短編集 ありふれた幸せ

たけむら

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赤い花 ――三十歳・男

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 一度だけ、恋をした。
 いつの間にか好きになり、それからずっと大好きで、権利も無いのに嫉妬したり、何とか彼女の気を引こうとしたりと、今思えばどうしようもなく恥ずかしい恋をした。
 ライバルは多く、それでも二人はほんの少し位の劇的な瞬間を積み重ねる様にして付き合い始め、それから数年。『別れよう』と僕が口にして、彼女が伏し目がちに頷くまでの間、僕は、彼女に恋をしていた。

 電車が揺れた。揺れて、ゆっくりと止まった。なんとはなく天井の方を見上げた人達の頭上から、緊急停止の説明と謝罪のアナウンスが流れる。

 視界の中、あの頃の彼女に似た顎の女性がスマホに指を走らせた。

 夜の窓に映るおじさん達の影。そこに自分の顔を見つけて、年を取ったなと少し落ち込む。

 運命だなんて思ってはいなかった。それでも、何度も好きだと言った。愛してるとさえ口にした。結婚しようなんて言って、彼女が嬉し泣きした夜もある。きっとそこに嘘は一つも無かった。

 電車が、また動き出す。ゆっくりと車輪の動きを確かめる様に速度を上げて。

 あの頃、僕は多分疲れていた。
 二人でいても喧嘩することが多くなった。仕事終わりに逢いに行く事よりも寝る事を選び、休日には一人でぼんやりとしている時間が増えた。こちらからメッセージを送る機会が減ると、彼女からの誘いも減って行った。

 ただそれだけで、僕の恋は終りを迎えた。

 苛立ちと腹立たしさ以外を与える事ができなくなり、焦燥感と罪悪感だけが募る日々。せめてきちんと『別れよう』と口にする事が、あの頃の僕に出来る精一杯の抵抗で、最後の愛情表現だった。

 驚くくらいにあっさりと、それでいて少しも意外では無いスピードで彼女が頷いて以来、僕は恋をしていない。あるいは、ずっと恋をしている。僕が大好きだった頃の彼女に。

 きっといくつもの表情を見すぎたせいで、顔すら思い出せなくなったあの人に。

 少しだけ目を閉じて、また開いて。手すりからそっと手を放し、見慣れた駅の見慣れた場所から家路を歩き出す。
 名前も知らない赤い花が並んだ花屋の前、街燈が照らす影から影へとふざけた様な足取りで。たった一度きり、誰かに本気で恋をした事があるという位しか誇ることの無い人生を、溜息交じりに笑いながら。それだけはしっかりと胸に抱いて。 
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