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三十四 求婚
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煮売りの居店、万屋万八は今日も繁盛していた。
看板娘のふくが出掛けていて、昼時に人手が足りないので、てんてこ舞いである。ふくに会うことを目当てにくる客も多く、
「今日は、ふくちゃんはどうしたんだい?」
と、尋ねてくる者へ返事をするのにも手を取られる。おたけは、真剣に人を雇うことを考え始めた。
ふくだって、いつかは嫁に行くんだし。
跡取りの万太郎に嫁が来てくれればよいのだが、どうにも女っ気がない。最近は任せられる仕事が増えてきた、と万八が嬉しそうに打ち明けてくれたから、そろそろ真剣に見合いの算段をつけなければなるまい。
おたけは、ふくの婿が料理人なら?とも考えて、頭を振った。
思い浮かぶのは、ひょろりと背の高い絵師の男。うちの店では何の役にも立ちそうにない。何せふくが居なければ、食事も忘れてしまうような男だ。
まったく。早く帰ってきてくれないかね。
顔は笑顔のまま、心のうちで盛大に愚痴ったのが届いたのか、
「ただいま!」
「ただいま戻りました」
息を切らしたふくと、役に立たない男が店へと入ってきた。
何で、あんたもただいまって言うんだい?と笑いそうになりながら、おかえり!と明るく言う。
客が幾人も嬉しそうに顔を上げるのが見えた。
「ふくちゃん、どこに行ってたんだ?」
「心配したよ」
あちこちから上がる声に、いつもの笑顔を振りまいて、ふくは手を洗いに奥へと引っ込んだ。そのあとは、朝のしょぼくれた様子は何だったのかという八面六臂の動きで、客をさばいていく。
「やっぱりこの店は、おふくちゃんがいないといけないねえ」
「ばか言ってんじゃねえ。俺がいないといけねえ、の間違いだろ」
「わはは。違えねえ」
店の主人と客との軽口も戻り、今日もたくさんの客が満腹で仕事に戻っていった。
昼が過ぎると途端に静かになる店内で、大人しく座っていた遊斎が動き出す。
「あの。お疲れ様です。今日は、いえ、今日も、ご迷惑をお掛けして誠に申し訳ございませんでした」
厨房に向かって律儀に頭を下げる様子を、やっぱり良い子ではあるんだよねえ、とおたけは見守った。
「えれえ迷惑だよ。お前はもう二度とうちに来んな」
余り物でまかないを作りながら、万八が言う。
「え。遊斎さんが来なかったら、私また、捜しに行ってしまうけど?」
「もう来ないと約束したら、それで縁切りだ。もう気にかけるこたあねえ」
「縁切りなんてしないよ。遊斎さんが店に来れなくなれば、私が会いにいくけど?」
「は?」
「だから。もしお父っつあんが遊斎さんに店に来んなって言って、遊斎さんが店に来れなくなったら、私が料理を届けに行くしかないでしょって言ってるの!」
「何でふくが、料理を届けなきゃならねえんだ?」
「気にかかるからに決まってるでしょ。遊斎さんが飯時にうちにいなかったら、仕事が手につかないわ!」
「お、お、お前、まさか!」
「そうよ、私……」
「あの!俺は、おふくちゃんのことが好きです!」
ふくが何か言いさしたところで、遊斎が叫ぶように言った。まかないを作る手を止めた万八が、厨房からずんずんと出てくる。作りかけの鍋は、万太郎が素早く受け取って続きの作業を始めた。
「そうかそうか。ふくは魅力的だからなあ。好きになるのも仕方ねえ。そんな輩はごまんといるんだ。だが、俺に面と向かって言ったのはお前が初めてだよ。褒めてやる。そして、お断りだ。甲斐性無しに大事な娘をやってたまるか!」
万八は、いきなり遊斎の首もとを引っ付かんで早口で告げる。体の大きな万八が険しい顔で捲し立てるのは、なかなかの恐怖だろう。
「帰れ!」
「あ、いえ。あの、稼ぎならちゃんとあります。ふくちゃんを嫁にください」
このひょろりとした絵師は、私の想像より男気があったらしい、とおたけはびっくりした。
