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こんな痛い話をするつもりじゃなかった

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 その日の三時過ぎ。僕はいつもの作家との打ち合わせと同じように、カバンに資料とノートパソコンを詰める。
 が、うまく用意が終わらない。マウスを鞄の外側にあるポケットに入れようとして、うまく入らずに落としてしまったり、うっかり手が滑って、資料をバラバラに床に広げてしまったりと、小さな失態を繰り返してしまっている。

 編集者になって、五年目。僕はもう新人とは言えない立場だ。打ち合わせだって、死ぬほどやったことがあるし、企画の立ち上げだって、もうお手の物だ。

 なのに今日の僕は、初めて打ち合わせに出る新人編集者のように心が泡立つ。
 どうやら僕は緊張してしているようだ。手のひらを見ると手汗で皮膚の表面が少しふやけていた。

 息を長めに吐き、必要な荷物が全て入っているかをもう一度確認する。こういう時に焦るとろくなことがない。
 大丈夫、忘れ物は無い。よし、これでやっと打ち合わせ場所に行けると一歩足を踏み出した時、おい、と編集長に呼びかけられる。

「左内、これから夜墨(よずみ)先生と打ち合わせか?」
「はい」
「前みたいに夜墨先生怒らせるなよ? あの人わりと真っ当なのに、なぜかお前とは相性悪いからなあ」

 真っ当。そうか、先生は真っ当なのか。真っ当。真っ当。その言葉が頭の中を何度もめぐる。じゃあ、真っ当な夜墨先生とうまくやっていけない僕は真っ当じゃないのか。そんなことをうじうじと考えていると、胃液が上がって来て、口の中が酸っぱくなっていく。

「それがわかってて、なんで、僕を夜墨先生の担当にしたんですか」
「うーん。それがふさわしい星周りの時って、あるよなあ」

 ほら見ろ、と言いながら、編集長は書類が山積みになったデスクの上から少し古い雑誌を開いて僕に見せた。あ、これ編集長の奥さんが働いている、OLファッション系の雑誌だ。こういう雑誌の一番後ろにはだいたい星占いのページがあると相場が決まっている。

 占いのページには“そりの合わない人と話してみると、意外な発見があるかも!“とこっちのことなんてさほど、真剣に考えていなさそうな軽いテンションで書かれていた。
 それを見た僕は露骨に顔を歪めてしまった。編集長は、面白いだろう? と言いながら、悪辣な顔で笑っている。
 こう言う人だったな……。この人。
 仕事ができる、と言うことは尊敬しているが、占い師に影響されないでほしいと心の底から思った。

 今日、合わなければいけない作家が嫌なわけではないのだ。彼女は優れた作家であるし、性格が悪すぎるというわけではない(作家らしく少し変わっていたり、偏屈だったりではあるが、それも常識的、と言っていい範囲なのだ)
 __だが彼女は不意にこちらの心臓をついて来るような一言を発する。
 その言葉の刃先は鋭く、僕はいつも心を抉られる。しかし、それはハラスメントの類ではなく、自分自身の至らなさが浮き立ってしまうからこその痛みなのだ。
 誠実で実直な人間は多分、彼女の言葉にちっとも傷ついたりはしないのだろう。
 僕が彼女の言葉に血を流すのは、僕が人間として未熟だという証明に他ならないのだ。

 今日の打ち合わせ場所は編集者の多くが使用する、出版社近くのカフェだった。大体の席と席の間がほどよく空いており居心地がいいことに加え、店の奥には半個室になっている席も完備してあるため、時と場合によってはそちらに移動して長引くような議論をすることもある。そしてなによりコーヒーが美味しい。編集者と作家にとって使い勝手がいい店なのだ。

 店に入ると先生の姿が見える。先生は今日は個室ではなく、カウンター横にあるラタンの一人掛けソファに腰掛けていた。
 黒々と腰まで伸びる長い髪に、切長の瞳の先生は遠くから見てもすぐにどこにいるかわかってしまうくらい迫力がある。

 いつも遅刻をして来ることが多い先生が、まさか先に店内に入ると思っていなくて僕は目を見開いた。
 先生は僕の姿に気づくと眉間に一本、渓谷のように
深いしわを寄せた。よくよく先生の姿を観察すると、足元ではまるで限界まで早いリズムに設定したメトロノームのようなリズミカルな貧乏ゆすりが行われていた。
 今日の先生は、いかにも機嫌が悪そうだった。

