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「さあ、アンジュッテ。早く契約の間で婚姻を成立させてしまおう。僕は愛しい君と早く結ばれたくてたまらないんだ」

 パーティー会場に残されていた第一王子はアンジュッテの手を引く。

 第一王子は、柔和で美しい笑みを浮かべていた。

「アンジュッテ? どうしたんだ?」

 今日、本来の予定であれば、姉であるエンブレンがパーティー後王子と共に契約の間へと進むはずだった。

 誰もが羨む逆転劇。自分は今、世界で一番幸せなヒロインなんだ。

 そう思いたいのに。どうしてだかアンジュッテの心中には、淀んだ澱が漂う。

 この幸せが砂上のように脆いもののように感じてしまうのはなぜ? ——こんな体験をするのは初めてだから、私は緊張をしているのだろうか。

「いいえ。殿下。特に問題はございません。共に参りましょう」

 アンジュッテは気を引き締めて、差し出された手をとる。

「ああ……共に」

 第一王子は嬉しそうに頬を染めていた。

 アンジュッテが連れて行かれた契約の間は恐ろしく美しい部屋だった。

 花の模様が組み込まれた色鮮やかなステンドグラスに四方を囲まれ、月明かりがその模様を足元に映し出している。

 この国での一般的な婚姻は書類の上で締結されるが、代々、この国の王妃だけはこの契約の間で婚姻の儀式が行われていた。

 まるで夢のように美しい空間を見て、アンジュッテは息をするのも忘れるほど空間に魅入っていた。

「ここに手を置けばいいんだ、アンジュッテ」

 そう第一王子に示された場所には拳ほどの大きさの宝石が埋め込まれた、女性の手を象ったような形の黒いモニュメントがあった。
 こちらを招くようにな手の、掌の部分に赤黒い宝石が埋め込まれているのだ。

 なんて綺麗な彫刻だろう。本物の手みたいだわ。

 アンジュッテはそんな感想を浮かべながら手に近づいていく。
 そしてその手を握りしめた。

 ヒヤリとした石の冷たさが肌を伝った瞬間、ぼう……と空気が振動する音がした。

 驚いて周りを見渡すと、アンジュッテを囲い込むようにどす黒い色をした霧が渦巻いていた。

「待って! なんなのよ! この黒い靄!」

 第一王子も自分が知らない現象に巻き込まれるアンジュッテを見て慌て始める。
 これはなんらかの魔術現象だ。
 そこまでは、勤勉な学生であった第一王子にも理解ができた。しかし、それ以上は何もわからない。
 この平和な国で、こんな禍々しい魔術の類は、今までに見たことも聞いたこともなかったのだ。

「なんだこれは! これを知っているものは誰かいないのか!?」

 第一王子の叫び声に応えるような形で、部屋にどしどしと人が入ってきた。
 その中には第一王子の父である王もいた。

「ああ、エンブレンは無事にこの国の贄となりましたかな?」

 王は穏和な笑みを浮かべながら、二人に近づいていく。

「エンブレン? どうして、彼女の名前が……」

 第一王子の戸惑った様子を見て、王は目を瞬かせる。そうして、やっと霧に包まれた女性がエンブレンではなかったことに気がついたのだ。

「ああああ! ……なんてことを……」

 王は大声を上げた。

「父上……陛下!?」

 立派な王として、長年君臨し続けてきた自分の父親が、大声をあげ膝から崩れ落ちる様子を見た

「生贄は、エンブレン嬢はどうした!?」
「生贄……。生贄とはいったい……」

 何も知らぬ第一王子は見たこともない魔術の発現に動揺していた。

「残念ながらアンジュッテ嬢は……この国の不幸を全て受け入れなければなりません」

 王の言葉に顔を歪めたのは、今もなお黒い霧に包まれ続けているアンジュッテだった。

「この国の不幸……? 何よそれっ……って、っ!?」

 よろめいて、そのまましゃがみ込んだアンジュッテは右のこめかみ部分を強くおさえ始めた。

「ちょっと待ってよ! これなんなの!イタイイタイイタイ!」

 アンジュッテがうめきはじめた。それを見て、第一王子は血相を変えた。

「アンジュッテ!?  いったいどうしたんだ!」
「あーーー! あっー!」

 アンジュッテを襲ったのは脳内を端から端まで焼き尽くされるような、とてつもない痛みだった。

 いっそ、死んだ方がマシなのではないかと思ってしまうほどの。

 そうしてアンジュッテは魔術に取り込まれていった。



「エンブレン様、本当にお屋敷をお出になるのですか?」

 そう声をかけたのは家族の輪から外されていたエンブレンにも優しく接してくれていた、侍女だった。生まれ育った屋敷から出るために、荷物を詰めるエンブレンを見て瞳を揺らしている。

 自分の代わりとしてアンジュッテを差し出したエンブレンはもうここにはいられない。

 両親はエンブレンを一生恨むだろう。
 生贄になるために養育したにも拘らず、その責務を果たさなかったのだから。

 そうなることはとうの昔に予測していた。

 だからこそ、エンブレンは今日のために着々と準備を進めていたのだ。

 侍女は用意を進めるエンブレンの手元を見て、涙を流しながら言った。

「エンブレン様がいなくなったら……この家はきっと……」

 滅ぶでしょうね。
 エンブレンと侍女の心は同じことを思っていた。

 そもそも、この家はエンブレンがいることで成り立っている家だったのだ。
 エンブレン以外の家族は、地位や金銭には興味があっても、領地経営や使用人たちの待遇改善には一切の興味を示さなかった。今日まで、リシャーナ家を成り立たせてきたのは、あくまでもエンブレンの功績だったのだ。

 そのエンブレンがこの家を去ったら……。
 すぐ先の未来を想像した侍女は辛そうに目線を足元に下げた。

「人数分の紹介状を渡しておくわ。私の名前になっているから、全てのお屋敷で受け入れられるわけじゃないけれど、私の学友だった、キュー侯爵家やサラムレイン公爵家だった受け入れてくれるはず」

 渡された紹介状を見て、侍女は目を丸くした。

 名前が上がったキュー侯爵家やサラムレイン公爵家は、国の中でも指折りの貴族家であったからだ。

 その二つの家であれば、リシャーナ家よりもかなり高い待遇が約束される。

「十分過ぎます。ありがとうございます私のことにまで気にかけてくださって」
「いいえ。あなた方には最後まで迷惑をかけてしまったもの」

 エンブレンは生まれ育ったリシャーナ家でのあれこれを思い出していた。
 いいことなんて一つもなかったと思っていたけれど、彼女は従者にだけは恵まれていた。

「あなたの幸せを祈っております。エンブレン様」
「ありがとう。私もあなたたちの幸せを祈っているわ」

 生贄になんてならない。私は私の人生を生きていくんだから。

 新しいものを持つことを許されなかった彼女が唯一所有を許された祖母から受け継いだ古びたトランクにはいくつかの宝石と、彼女の人生を支えてきた物語と詩集がしまわれていた。

「私の代わりに、この世の不幸を全て受け入れてくれてありがとう。欲しがりさん」

 そう言い残して、エンブレンは夜の街に溶けるように消えていった。



 海を渡り、砂漠を越えた場所に、とある幸せな国があった。
 その国は長い間、平和な治世が続いたという。

 その裏に王妃の犠牲があるだなんてことは、ごく一部の人間しか知らない。

 きっと多くの人は彼女のような存在がいることも想像もしないまま、幸せに暮らしているのだ。


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