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第172話 『武士と町民、士官と下士官兵。身分と階級』
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嘉永六年十二月二十六日(1854年1月24日)
「うーん……」
5分後……。
「むむむむむ……」
次郎は頭を抱えていた。頭では分かってはいたものの、物事には順番と優先順位、それから段階を経て取り組んでいかなければならない事が多々ある。
藩内の軍制改革もその一つである。
江戸時代、戦うのは武士であり(天下泰平の世で形骸化してはいたが)、その命令系統は家格や役職によって決められていた。そしてその家格や役職は、個人の能力にかかわらず、世襲に近いものがあったのだ。
だからどんなにボンクラでも、世襲で何十、何百の、それ以上の武士の上に立って指揮をとるというのは往々にしてあったのだ。大村藩もご多分に漏れずその慣習だったのだが、海軍は違った。
操船や機関の操作、その他諸々全てが専門性を有するため、次郎は農民・町民・武士関係なく、伝習所で学ばせたのだ。もちろん、入校に際してはその旨を十分伝達し、納得の上で入校させている。
開明塾や五教館で優秀だったのは言うまでもない。その二校に在籍または卒業していなくても入校は可能であったが、ついていけるだけの学力は必要であった。
当初は年齢の制限を設けてはいなかったが、体力的な事もあり、現在では15~20歳と決められている。
武家の子弟達は農民や町民に負けるのは(上官として命令を受けるのは)恥だとして、必死で勉強し、技術の習得にあたった。逆に農民や町民は、侍の上に立つと言うよりも、食い扶持をみつけ、稼ぐという目的が大きかったかもしれない。
現在、海軍は徳行丸(400t)、昇龍丸(360t)、蒼龍丸(360t)、飛龍丸(73.5t)の四隻を保有しており、至善丸は建造中である。人員は陸上要員も含めて450名前後だが、今のところ問題はない。
「おや、太田和殿、何をされているのですかな?」
考え込む次郎に声をかけたのは、オランダ海軍スパルタ教官のヘルハルト・ペルス・ライケンである。ライケンは5年前の嘉永元年から大村藩の海軍伝習のために赴任してきていた。
4年間の1期目を終え、契約を更新してから2年目となる。
「ああ、これはライケン殿。本日の教練は終わったのですか? いや、実は軍制改革について頭を悩ませておりまして」
「軍制改革?」
ライケンは少し顔をしかめて聞き直す。
「ええ。士官・下士官・兵という風にそれぞれ階級を定め、改革を進めるためには、武家の子弟の考え方を変えなければならないのですが、容易い事ではないのです」
「なるほど、それは大きな問題ですね。特に日本の身分制度を考えると、平民が貴族……(のようなもの)に命令を下せるような指揮系統は、納得させるのは難しいでしょうな」
次郎は、すぅっと短く息を吸って吐き、ライケンの言葉に頷いた。
「そうなのです。武家は武家、町人は町人、農民は農民と、分をわきまえる事が奥ゆかしく、礼儀礼節に則って日々を営むべしというのが儒教の考え方で、彼らにとっては平民に命令されるなど、侮辱や屈辱と同じなのです」
「身分制度と能力主義の折り合い、ですか。確かに難しい問題ですね」
ライケンは腕を組み、考え込む。
「しかし、やらねばなりませんな。海軍では何の問題もありません。陸軍はわかりませんが、強力な力でねじ伏せるか、段階的に変えていく事が必要でしょう」
前者を行えば、多くの藩士から強硬な反発を食らうだろう。
「例えば?」
次郎は短く聞いた。オランダ語は得意ではないが、ライケンも同じく英語が得意ではない。オランダ語と英語を織り交ぜながら、意思の疎通を行っている。
「これは陸軍でもやっているのでしょうが、入隊前に誓約書を書かせるのですよ。どのくらいの効果があるか分かりませんが、やらないよりましでしょう。もしくは完全に分けるのです。貴族軍と平民軍ですな。しかしこれは、やる前から勝ち負けは見えております」