 __先生を怒らせたらまずい。

 なんといっても先生はうちのライトノベルレーベルの中で一番の稼ぎ頭なのだから。
 もともと先生はライトノベルを書いていたわけではない。デビューは有名な純文学の新人賞だった。
 デビュー作もそこそこ話題になって、芥川賞の候補にもなっていたと記憶している。しかし2冊目の壁にぶち当たり、そこからスランプに陥ってしまったのだ。

 そんな先生に目をつけたのは、うちの編集長である。

 先生の文章は、純文学らしい陰鬱さを備えながらもキャラクターが生き生きとしているところがいい。このキャラクターをもっとポップに、例えば毒舌なツンデレ少女に置き換えられたならどんなに素晴らしい文章が生まれるだろうと、考えた編集長は先生を口説き落としたのだ。
 最初は乗り気でなかった先生も、編集長の熱意に根負けして、うちのレーベルで小説を書くことになった。

 先生が書いたライトノベルは絶対売れる。そう豪語した、編集長の勘は外れることはなかった。
 先生が書いた『毒舌な先輩の嘘に今日も振り回されています』は、ライトノベルながら緻密に練られたミステリー要素と登場人物の心の動きが多彩で丁寧に描かれていると話題にになり、来月、五冊目が出るくらいの人気シリーズになっていた。

 なかなか本が売れず、シリーズものにならない作品が多い昨今の出版業界で、先生のように人気作を描き続けられる作家は貴重だ。
 僕は他のお客さんの迷惑にならない程度の早歩きで、先生の席へと足を運ぶ。
 先生は僕の顔をじっと見る。夜の路地裏で出くわした黒猫と目があってしまったような緊張感があった。僕の心臓は一瞬、どくどくと大きな音を立てた。
 先生はゆっくりと、右手を上にあげ、僕の顔を指でさし
た。

「後ろ。髪。はねてますよ」
「あ……すみません」

 マフラーを外した時に、上にはねてしまったのだろう。手で何回か撫でると、跳ね上がった髪は落ち着いてくれたようだ。
 だらしないですね、と言われたわけでないことはわかっているのに、責められているような気分になってしまう。
 ただでさえ、嫌な緊張感に飲まれてしまっているのだから、これ以上の失態は犯さないようにと、最新の注意を払いながら、先生と対面する場所にある、ラタンソファに腰掛ける。すると椅子に思ったより、弾力があって跳ね返ってしまう。

 以前座った時の感覚とは違う跳ね返りがあったことに小さく動揺すると、先生は魔女みたいにクスリと笑った。

「ここ、最近椅子が変わったみたいなんですよね。前はもっと沈むタイプの椅子でしたけど」
「ははは……。そうみたいですね」

 夜墨先生の前だと、僕はちっともカッコつけられないな。
 気持ちを切り替えるように、気づかれないくらい小さなため息をついた。

「先生、今日はハーブティーなんですね。珍しい」
 いつも先生は打ち合わせの時にコーヒーを頼む。ここの本日のコーヒーのセンスを好んでいるらしく、毎回毎回本日のコーヒーばかりを頼むのだ。
「あー……。今日、生理になっちゃったんで、コーヒー飲むと痛みがひどくって。本当は飲みたいんですけど、渋々ハーブティーなんですよ」

 __生理。
 まだ若いお嬢さんである先生の口から、センシティブな言葉が出てきたことに驚き、言葉を飲み込む。ただの世間話をしようとしたのだが、ハラスメントまがいなことをしてしまったようだ。

「すみません。言いにくいことを言っちゃって……」
「言いにくい? どこが? 生理ってそんなに隠さなくちゃいけないことですかね?」
「人によっては言いにくいかもしれませんよ。うちの家内なんかは、ひた隠しにしますから」

 その言葉を口にしてふと僕は妻の顔が頭に浮かんだ。そういえば今日妻は生理だった気がする。本人がそうだと申告したわけではないが、一緒に暮らしていれば、いやでもリズムに気がついてしまう。
 出勤前に重い体をひきづるようにして朝食を用意していた妻の顔を思い出す。
 血の気が引いて、白い顔をしながら、味噌汁をよそっていた。

 結婚して一年半。一緒に暮らし始めてから、初めて妻のそれが重いということを知った。しかし、彼女はその辛さを口には決して出さなかった。どんなに顔が青白くなっても、黙々と家事をこなしていた。

