【完結】ふたり暮らし

かずえ

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壱 空腹

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 おみつは、曇り空を見上げて、急がなくちゃなあ、と溜め息を吐いた。
 頼まれていた縫い物を、馴染みの店に届けた帰り道である。よわいとおのおみつには、なかなかの距離だった。住んでいる長屋までは、もう少し時間がかかる。品物は届けたけれど、次の仕事の布地を預かっている。雨が降って濡れると、乾かすところから作業しなくてはならず面倒である。
 本当は、蕎麦でも食べて帰ろうかと思っていたけれど……。
 道ばたに居並ぶ屋台を見ながら、久しぶりに空腹を感じた。
 十日前に、母が亡くなった。ほっそりとした人であったが、縫い物の仕事でしっかりと稼ぎ、おみつとの二人暮らしを楽しんでいた。物心ついたときには父はいなかったので、おみつはずうっと母と二人暮らしだった。
 おみつが寺子屋に行っていた間に出かけていて、転んだと聞いた。軽く見ていた傷に悪いものでも入り込んだのか、急に具合が悪くなって、あれよあれよと言う間に寝込んでしまい、一月ひとつき経つ頃に、ぽっくり逝ってしまった。
 ちょうど、お隣の留吉とおとみの夫婦が、昨年亡くした息子の初盆で忙しかったのも、運が悪かった。呆然としているおみつをおとみが見つけてくれたときには、おみつの母は呼吸が止まっていたのだ。
 その後、長屋の者総出で葬儀をしてくれて、あれやこれやと世話を焼いてくれた。おみつが、夢かうつつかと思っている間に母の遺体は片付けられて、位牌とおこつになって部屋の隅に置かれていたのだ。
 うちへおいで、と言ってくれる留吉とおとみへ断りを入れ、一人で必死で、母の仕事の残りを片付けた。縫い物の腕は母譲りで、大体の技は仕込まれているし、しょっちゅう手伝っていたのでやり方は分かっている。
 もしも、品物の出来上がりが悪かったら、店の方で気付いて給金が引かれるだけだろう、と届けてみれば、いつも通りに受け取ってもらえて、次の仕事の依頼もされた。
 母の手伝いで届けたと思われたのか、ひとりで偉いねえ、とお駄賃までつけてくれたのだ。子どもが縫っているとなると、足元を見られるかもしれないので、おみつは曖昧に笑って、頷いて、いつも通りに店を出た。
 また、よろしくお願いします、と言って。
 そうして、ほっとして歩いてみれば、久しぶりに空腹を感じたのである。
 世話焼きのおとみから届く握り飯を何とか口にしていたが、大して味は感じなかった。食べないとおとみに叱られるから食べていただけである。しかし今、空腹を感じている。
 母と二人で、届け物の帰りによく蕎麦を食べた。

『おみつがとおになったら、お寿司も天ぷらも食べようねえ』
『何でとおになってからなの?』
『なま物や揚げ物は、小さい子どもの体に良くないって聞くからね。もう少し大きくなってからがいいかと思って』

 母と交わした会話を思い出すと、自然と涙がこぼれた。
 まだ、お寿司も天ぷらも二人で食べていないのに。
 良い匂いの中を、空腹を抱えて歩きながら、おみつは涙を拭くために少し道の端に寄って立ち止まった。
 

◇◇◇

 長屋→庶民の家。壁一枚で何軒も連なっている。

寺子屋→子どもが読み書きそろばんを習う所。学校。
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