「というと?」
「太田和殿、現在の大村領の貴族の子弟の数はどのくらいですか?」
なるほど、と次郎はすぐに理解した。藩士は2,000名ほどいるが、仮に年齢を問わずに全員が陸軍軍人になったとしても、中規模の連隊程度の兵力にしかならない。
対して、平民で士官から兵まで構成した場合は、その10倍にはなるだろう。
「ゆえに、大村陸軍を強大にするには平民兵が必要不可欠であり、また、貴族兵は連隊長以上には昇進しづらい」
次郎は考え込む。
「それは……武家の子弟出身は、その素養を身につけづらいと?」
「その通り! 連隊規模の部隊運用の経験しかない者なら、連隊しか任せられないという事になる。もちろん、誰もが初めての経験というものがあるから、全てがそうであるとは言えない。が、少なくとも師団規模の運用の経験、例えば幕僚という形での経験というのは、指揮官としての素養を育てる要因となり得る」
つまりライケンが言いたい事は、言い方はいびつだが、連隊のお山の大将とその取り巻きは、旅団や師団を動かすという経験を積むことが出来ない、という事なのだ。
対して平民は家格や親の役職関係なく切磋琢磨するので、最初の段階で最優秀の者が長となり、やがて師団長となる。
もちろん、前にも言ったが、任せられないという訳ではない。
三兵制度の確立とジャスポー銃の使用で、欧米の戦術思考がイコールで使えない面があるので、試行錯誤して確立している最中なのだ。誰もが勉強する側の者であるので、指揮運用戦術の習熟に関しては差はない。
ただし、連隊よりも2ランク上の部隊規模の運用を経験している者と、そうでないものでは、経験者の方が安心して任せられるというのは想像に難くない。
「有難うございます。大変参考になりました」
次郎はライケンに対して深々と頭を下げ、ライケンもどういたしまして、と返した。
「さて、ちょっと殿と話してくるか……。新造艦の事もあるしな」
■精煉方 造船所
「なんだって? 鉄の船?」
■精煉方 大砲鋳造方
「なんですと? それだけの量の鉄……これは、相当な刻が要りますぞ」
次回 第173話(仮)『鋼鉄艦とベッセマー転炉。蒸気機関の改良と800トン級2隻建造へ』
「うーん……」
5分後……。
「むむむむむ……」
次郎は頭を抱えていた。頭では分かってはいたものの、物事には順番と優先順位、それから段階を経て取り組んでいかなければならない事が多々ある。
藩内の軍制改革もその一つである。
江戸時代、戦うのは武士であり(天下泰平の世で形骸化してはいたが)、その命令系統は家格や役職によって決められていた。そしてその家格や役職は、個人の能力にかかわらず、世襲に近いものがあったのだ。
だからどんなにボンクラでも、世襲で何十、何百の、それ以上の武士の上に立って指揮をとるというのは往々にしてあったのだ。大村藩もご多分に漏れずその慣習だったのだが、海軍は違った。
操船や機関の操作、その他諸々全てが専門性を有するため、次郎は農民・町民・武士関係なく、伝習所で学ばせたのだ。もちろん、入校に際してはその旨を十分伝達し、納得の上で入校させている。
開明塾や五教館で優秀だったのは言うまでもない。その二校に在籍または卒業していなくても入校は可能であったが、ついていけるだけの学力は必要であった。
当初は年齢の制限を設けてはいなかったが、体力的な事もあり、現在では15~20歳と決められている。
武家の子弟達は農民や町民に負けるのは(上官として命令を受けるのは)恥だとして、必死で勉強し、技術の習得にあたった。逆に農民や町民は、侍の上に立つと言うよりも、食い扶持をみつけ、稼ぐという目的が大きかったかもしれない。
現在、海軍は徳行丸(400t)、昇龍丸(360t)、蒼龍丸(360t)、飛龍丸(73.5t)の四隻を保有しており、至善丸は建造中である。人員は陸上要員も含めて450名前後だが、今のところ問題はない。
「おや、太田和殿、何をされているのですかな?」
考え込む次郎に声をかけたのは、オランダ海軍スパルタ教官のヘルハルト・ペルス・ライケンである。ライケンは5年前の嘉永元年から大村藩の海軍伝習のために赴任してきていた。