 そんなにしんどいなら、僕に言えばいいのに、と思うがそれができないのが彼女の資質なのだろう。

「左内さんの伴侶は奥ゆかしい方なんですね。私だったら、表に出さないなんて死んでも無理ですもん。私にとって生理はぎっくり腰と同列の扱いなんだけど。左内さん、ぎっくり腰になったら人に言うでしょ?」

 ぎっくり腰と同じ並べ方をするものだろうか、そんな不可解さが一瞬頭に残る。

「……いいますね」
「でしょう?」

 夜墨先生は、骨ばんだ細い指先を優雅に動かしながらハーブティーのソーサーに乗っていたティースプーンでお茶に波紋を描いた。

「多分、今日私は体調が悪いから、ちょっとイライラしちゃったりするかもしれない、それを事前に言っておけば、議論が白熱して、言葉が荒くなっても、今日はそう言う日なんだな、って思えて、お互いに心に余裕が出るでしょ。配慮してもらわないと、とってもじゃないけど痛くてやっていけないですもん。ぎっくり腰も、生理痛も」

 夜墨先生は大学卒業後、すぐに作家になったから普通の社会人生活、というものに疎いのかもしれない。僕は親切のつもりで、苦言を呈した。

「なるほど。合理的な判断ですね。でも、一般的にはそれは隠すものだ。今回は僕がなんでもネタにできる担当編集者だったからよかったかもしれませんけど、あんまり人前でそういうこと、言わない方がいいと思いますよ?」

 先生は僕の言葉を予想していなかったのか、いつもは横に長い切長な瞳を、縦に大きく開かせ、ぱちぱちと瞬きを見せた。

「合理的じゃないのに?」
「まあ……そうかもしれないですけど。でも、生理は病気じゃないから、痛くてもそれを表に出したくない人もいますよね」

 周りの目が気になって小声で話したのに、先生はそれが気に食わなかったようで、キンと響く声で語り始める。

「え? 病気ですよ? 生理自体は病気じゃないけど、生理痛が生活に支障がでるようだったら、それは月経困難症という立派な病気です」

 あ、まずい。これはヒートアップする。夜墨先生が「今日は機嫌が悪いです」と自己申告してきたのに、油を注いでしまった。これじゃ、僕の方が社会人失格だ。そう頭の奥の方ではわかっているのに、僕の心はこのディベートに勝ちたいと思ってしまっている。
 僕の方が正しい、そう結論付けてこの話題を結論付けたかった。


 この話をしているのは夜墨先生のはずなのに、なぜか妻のことを話しているかのような錯覚に陥ってしまう。
 僕が妻にしてきた、気が付かないふりをする、という配慮は正しかったはずだ。それを証明したかったのかもしれない。愚かな僕は負け戦にもかかわらず、轟々と燃える先生の怒りに追加で火をくべる。

「でも、よく知らないですけど……薬とかでどうにかなるもんなんじゃないですか」

 朝、冷蔵庫の扉から市販の鎮痛剤を取り出し、僕の視線に入らないような角度で、口に入れた妻の姿が明確に思い出された。
 ようは、あれでいいんだ。あれが対処方なんだから、それ以上のことはできないのだ、という言い訳をさせてもらいたい。

「鎮痛剤でどうにかなる人もいますけど、どうにもならない人もいますよ。あと、ピル飲めば改善するって言う人もいますけど……。人によって偏頭痛持ちだったりすると、血栓ができやすくなるのでドクターストップがかかることもありますよね」
「随分と詳しいですね……」
「当事者ですから」

 知らない世界だ。僕には縁の遠い世界。

「世の中の女性はそうやって自分に折り合いをつけてなんとか生きているんでしょうね」
「左内さんはそれにより寄り添うタイプではないんですね」

 先生は僕の顔をじっと見てから全てを見透かしたように、涼しい顔でハーブティーに口をつけた。
 ああ、この人は奥さんとそういう人間関係を築いているんだな、という副音声が今にも聞こえそうだった。

 僕はタジタジになりながら、自分の存在よ、薄くなれ、と体に命じた。

 最近、妻となんだかすれ違っている気がしていたのに僕は気が付いていた。お互いにお互いを尊重している、ということにして、相手の陣地に踏み込むのを避けるようになったのはいつからだろう。いつからか、妻も自分も痛みを共有するのを避けるようになった。
 誰かと向き合うためには相手の痛みも、自分の痛みも許容しなければならないのに。

