【完結】絵師の嫁取り

かずえ

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八 与兵衛長屋の事情 その二

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 おたなと与兵衛長屋を預かる大塚おおつか平政ひらまさは、作次の父、志木しき政景まさかげが幼い頃から側に仕え、政景まさかげが江戸藩邸で暮らしていた頃は江戸で世話をし、藩主となってからは領地で仕事を手伝っていた重鎮である。参勤交代で政景まさかげが留守の間は、領地を守る役職にあった。息子に家督を譲り、悠々自適の生活を考え始めていた折、顔を見たいと藩主に呼び出された。

「元気そうだな、江戸まで供をせい」

 あるじの言葉に、ご冗談を、と返すいとまもなく、江戸屋敷での家臣の大掃除に付き合わされていた。
 政景まさかげが領地に戻った後も、商人の楽隠居のような顔で与兵衛長屋に住んでいる。
 殿に任された若君と婚約者の少女は彼にとても懐いていて、食事を共にと誘われたり、花見や花火見物などの行事にも共に出掛けたりと、思いもよらぬ江戸での隠居生活を満喫していた。もともとの計画とは外れたが、このように楽しい時間が待っているとは、人生分からぬものである、と思う今日この頃。領地の妻にも、もし殿の次の参勤交代の時にお供できるなら、江戸へ是非来てほしいと手紙を出した所である。
 できれば、身内の者で、武士に向いていないと思われる人間がおれば、連れてきてほしい、とも言付けた。
 引退した年寄りの寿命がいつまで持つか分からない。若君と伴侶が、その人生の最後まで心安らかに暮らせるよう、見守る人員を育てておかねばならぬだろう。
 どうせ始めた商売なら、藩の収入になるよう黒字経営を目指したい。
 作次の養父である清兵衛商店の店主、清兵衛に教えを乞うて、なかなかに充実した毎日を送っていた。上屋敷からこちらに手伝いに来る者の中にも、意外な商売の才を見せる者もいて、面白い。
 失敗は、長屋の修理や住人の整理を性急に進めすぎたことである。
 作次の住みかをなるべく安全に、と住人の調査を内々に進め、素行に問題がある者や、借金の多い者を少しずつ追い出した。新しく長屋に入りたい、という者も徹底的に調べている。
 はじめの内は順調であったが、貸し布団の良さや雨漏りの修理が早いことが、あんなにも噂になるとは思いもよらず、気が付いたときには火消しもできないほどに広がっていたのだ。
 長屋に勝手に侵入しようとする者を、店の護衛を増やすことで対応して追い返したが、棒手振ぼてふりなどを追い返すわけにはいかぬ。近隣中の棒手振りがやって来たか、というような騒ぎを経て、以前から来てくれていた商売人達に札を渡し、札の無いものは入れないという決まりを作ってようやく落ち着いた。
 すると次には、住人の独り身の男女に言い寄るやからが増え始めたのである。
 独り身であっても、親と共に住んでいれば、別に住むところを探さなければならない。まだ騒ぎが大きくない頃に夫婦めおととなった長太ちょうたとおすずの二人には空いていた部屋を渡したが、たまたま元から与兵衛長屋住まいの二人であるから話は簡単だった。
 騒ぎの大きくなった今では、与兵衛長屋で暮らしたいだけで言い寄ってくる者ばかりで、言い寄られる本人だけでなく、長屋の者が皆、疲れてきている。
 特に、独り身の一人暮らしである遊斎は、格好の的であった。
 住人、一人一人に護衛を付けるわけにはいかないが、特に狙われている者が出かける時には配慮せねばなるまいな、と平政ひらまさは少し溜め息を吐く。
 若君を守るのではなく、若君の生活を陰ながら守る、というのは何とも難しいことだ。
 
 
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