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鞠の章
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もう帰れないのかもしれない、との思いは、意外なことに私を生きやすくしてくれた。今まで張りつめていた何かが緩んで、ほっと息がしやすくなった。
皇子にもそれは、伝わったのだろう。私たちは、すっかり母子のように過ごし始めた。二人の時には、お母さん、と呼ばれても否定せずに返事をして、嬉しそうなみこを抱き締めた。私も、髪を肩口まで切り、手入れが楽なことにすっかり慣れてしまった。
こちらへ来る前の言葉で話しかけることも、いつしかしなくなった。私が分からない言葉があれば、みこが訳してくれることもあったが、もう、私たちはすっかりこの国の母子だった。
戸籍の無い私たちには、なかなか難しいことだったが、身を寄せていた施設が、子どもが十八歳になれば出なくてはいけない決まりなので、二人で暮らす準備を始めた。
施設の手伝いをして覚えた料理も、何とか食べられる味になった。色々な機器の使い方も覚えた。
小さな部屋を借りて、高校生になったみこと二人で暮らし始めた矢先だった。
買い物に出かけた先で、事故にあった。救急車で病院に運ばれて、手当てを受けたらしい。意識を取り戻すと、泣きそうな顔のみこがいて、手を握ってくれていた。
「足の骨が折れているから、しばらく入院だって。」
みこの説明に、仕事ができなければ、お金も払えないけれど、どうしよう、と真っ青になった。
事故を起こした人が、お金は払ってくれると言うが、休んでいる間に仕事を失ったりしないだろうか。
「少し、のんびりしたらいいって神様が言ってるんじゃない?お母さん、頑張りすぎだから。」
優しいみこは、私の命に別状がなくてよかったと、しみじみ呟いた。
「俺も、高校生になってバイトできるし、心配しなくていいよ。」
高校生の間は、したいことをしたらよい、と言ってあるのに、みこは働くつもり満々なのだ。
素直に、ありがとうと言い、みこがほっと息を吐いた時だった。
ベッド脇の椅子に座っていたみこの足元に、ぽかりと黒い穴が開いた。あっという間に椅子ごと落ちていく。
繋いでいた手が離れる。
ああ、駄目だ。この穴に、見覚えがある。
腕の点滴を引きちぎり、固めてある右足を、吊っていた場所からおろした。激痛に気を失いかけながら、穴に飛び込む。
どうして。
十五年も経って、どうして。
皇子にもそれは、伝わったのだろう。私たちは、すっかり母子のように過ごし始めた。二人の時には、お母さん、と呼ばれても否定せずに返事をして、嬉しそうなみこを抱き締めた。私も、髪を肩口まで切り、手入れが楽なことにすっかり慣れてしまった。
こちらへ来る前の言葉で話しかけることも、いつしかしなくなった。私が分からない言葉があれば、みこが訳してくれることもあったが、もう、私たちはすっかりこの国の母子だった。
戸籍の無い私たちには、なかなか難しいことだったが、身を寄せていた施設が、子どもが十八歳になれば出なくてはいけない決まりなので、二人で暮らす準備を始めた。
施設の手伝いをして覚えた料理も、何とか食べられる味になった。色々な機器の使い方も覚えた。
小さな部屋を借りて、高校生になったみこと二人で暮らし始めた矢先だった。
買い物に出かけた先で、事故にあった。救急車で病院に運ばれて、手当てを受けたらしい。意識を取り戻すと、泣きそうな顔のみこがいて、手を握ってくれていた。
「足の骨が折れているから、しばらく入院だって。」
みこの説明に、仕事ができなければ、お金も払えないけれど、どうしよう、と真っ青になった。
事故を起こした人が、お金は払ってくれると言うが、休んでいる間に仕事を失ったりしないだろうか。
「少し、のんびりしたらいいって神様が言ってるんじゃない?お母さん、頑張りすぎだから。」
優しいみこは、私の命に別状がなくてよかったと、しみじみ呟いた。
「俺も、高校生になってバイトできるし、心配しなくていいよ。」
高校生の間は、したいことをしたらよい、と言ってあるのに、みこは働くつもり満々なのだ。
素直に、ありがとうと言い、みこがほっと息を吐いた時だった。
ベッド脇の椅子に座っていたみこの足元に、ぽかりと黒い穴が開いた。あっという間に椅子ごと落ちていく。
繋いでいた手が離れる。
ああ、駄目だ。この穴に、見覚えがある。
腕の点滴を引きちぎり、固めてある右足を、吊っていた場所からおろした。激痛に気を失いかけながら、穴に飛び込む。
どうして。
十五年も経って、どうして。
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