「まあでも、左内さんみたいな考えの人が世間一般なんだろうな……。勉強になるわあ」

 先生はあくまでも独り言です、という態度でぶつぶつと呟く。なのに、僕は勝手に嫌味を言われたみたいに受け取ってしまって、痛い。痛い。痛い。

 針でチクチク刺されているみたいな気分になる。
 これで先生が人気作家じゃなかったら、社会に出立ての小娘の言うことだ、まだまだ青いこと言ってんな、とねじ伏せることだってできるのだろう。しかし、先生はレーベルの稼ぎ柱だ。変に気を削いで、もうおたくとは書きません、と言うことになったら、ことなのだ。

 先生は僕の言葉を反芻しながら、宙に舞う埃を見つめるように、空間のある一点を見つめていた。
 こう言う時の夜墨先生は決まって、本のストーリー展開を練っているのだ。
 一見関係なく見える言葉の切れ端から、彼女は物語に必要なヒントを集め、縫い合わせて、大きな風呂敷へと作り上げていく。

 今日はきっと僕の行動や言動から、僕と妻の不和を感じ取ってストーリーに仕立て上げているに違いない。

 彼女の脳みその中がどうなっているかなんて僕には想像もつかない。が、きっとその思考は僕なんかと比べ物にならないくらい柔らかく、様々なのことを様々な角度から受け入れられるに違いない。
 若いってそれだけで財産だよな。そこに僕はもう戻れない。
 ぼーっと、夜墨先生の顔を見ていた。先生は何かが思い付いたのか、薄く光るまつげをパチパチと上下に動かした。

「……ああ、わかった。多分物語上の“先輩”はそう言うことに潜在的な苛立ちを感じているのかもしれない。先輩、父子家庭で結構だらしない父親を面倒見ている設定じゃないですか? そう言うのもあって主人公に、冷たくしちゃうっていう流れを少し多めに話に組み込むのはどうですかね」
「……すごくいいと思います」

 彼女は今日も、素晴らしいストーリーを生み出したようだ。
 それはあくまでも物語の中のことのはずなのに、僕と僕の妻のことを指差して語っているように聞こえてしまう。
 そう言うところが、彼女が世間に評価されているのだろう。

「あの……。あんまりこういうこと言うのはよくないな、と思うんですけど……」
 躊躇するように眉を下げた夜墨先生は尖らせた口をゆっくりと開いた。
「左内さんが奥様の痛みを少しでも気にしているなら、あったかいカフェインレスの飲み物とか、カイロとか、痛みが和らぐものを買っていくと、話のきっかけになるかもしれませんよ」

 __痛い……。クリーンヒットだ。
 きっとこの僅かな話の中で、夜墨先生は僕と妻のぎこちなさに気づき解決策まで提示してみせた。完敗だ。完全に負け。

 今日も勝てなかったという悔しさで僕の心はジクジクと痛んだ。

 先生に会うと、自分の人間性が、半ば強引に矯正されてしまう。

 帰宅中、いつもは真っ直ぐ帰ることがほとんどだが、今日は自宅マンション近くのコンビニに寄った。先生の助言を生かすために。
 今日の先生と打ち合わせをしなかったら、僕は帰り道にコンビニでカイロとホットレモンのドリンクを買うなんてことはしなかっただろう。

 正しさと他者への気遣いを年下の人間に、教えられるのはひどく恥ずかしいことのような気がする。
 少しずつ凝り固まり始めた僕の思考の隙間に侵入して、内側から粉々にして、何食わぬ顔で帰っていく先生のことを、僕は心から好きになれない。今まで正しいと思っていた価値観を破壊されて、土足で歩かれるのは精神的にしんどい。しかし、その痛みから目を逸らし続けていたら永遠に僕は変わることはできずに、なりたくなかったものになってしまうのだ。

 多分、僕は頭の硬いクソ親父になりかけているのだ。
 少しでも昨日の自分よりも成長しなくてはならない。僕はこの痛みを大人の成長痛だと思って割り切り受け入れることにした。

 手に下げられたビニール袋を見て、はあ、とため息をつく。僕は妻とうまく話し合えるだろうか。この話題を触れられたくなさそうな妻にとっても話し合いの内容は痛いに違いない。
 掛け違えたボタンを直すなら、今しかない。
 星が光る住宅街の道を抜けて、妻が待つマンションまでつづくアスファルトの道を踏みしめていった。

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