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一 おかしな常連客
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暖簾を出しながら、ふくは往来を見渡した。煮売りの居店、万屋万八の開店である。
昼の飯時に開けると、店の前で待っている人が居るほどの大混雑となったものだから、朝と昼の間の時刻に店を開けるようにしている。この時刻なら仕事をしている者が多く、すぐに人で溢れかえる心配がない。飯時に食事を取れなかった者がゆっくり食事を取ることもできるため、いつしかこの時刻に開けるようになった。
この半端な時刻にも、常連と呼べるような客がいて、ふくが気にしているのはそのうちの一人である。
もともとは混雑する決まった時刻に、昼も夜もここでご飯を食べて帰る客だった。それほど話す訳では無かったが、覚えるほどにはいつも居た。
それが、ある時から決まった時刻に来なくなり、二日ほど日が開いて、ふらりふらりとやってきたのが混雑していない時刻だったので、思わず声を掛けたのだ。
「お久しぶりですね」
「ああ。うっかりしていて」
ひょろりと痩せていて、背はほどほどに高い。決まった時刻に来ていた頃は、身なりもそれなりに整えていたのに、その日は何だかよれよれとして疲れはてていた。
「うっかり?」
うっかりの意味が分からず尋ね返せば、ふくが置いたお茶を美味しそうに飲みながら、男は頷いた。
「仕事をしていたら、うっかり食事を忘れていた」
それは、食べることが大好きなふくにとって衝撃の言葉だった。
うっかり?
食事を忘れる?
そんなことがあるんだろうか?
とりあえず、食事をさせなくてはいけない、とあっという間に飲み干されたお茶のお代わりを注ぎながら、好みの品を聞いていく。
料理を並べた後も、どうにも気になって、もくもくと食べる男にあれやこれやと話しかけた。
「前は、決まった時刻に来ていましたよね」
「ああ。仕事場が近くて」
「そうでしたか」
「今は、自分の描いた絵だけで食っていけるようになったから、通いの仕事は辞めたんだ」
「そうなんですね」
男は遊斎という絵師だと名乗った。絵の師匠がぽっくり死んで、伝手も何もなくなり、絵の仕事では食っていけずに、茶碗や湯飲みへ絵付けをする仕事をしていたのだという。その仕事場がこの店の近くで、ここで食事を全て済ませていたそうだ。
「住まいは近いんですか?」
「近からず遠からずかな。与兵衛長屋に住んでいる」
遊斎が教えてくれた長屋の名前は、ふくの知らない所だった。確かに、近くでは無いようだ。
では、仕事を辞めて、住まいからは近くないのに、食事のために店へ通ってくれているということか。
その事にすっかり嬉しくなって、遊斎の姿を探す癖がついた。年頃の娘が、気になる若い男の姿を思わず目で追う、といった微笑ましい風情であるが、ふくのそれは、ただただ、食事をうっかり忘れるという男を心配する気持ちだけである。
昼の飯時に開けると、店の前で待っている人が居るほどの大混雑となったものだから、朝と昼の間の時刻に店を開けるようにしている。この時刻なら仕事をしている者が多く、すぐに人で溢れかえる心配がない。飯時に食事を取れなかった者がゆっくり食事を取ることもできるため、いつしかこの時刻に開けるようになった。
この半端な時刻にも、常連と呼べるような客がいて、ふくが気にしているのはそのうちの一人である。
もともとは混雑する決まった時刻に、昼も夜もここでご飯を食べて帰る客だった。それほど話す訳では無かったが、覚えるほどにはいつも居た。
それが、ある時から決まった時刻に来なくなり、二日ほど日が開いて、ふらりふらりとやってきたのが混雑していない時刻だったので、思わず声を掛けたのだ。
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「うっかり?」
うっかりの意味が分からず尋ね返せば、ふくが置いたお茶を美味しそうに飲みながら、男は頷いた。
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うっかり?
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