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02 予兆

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「なんだ、また真昼間から読書か?随分勉強熱心だな」
「いいだろ?好きなんだから」
「せっかくいい天気なんだから、外行くぞ」
「ああもう、引っ張るなよ。わかったから」

自宅で読書に耽っていた僕の手を引き、外へと連れだしたのは、見知った顔の少年。
名はベリル。
自分とは正反対に活発な彼だったが、僕らはいつも一緒だった。
美しい夜空の星々を見上げたり、雨上がりに虹の果てを探しに行ったり――半ば強引にとはいえ、彼はよく、本を読んだだけでは体験できない世界を見せてくれた。
時には二人して怒られることもあったけれど、僕らはそれでも幸せだった。
そうそう、こんなこともあったっけ――

「おーい、こっちだ!」
「ベリル、ちょっと、待って……っ」
「だらしない奴め、日ごろ運動しないからだ」
ぜぃぜぃと息を切らす僕に、少し先から文句を言うベリル。
僕らはその日、村の近くにある山に入り、奥へ奥へと進んでいた。
もちろん、言いだしたのは彼。言ってしまえば、探検ごっこだ。

「もう帰ろうよ、そろそろ夕方だしさ」
木々の間から差し込む光は、すでに白から橙に変わって久しい。じきに、月が昇るだろう。僕は危険を避けるために、そう提案した。

「いや、まだいける」
「それ、根拠あるの?」
「感覚だ」
「……それは頼りになるよ」
ささやかな皮肉を交えて返す僕をみつめて、にぃっと笑うベリル。
多分、僕の言葉の意図を理解した上での反応だ。
それに、彼は子供ながら大人にも負けないほど、強くたくましい――天性の戦いのセンスは、彼の自身の源だった。
どうやら、今日はまだ帰れそうにない。心の中でため息を漏らした、そんな時。

「ベリル、何か今聞こえなかった?」
「ああ、聞こえた」

僕らは同時に、ガサガサという音を耳にした。それは動物が動く音にしては、あまりにも大きい。緊張感が二人に走り、辺りを見回す。

「危ないっ!」
先に叫んだのは僕だった。木々の間から飛び出した黒く大きな影を、左右に分かれて何とかかわす。
僕らの背後にあった木が倒れる音を聞き、素早く振り向く。そこには――

「キラーベア……!!」

巨大な鉤爪を持つ熊のごときモンスター、キラーベアが立っていた。
グルルル、と唸りをあげて僕らを見据えるその姿に、背筋が凍り付く。
鋭い眼光が交互に二人を見つめる。まるで品定めだ。「どちらから先に味わおうか」――なんてことを考えているのだろう。冗談じゃない。

「ハジメっ!」
一瞬の静寂ののちに、ベリルが叫んだ。野獣がその矛先を向けたのは、僕だったのだ。
僕ははっと我に返り、身をかがめる。すぐに空気を裂く音が、頭上で聞こえた。

「ほらっ、こっちだ!」
直後、ベリルが適当な小石をキラーベアへと投げつけた。彼は手を打ち鳴らし、自身の存在を主張する。それは野獣の怒りを焚きつけるには十分だった。僕に背を向け、今度は彼のもとへと駆けてゆく。
「おっと!」
振るわれる一撃を、巧みな体さばきで回避するベリル。
「今のうちに逃げろ!後で追いつく!」
「でも!」
「どのみちお前を庇いながらじゃ共倒れだ!行け!」
「……っ、絶対だぞ!」
まったく歯に布着せぬ物言いだったが、この状況ではそれが最善だった。僕は彼を信じ、一目散にその場を後にした――



あいつを逃がして数分。俺はいまだ、キラーベアに追われていた。
木々が密集したここでは、一見奴を撒きやすいように思える――だが、実際は反対だ。
奴はそれをなぎ倒しながら強引に突き進んでくる。下手に立ち止まれば、倒木に足を取られる危険性のほうが大きかった。
ならどうするか。俺のたどり着いた結論は――

「よし、ここなら」
広い場所へおびき出し、迎え撃つこと。木々を抜けて川岸に飛び出した俺は、護身用の短剣を手に取り、逆手で構えた。
「グルルルル……」
奴もまた、遅れてやってくる。多少は疲れているのか、立ち止まって呼吸を整えていた。
まだだ。まだ仕掛けはしない。下手に焦れば一巻の終わりだ。じっと奴を見据え、すり足でゆっくり動く。
そして数秒ののち。奴は跳躍、俺に向かって飛び込んできた。
奴は人間ではなく、獣だ。格闘戦で勝てる見込みはほぼないと言っていい。
ならばとるべき方法は一つ。俺は横跳びをしてぎりぎりのところで回避すると――

