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第290話 『生麦事件交渉-5-10万ポンドの要求』

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 文久二年八月十八日(1862年9月11日) 

 日本側とイギリス側の会談は連日にわたって続き、ついにニールは上海租界における捜査協力を認めるに至った。

 今回のニールの目的は、100対0の勝利でなくともイギリス優位で交渉を進め、賠償金を勝ち取り、今後の日本におけるイニシアチブを獲得することである。

 謝罪に関してはニール一行も再度病院に行き、被害者と面談の上、国家の体裁を保てるだけの賠償金を得て、謝罪はお互いが非を認めて相互に行うことで合意を得た。

 ・イギリス側は個人的謝罪を認めたが、薩摩側は認めるのか?   
 ・賠償金をいくらに設定するのか?   
 ・犯人引き渡しは事実上難しい。

 ただし上海においては領事館、もしくは大使館の許可が必要なため、捜査協力をするにしても時間がかかる。次郎はなるべく早くと言ったものの、使者が上海に到着しても、すぐに協力は得られないだろうと考えていた。




「では私はこれから事件の詳細、これはこれまでの状況を踏まえ、双方が合意した内容ですが、この書面をもって上海の領事館と、必要があれば北京の大使館まで捜査協力の要請をいたします。相応の時間がかかることはご了承ください」

「承知しました」

 次郎はなんとか協力を取り付けたことに満足していたが、あとはどのくらいの時間がかかるかである。

「では、治療中の3人については完治の後、無礼は謝罪するとのことですでに話がつきました。それで加害者側……で問題ありませんね? 島津側は、刀で傷を負わせたことに対しては、謝罪していただくことでよろしいですか?」

 次郎は考え、即答は避けたが、否定的ではない回答をする。

「それについては善処いたします。ただ、武士の矜持きょうじというものがあり、わが国では人々の生活の中でも秩序というものを大ごとにしていますので、それを傷つけられた手前……これに関しては善処いたしますとしか今の段階では申し上げられません」

 薩摩が謝罪に応じるかということである。それにつきる。

「それは困りますね。こちらは傷を受け、それを踏まえて無礼を謝罪するのです。わが国の法で裁けない以上、犯人の身柄を渡せとは言えませんが、せめて謝罪はしてもらわないと筋が通りません。このままでは一方的にこちらが悪かったことになる」

「十分承知しています。ただ、ここにいない者の考えを私が軽々に述べることはできません。ですから、事実を踏まえた上での説得を試みる、ということです」

 ニールは怪訝けげんな顔をする。

「サツマは、シマヅは幕府の統制下にあるのではないのですか? なぜ命令できないのですか?」

 統制下ではある。ただし、残念ながらその力が、今の幕府においては弱まってきているのだ。

「ニール殿、日本では今回のような事例は初めてなのです。藩と藩の争いであったり、藩内で収拾がつかない場合は幕府が間に入って仲裁し、問題を解決してきました。しかし、今回幕府が薩摩に命じたとしても、すぐに了承が得られるとは限らないのです。ただし、それでも薩摩の行為は行為であり、国家の責任をもって謝罪するよう命じます」

 次郎は言葉を選んだ。

 命じることはできる。

 ただし、本当は『説得する』と言いたかったのだが、そうなれば幕府の統治能力を疑われ、不必要な介入を受けてしまう。ここはグレーでも日本は統一国家だと示しておかなければならなかったのだ。

「なるほど、まあ良いでしょう。では次に、協力をした場合には相応の賠償金の支払いに応じるとのことに間違いはありませんか?」

「間違いありません」

「その上で、状況に応じた賠償額を決めておきましょう」

 ニールは少し不服そうに話を進めた。

 ・逃亡した2人がイギリスの命令で犯行を起こした。
 ・逃亡した2人が第三国の命令で犯行を起こした。
 ・逃亡した2人は国家とはまったく関係がなく、個人的に行って逃亡した。

「まずあり得ない話ですが、我が国政府の命令で2人が犯行に及んだのであれば、これは由々しき事態です。被害者への賠償は政府が行わなくてはならず、イギリスは日本に対して賠償を行わなければならないでしょう。この場合はいくらをお考えですか?」

 まったく関心がないような素振りでニールが次郎に聞いた。

「そうですね……金額は考えた事もありませんでしたが、国家単位の陰謀ですから、貴国の通貨で10万ポンドは必要でしょうか」

 ニールは鼻で笑い、続ける。

「なるほど、わかりました。では次です。第三国の場合は……これは協議は、イギリスと日本両国がその対象国に対して請求するものですから、急がなくても良いのではないでしょうか」

「そうですね」

 次郎は無表情であり、ニールもまた、そんな事はありえないと考えていた。




「さて、1番の問題は国家がまったく介在しない場合です」

「……」

「わが国は貴国に対して10万ポンド、薩摩に対して2万5千ポンドを要求します。死者は出なかったとはいえ重傷を負い、それに上海において、前例のない租界内での捜査を認めるのです。その上で国家の関与が認められないと判明した場合、威信を傷つけられたとして、当然の要求かと」

「なるほど。しかしそれは先の話になりますね。実際の交渉は、その結果によるでしょう」

 こっちもふっかけたが、まさか史実と同額を要求してくるとは。

 次郎は驚いた。




 ■上海 フランス租界 ホテル『宏記洋行』

「Excusez-moi, un Japonais du nom de Shinsaku Takasugi séjourne-t-il dans cet hôtel ? (失礼、このホテルに高杉晋作という日本人は泊まっていませんか?)」

「ああ! 誰かと思ったら直紀どのではないか! なぜ上海に? ……さては、なにか日本で起きたのですか?」

 大村遊学時代に知己となっていたのだ。

「その何かなのです! 人目につくので某を含めて数名しか家中からは来てはおりませんが、とんでもないことが起きました」

 大村藩士の御城直紀は辺りを見回し、晋作の耳元でささやいた。

「なにい! ? それで、いや、ここはまずい。部屋には佐賀の中牟田君や薩摩の五代君、御家中の峰君もいる。そこで話そう」




 高杉晋作と大村藩士の御城直紀、そして同じく今道晋九郎は2階の晋作たちの部屋に上がっていった。




 次回予告 第291話 『上海にて』
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