当に写真なのですか? それにこの目撃証言も、そうですか、としか言いようがない」

 ニールはブツブツとつぶやいた。

「これが、我が国政府の関与とどう関係が?」

 


 開き直りやがった!

 次郎は心の奥で叫んだ。




 次郎は怒りを抑え、冷静にニールに語りかける。

「ニール公使、貴殿は本当に理解していないのですか? ビル・スレイターは貴国前公使オールコックの指示で今回の事件を起こしたと証言しています。彼が上海へ逃亡したのも、貴国公使館の指示があったからでしょう。紅幇を使った工作員の殺害も、貴国が裏で糸を引いていたはずです。これらの証拠を突きつけられてなお、貴国政府の関与を否定するのですか?」

「……確かに、ビル・スレイターという男が、我が国の前公使オールコックの指示で事件を起こしたと証言していることは理解しました」

 ニールは次郎の言葉にひるむことなく平然と答え、続ける。

「しかしそれは彼の個人的な行動であり、我が国政府は一切関与していません。上海への逃亡や、紅幇を使った工作員の殺害についても同様です。証拠がない以上、貴国の主張はただの憶測に過ぎません。その証拠にあなたは今、『~はずです』と仰った。タラレバで物事を語られたらたまらない」

 次郎はニールの言葉に反論しようと口を開きかけたが、一度言葉をのみ込んだ。そして少し間を置いてから、異なる角度から切り込むことにした。

「ニール公使、では、この写真の人物は誰でしょうか?」

 次郎は彦馬が撮影した、生麦事件当日に現場に居合わせたパーシーとビルの写真を改めてニールに突きつけた。

 ニールは写真を見つめ、しばらく沈黙した後、答えた。

「……知りません。面識はありませんね。欧米人のようですが、イギリス人ですか?」

「……そうですか。では、この写真に写っている男たちが、事件直後に貴国の船で上海へ逃亡したという目撃証言についてはどう説明されますか?」

 次郎はたたみかけるように尋ねるが、ニールは微動だにしない。写真である。目撃者が嘘をついている可能性もなきにしもあらずだが、そのメリットがない。

 少なくとも似顔絵や言葉によって姿形を伝えたわけではない。目撃者が嘘をついていなければ、それは限りなく事実だ。

「……どう説明、と言われても、なぜ説明しなければならないのか理解不能です。その目撃証言自体も貴国が提出しただけで、証拠の信憑性については認めていない。たまたま同じような風貌の人物が上海行きの船に乗っていた、という事も十分考えられる」

 つまりニールは、暗にでっちあげを示唆していたのだ。

「偶然? では、その人物たちが上海で紅幇に殺害されたことについても偶然だと?」

「……! まさか……殺害されたのですか? それはお気の毒に……。しかし今回の事件とは無関係では?」

 あくまでシラを切るつもりだな。そう次郎は思った。通訳を介して信正と純顕にも伝わり、2人は不快感をあらわにする。

「Mr.太田和、私は事実しか述べておりません。貴国がどのような証拠を提示しようと、我が国政府の関与を証明することはできないでしょう」

 ニールの厚顔無恥な態度に、次郎はもはや言葉も出なかった。彼は静かに立ち上がり、ニールに向き直って言った。

「ニール公使、貴殿の態度は理解しました。それではもはやこれ以上、貴殿と交渉する意味はありません。では、各国の公使・領事館ならびに報道各社に全てを公表いたします。問題ありませんね?」

 その直後、安藤信正が次郎に言った。

「蔵人よ、それは昨日そなたが言っていた事と逆の事となろう。国内にイギリス憎し、攘夷じょうい決行すべしとの気運が高まってしまうぞ」

「御大老様、事ここにいたっては致し方ございませぬ。イギリスが要求をまないのであれば、まずはそれに処さねばなりませぬ。国内はしかと説明を行い、ひとえにイギリスの蛮行であると、他の国と一緒にするでないと説かねばなりますまい」

「次郎の言う事も、もっともにございます。ここでイギリスの要求を呑んだのならば、いずれにしろ御公儀の弱腰と非難されましょう。またイギリスも刃を納めず、我が国に対して賠償を求め続けましょう。なんの解決にもなりませぬ」

 純顕が間に入って補足した。




「Mr.太田和、こうしてはどうでしょう。不幸にして起きた事件ですが、私は代理ではありますが公使として全権をもって交渉と、それから事実解明のために清国にも依頼をだしました。しかし、すでに事態は私が個人的に決定できる範疇はんちゅうを超えています。時間はかかりますが、現時点の状況を本国に伝え、その上で本国の正式見解に基づいて交渉を行う、というのはいかがでしょうか」

「なるほど、ニール公使、それは……さきほど私が言った各国公使・領事館への通達と各国新聞社への公表は、やっても構わないという前提でしょうか」

 ニールは考え込んでいたが、こう答えた。

「それは、あくまでその人物がそう言っている、その目撃者がこう言っている、という表現なら仕方ないでしょう。しかしあたかもそれが真実で、我が国が嘘をついているように取られるものならば、容認できません。言っているという事実はあっても、やったと言う事実と同義ではありませんから」




 それを言ってしまえば、話がまったく前に進まない。




 次郎はイギリス側の対応として、そうするであろうと予測はしていた。

 日本側の基本的な要求は変わらないとしても、本国の判断になるならば早いほうがいい。
  
 在外公館とメディアへの公表は含みのある言い方であったが、次郎は信正に相談し、許しをえてイギリスの提案にのることにした。




 次回予告 第303話 『島津久光は謝らない。そして生麦事件の公式記者会見』
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