「これでも喰らえ!」
四つん這いになった背中めがけて、短剣を力いっぱい突き刺した。そして手を離すと、すぐさま踵を返す――そう、一撃離脱だ。
獲物を失うのは痛いが、仕方ない。それで動きが止まるなら万々歳だ。
だが最後の最後で、少し計算が狂った。

「ぐっ!?」
苦しみもがいて暴れる奴の腕が、俺を大きく吹き飛ばしたのだ。爪の部分ではなかったため、大事には至らなかったのが幸いか。
俺はすぐに立ち上がると痛みをこらえつつ、ひたすらに駆け出した――



「ハッ……ハッ……!」
もう数十分は走っていただろうか。すっかり体力が切れてしまった僕は、大きな木の側に座り込んでいた。
肩で息をしながら、辺りを見回す。フクロウの声だけが鳴り響く夜の静寂が、ひとまずの安心感を与えてくれた。どうやら、僕はなんとか撒けたらしい。
しかし、そんなのは束の間のこと。すぐに不安が僕を包む。
「ベリル……大丈夫かな」
友の名をつぶやき、膝を抱えた。

「よう」
「うわっ!?」
そんな僕の肩を叩いたのは、その友だった。思わず座ったまま後ずさってしまう。

「なんだ、幽霊でも見たか?」
目をぱちくりとさせる僕に、軽い口調で問いかける彼。
「まったく、ほんと無茶するよ君は」
そんな彼の様子に、一つため息を返してから、僕は彼の胸元を小突いた。
「ふっ、まぁな」
「褒めてないっての。……とにかく、無事でよかったよ」
「お前もな」
互いに笑顔をかわし、僕らは帰路に就く。あと少し山を下れば、村は目と鼻の先だ。
かなり大目玉だろうな――そんなことを考えつつ、僕らは歩き始めた。



「うっ……」
「ベリル!?」
あと少しで山を出られる――そんな時のこと。彼が突然胸を抑え、地面に膝をついた。
その顔を覗き込むと、額からはおびただしい量の汗が流れ落ちている。

「まさか、ケガしたのか!?」
「気にするな、大丈夫だ……」
強がる彼だったが、肩で息をするその姿から、かなり無理をしているのは明らかだった。
「だめだ、少し休もう」
僕は彼を近くの木の側へ連れてゆく。彼は一瞬抵抗したものの、すぐにおとなしく座り込んだ。
直後。そんな僕らに追い打ちをかけるかのごとく、悲劇は連鎖した。

「グオォォォ―ッ!」
立ち塞ぐ木々をなぎ倒し、それは迫りくる。
咆哮を上げながら、再び野獣は。キラーベアは、僕らの前に姿を現したのだ――!



くそっ、足手まといになったのは、俺の方じゃねぇか――
悔しさ。そして怒り。朦朧とする意識の中、そんな思いが頭の中を駆け巡る。
目の前には腹を空かしたモンスター。対するこちらは、ケガ人一人、本の虫な弱虫一人――まさに絶体絶命だ。

「終わりかよ、こんなところで……!」
大人にだって負けないほど、俺は強い――そう思っていた、いや実際そうだった。けれど、あまりにもうぬぼれが過ぎた。そのせいでこのザマだ。弱音が口をついて出る。
どうしたものか、と必死に頭を回す中。ハジメが動いた。
俺と奴との間に割って入り、立ちふさがる。

「ベリルに、僕の友達に……これ以上手を出させるもんか……っ」
やめろ、やめろ――膝が笑ってるじゃないか。逃げるんだ。頼む。
だが、あいつは逃げようとしない。震えをこらえ、じっとキラーベアを睨むばかり。
そして飛び掛かる野獣。俺は半ば懇願するかの如く、声を張り上げた。
「逃げろハジメーーっ!」

「逃げるもんか!僕にだって、勇気ならある!うわあぁぁぁぁーっ!」
あいつが叫んだ、その瞬間。小さな光がその胸の中心で光った。
それはたちまち大きくなって、辺りを包んだ。
「うっ!?」
俺は直視できないほどの光量に顔を背ける。そして、次に顔をアイツの方へ向けたとき――

「なっ……!?」
キラーベアの姿は、どこにもなかった。いや、正確には奴だけでなく――『ハジメの前方直線上にあったすべてが消えていた』のだ。
木々は綺麗に消し飛び、地面はえぐれ。凄まじい破壊の跡だけが、そこに残っていた。
「お前、いったい何を――」そこまで俺が言いかけた時。

「よかっ、た……」
その一言を口にし、ハジメが倒れ込んだ。俺は痛みも忘れ、立ち上がって側へ駆け寄る。
体を抱え上げると、その胸はわずかに上下していた――どうやら、眠ってしまっただけらしい。
ふぅ、と安堵の声を漏らすと同時に、俺の体からも一気に力が抜けた。
「あー、ダメだ、わけ、わかんねぇ……」
そしてそのまま、俺も意識を手放した――
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