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二十七 後朝の別れ
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明け方、ざわざわとした声が聞こえて目を開ける。
「まだ早い。もう少し寝てな」
「師匠?」
宇多麿は、布団の上に座って、まだ暗い廊下に顔を向けていた。
「遊女たちが、夜を共に過ごした客を見送っているんだよ」
「ああ」
こんなに暗い中を、客は帰って行くのだ。一夜の夢を抱えて。
襖の前に、人の気配がした。
「名残惜しいな」
「わっちも」
男の、色に溢れた声が聞こえて、滴るような色気を乗せた女の声が、吐息のように応えた。そのまま、寄り添う二つの影が通りすぎて行く。
この声は。
布団に寝転がったまま、遊斎は息を呑んだ。
宇多麿の表情は見えない。ただ、その二つの影を見送るように首を動かし、気配が消えた後はしばらく、そのまま動かなかった。
「辛く……ないですか?」
思わず呟いてから、はたと口をつぐむ。辛くないわけが無い。もしも、自分の惚れた相手が他の男と夜を過ごしたことを知ったら、と思うと、胸がじくじくと痛むようだ。想像しただけで、それなのだ。だというのに、宇多麿は、現実にそれを見送っている。
今、その姿を。
「太夫は」
いつもと変わらぬ声が答えた。
「仕事に誇りを持っている」
「はい」
「あたしは」
「…………」
「それを後押ししている」
「はい」
「あたしは。誰よりも一番、太夫に惚れてる自信がある」
「はい」
「だから側で、後押しするのよ。誰よりも」
それは、離れているより辛くはないか?
たまに会うだけならば、自分にだけ向く、情に溢れた顔を見ていれば済むのに。
つん、と鼻の奥が痺れてきて、慌てて布団を被る。師匠が泣かないのに、昨日知り合ったばかりの自分が、泣いていいわけがない。
「巧く見送りを終えて、客の心を掴む太夫を、あたしは誇りに思う」
「はい」
遊斎の頭に浮かぶのは、様々な姿を見せる浮雲太夫の浮世絵。浮雲太夫と揚浜屋を一躍有名にし、三人の太夫の中でも一際輝く存在と為した、あの素晴らしい浮世絵たち。
惚れた相手を描くことの楽しさを知ったばかりの遊斎には、宇多麿が揚浜屋を離れられない気持ちも分かる気がした。
毎日、会いたい。色んな顔を見たい。その全てを、この手で……。
この人の選んだ険しい道は、あの素晴らしい浮世絵となって花開いたのだ。全ての感情を閉じ込めて、絵の中の浮雲太夫は笑う。
ああ、おふくちゃんに会いてえな。
心のうちで呟いて、上等な布団を被って寝直した遊斎が再び目を覚ましたのは、遊女たちが遅い朝食をとる時間だった。ぼんやりと起きて支度をしていると、
「遊斎さんを探しているというお客様がいらしとります」
と、声が掛かった。遊斎はその言葉に、ようやく、遊郭に泊まってしまった、と思い至ったのだった。
「まだ早い。もう少し寝てな」
「師匠?」
宇多麿は、布団の上に座って、まだ暗い廊下に顔を向けていた。
「遊女たちが、夜を共に過ごした客を見送っているんだよ」
「ああ」
こんなに暗い中を、客は帰って行くのだ。一夜の夢を抱えて。
襖の前に、人の気配がした。
「名残惜しいな」
「わっちも」
男の、色に溢れた声が聞こえて、滴るような色気を乗せた女の声が、吐息のように応えた。そのまま、寄り添う二つの影が通りすぎて行く。
この声は。
布団に寝転がったまま、遊斎は息を呑んだ。
宇多麿の表情は見えない。ただ、その二つの影を見送るように首を動かし、気配が消えた後はしばらく、そのまま動かなかった。
「辛く……ないですか?」
思わず呟いてから、はたと口をつぐむ。辛くないわけが無い。もしも、自分の惚れた相手が他の男と夜を過ごしたことを知ったら、と思うと、胸がじくじくと痛むようだ。想像しただけで、それなのだ。だというのに、宇多麿は、現実にそれを見送っている。
今、その姿を。
「太夫は」
いつもと変わらぬ声が答えた。
「仕事に誇りを持っている」
「はい」
「あたしは」
「…………」
「それを後押ししている」
「はい」
「あたしは。誰よりも一番、太夫に惚れてる自信がある」
「はい」
「だから側で、後押しするのよ。誰よりも」
それは、離れているより辛くはないか?
たまに会うだけならば、自分にだけ向く、情に溢れた顔を見ていれば済むのに。
つん、と鼻の奥が痺れてきて、慌てて布団を被る。師匠が泣かないのに、昨日知り合ったばかりの自分が、泣いていいわけがない。
「巧く見送りを終えて、客の心を掴む太夫を、あたしは誇りに思う」
「はい」
遊斎の頭に浮かぶのは、様々な姿を見せる浮雲太夫の浮世絵。浮雲太夫と揚浜屋を一躍有名にし、三人の太夫の中でも一際輝く存在と為した、あの素晴らしい浮世絵たち。
惚れた相手を描くことの楽しさを知ったばかりの遊斎には、宇多麿が揚浜屋を離れられない気持ちも分かる気がした。
毎日、会いたい。色んな顔を見たい。その全てを、この手で……。
この人の選んだ険しい道は、あの素晴らしい浮世絵となって花開いたのだ。全ての感情を閉じ込めて、絵の中の浮雲太夫は笑う。
ああ、おふくちゃんに会いてえな。
心のうちで呟いて、上等な布団を被って寝直した遊斎が再び目を覚ましたのは、遊女たちが遅い朝食をとる時間だった。ぼんやりと起きて支度をしていると、
「遊斎さんを探しているというお客様がいらしとります」
と、声が掛かった。遊斎はその言葉に、ようやく、遊郭に泊まってしまった、と思い至ったのだった。
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