遊斎は、しっかりと万八を見ながら、はっきりとふくへの思いを口にしたのだ。
看板娘のふくが出掛けていて、昼時に人手が足りないので、てんてこ舞いである。ふくに会うことを目当てにくる客も多く、
「今日は、ふくちゃんはどうしたんだい?」
と、尋ねてくる者へ返事をするのにも手を取られる。おたけは、真剣に人を雇うことを考え始めた。
ふくだって、いつかは嫁に行くんだし。
跡取りの万太郎に嫁が来てくれればよいのだが、どうにも女っ気がない。最近は任せられる仕事が増えてきた、と万八が嬉しそうに打ち明けてくれたから、そろそろ真剣に見合いの算段をつけなければなるまい。
おたけは、ふくの婿が料理人なら?とも考えて、頭を振った。
思い浮かぶのは、ひょろりと背の高い絵師の男。うちの店では何の役にも立ちそうにない。何せふくが居なければ、食事も忘れてしまうような男だ。
まったく。早く帰ってきてくれないかね。
顔は笑顔のまま、心のうちで盛大に愚痴ったのが届いたのか、
「ただいま!」
「ただいま戻りました」
息を切らしたふくと、役に立たない男が店へと入ってきた。
何で、あんたもただいまって言うんだい?と笑いそうになりながら、おかえり!と明るく言う。
客が幾人も嬉しそうに顔を上げるのが見えた。
「ふくちゃん、どこに行ってたんだ?」
「心配したよ」
あちこちから上がる声に、いつもの笑顔を振りまいて、ふくは手を洗いに奥へと引っ込んだ。そのあとは、朝のしょぼくれた様子は何だったのかという八面六臂の動きで、客をさばいていく。
「やっぱりこの店は、おふくちゃんがいないといけないねえ」
「ばか言ってんじゃねえ。俺がいないといけねえ、の間違いだろ」
「わはは。違えねえ」
店の主人と客との軽口も戻り、今日もたくさんの客が満腹で仕事に戻っていった。
昼が過ぎると途端に静かになる店内で、大人しく座っていた遊斎が動き出す。
「あの。お疲れ様です。今日は、いえ、今日も、ご迷惑をお掛けして誠に申し訳ございませんでした」
厨房に向かって律儀に頭を下げる様子を、やっぱり良い子ではあるんだよねえ、とおたけは見守った。
「えれえ迷惑だよ。お前はもう二度とうちに来んな」
余り物でまかないを作りながら、万八が言う。
「え。遊斎さんが来なかったら、私また、捜しに行ってしまうけど?」
「もう来ないと約束したら、それで縁切りだ。もう気にかけるこたあねえ」
「縁切りなんてしないよ。遊斎さんが店に来れなくなれば、私が会いにいくけど?」
「は?」
「だから。もしお父っつあんが遊斎さんに店に来んなって言って、遊斎さんが店に来れなくなったら、私が料理を届けに行くしかないでしょって言ってるの!」
「何でふくが、料理を届けなきゃならねえんだ?」
「気にかかるからに決まってるでしょ。遊斎さんが飯時にうちにいなかったら、仕事が手につかないわ!」
「お、お、お前、まさか!」
「そうよ、私……」
「あの!俺は、おふくちゃんのことが好きです!」
ふくが何か言いさしたところで、遊斎が叫ぶように言った。まかないを作る手を止めた万八が、厨房からずんずんと出てくる。作りかけの鍋は、万太郎が素早く受け取って続きの作業を始めた。
「そうかそうか。ふくは魅力的だからなあ。好きになるのも仕方ねえ。そんな輩はごまんといるんだ。だが、俺に面と向かって言ったのはお前が初めてだよ。褒めてやる。そして、お断りだ。甲斐性無しに大事な娘をやってたまるか!」
万八は、いきなり遊斎の首もとを引っ付かんで早口で告げる。体の大きな万八が険しい顔で捲し立てるのは、なかなかの恐怖だろう。
「帰れ!」
「あ、いえ。あの、稼ぎならちゃんとあります。ふくちゃんを嫁にください」
このひょろりとした絵師は、私の想像より男気があったらしい、とおたけはびっくりした。
遊斎は、しっかりと万八を見ながら、はっきりとふくへの思いを口にしたのだ。
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