4年間の1期目を終え、契約を更新してから2年目となる。
「ああ、これはライケン殿。本日の教練は終わったのですか? いや、実は軍制改革について頭を悩ませておりまして」
「軍制改革?」
ライケンは少し顔をしかめて聞き直す。
「ええ。士官・下士官・兵という風にそれぞれ階級を定め、改革を進めるためには、武家の子弟の考え方を変えなければならないのですが、容易い事ではないのです」
「なるほど、それは大きな問題ですね。特に日本の身分制度を考えると、平民が貴族……(のようなもの)に命令を下せるような指揮系統は、納得させるのは難しいでしょうな」
次郎は、すぅっと短く息を吸って吐き、ライケンの言葉に頷いた。
「そうなのです。武家は武家、町人は町人、農民は農民と、分をわきまえる事が奥ゆかしく、礼儀礼節に則って日々を営むべしというのが儒教の考え方で、彼らにとっては平民に命令されるなど、侮辱や屈辱と同じなのです」
「身分制度と能力主義の折り合い、ですか。確かに難しい問題ですね」
ライケンは腕を組み、考え込む。
「しかし、やらねばなりませんな。海軍では何の問題もありません。陸軍はわかりませんが、強力な力でねじ伏せるか、段階的に変えていく事が必要でしょう」
前者を行えば、多くの藩士から強硬な反発を食らうだろう。
「例えば?」
次郎は短く聞いた。オランダ語は得意ではないが、ライケンも同じく英語が得意ではない。オランダ語と英語を織り交ぜながら、意思の疎通を行っている。
「これは陸軍でもやっているのでしょうが、入隊前に誓約書を書かせるのですよ。どのくらいの効果があるか分かりませんが、やらないよりましでしょう。もしくは完全に分けるのです。貴族軍と平民軍ですな。しかしこれは、やる前から勝ち負けは見えております」
「というと?」
「太田和殿、現在の大村領の貴族の子弟の数はどのくらいですか?」
なるほど、と次郎はすぐに理解した。藩士は2,000名ほどいるが、仮に年齢を問わずに全員が陸軍軍人になったとしても、中規模の連隊程度の兵力にしかならない。
対して、平民で士官から兵まで構成した場合は、その10倍にはなるだろう。
「ゆえに、大村陸軍を強大にするには平民兵が必要不可欠であり、また、貴族兵は連隊長以上には昇進しづらい」
次郎は考え込む。
「それは……武家の子弟出身は、その素養を身につけづらいと?」
「その通り! 連隊規模の部隊運用の経験しかない者なら、連隊しか任せられないという事になる。もちろん、誰もが初めての経験というものがあるから、全てがそうであるとは言えない。が、少なくとも師団規模の運用の経験、例えば幕僚という形での経験というのは、指揮官としての素養を育てる要因となり得る」
つまりライケンが言いたい事は、言い方はいびつだが、連隊のお山の大将とその取り巻きは、旅団や師団を動かすという経験を積むことが出来ない、という事なのだ。
対して平民は家格や親の役職関係なく切磋琢磨するので、最初の段階で最優秀の者が長となり、やがて師団長となる。
もちろん、前にも言ったが、任せられないという訳ではない。
三兵制度の確立とジャスポー銃の使用で、欧米の戦術思考がイコールで使えない面があるので、試行錯誤して確立している最中なのだ。誰もが勉強する側の者であるので、指揮運用戦術の習熟に関しては差はない。
ただし、連隊よりも2ランク上の部隊規模の運用を経験している者と、そうでないものでは、経験者の方が安心して任せられるというのは想像に難くない。
「有難うございます。大変参考になりました」
次郎はライケンに対して深々と頭を下げ、ライケンもどういたしまして、と返した。
「さて、ちょっと殿と話してくるか……。新造艦の事もあるしな」
■精煉方 造船所
「なんだって? 鉄の船?」
■精煉方 大砲鋳造方
「なんですと? それだけの量の鉄……これは、相当な刻が要りますぞ」
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