830 / 1,321
第七章 冠婚葬祭
119 良かったですね……? 椿
しおりを挟む
「梅香。しっかりいたせ」
緋色殿下と護衛が部屋を出て、私と父と母、坂寄だけが残された。荒事の後、惚けたようになっている母へ、父の声がかかる。母は、はっと我に返って髪に手をやった。肩口から、前へとこぼれ落ちる髪は、相変わらずの艶やかさであったけれども。
「あ、あああ。いや。いやあああ!」
肩口から先がすっぱりと無くなったことを確認して、母はようやく悲鳴を上げた。
「これ、梅香。落ち着かんか!」
「あ、あああ。旦那さま。かみ、わたしのかみが」
「首の代わりと仰ったのだ。命あっての物種よ」
「いいえ。いいえ。こんな、こんな……」
ふう、と父が息を吐くのが聞こえる。
「緋色殿下の前で騒がず、良かったわい」
もう、髪の薄くなりかけていた父には大ごとで無かったかもしれぬが、母には命に等しい髪ではないか。それを、そのような……。
母の髪の美しさは、国でも評判であった。真っ直ぐ伸びた黒々とした髪。流石に最近は、白いものも混じる年齢となってきていたけれども、日頃の手入れでしっかりと染めて、評判は落ちぬままやった。母のその髪の美しさも、六車の権勢にひと役買っていたのではないのんか?
九鬼の若様や姫様にもおいそれと買えん香油や手入れの品々は、皆の憧れの的やった。邪魔にならんように括っとっても、同じ品で手入れをしとる私の髪も、よう褒められとった。
没落した、八朔のお家の方々は良いものを使ってはったけれども、殿様の正妻やった奥方が匂いのきついもんを好むから、どうにも趣味の合わん人が多かったらしい。六車の懇意の店の品を教えて欲しい、と言うお人も結構おった。
そんな、六車を代表する髪の毛が、あっさり切られて正気でいられるわけが無い。
私かて。私かてこんな髪で……。
「失礼します。気を失っている方がいると聞いたのですが……」
白衣を着た男が一人、部屋に入ってきた。扉は開け放してあるので、ノックもない。
「あれ?大丈夫そうです?」
「あ、ああ、目を覚ましたようや。緋色殿下の采配であろうか。痛み入る」
「ええ。何ともないなら良かったです。では、俺はこれで」
白衣の医師は、すぐに立ち去っていった。
「緋色殿下は、お噂通りの恐いお方やが、こうしたお心遣いもなされるお方でもあるようや」
父は、感心したように呟く。
診察もせずに去ったのに?
「若様が、ええ関係を築いておられるなら、それでええ。……ほな、帰ろか」
「父上。私は……」
ああ。嫌や。こんな髪で、国に帰らなあかんなんて。
「有無は言わさん。これ以上の勝手は庇いきらん。次こそ、首しか差し出すもんがない」
「…………!」
そんなに。そんなに私が?
「ほなな、坂寄。もう会うこともないやろ。今月の給金は、口座に振り込んどくさかい」
「え?」
「うちの退職の手続きは済ましとく。送って欲しい荷物があれば、梅香が連れて来とる者に伝えとき」
坂寄が退職?
「父上。殿下の言うてた仕事は、期間限定で……」
「そうやな」
父は、ただそう言った。
坂寄は、愕然としとる。
「なんや。なんで帰れる思たんや?」
父は、それだけ言うと母と私の腕を掴んだ。
「今、私の手に持てる精一杯はこんだけや。帰るで」
呆然と引っ張られるままに歩く私の耳に、良かったですね、と女の人の声が聞こえた。
すぐ側に現れた気配は、あっという間に薄れていく。
先ほどの一ノ瀬?才蔵に、小刀を弾かれていた女。
良かった……。
生きていて?
それとも、こうして引く手があること?
帰った先には、辛いことしか無いというのに……。
緋色殿下と護衛が部屋を出て、私と父と母、坂寄だけが残された。荒事の後、惚けたようになっている母へ、父の声がかかる。母は、はっと我に返って髪に手をやった。肩口から、前へとこぼれ落ちる髪は、相変わらずの艶やかさであったけれども。
「あ、あああ。いや。いやあああ!」
肩口から先がすっぱりと無くなったことを確認して、母はようやく悲鳴を上げた。
「これ、梅香。落ち着かんか!」
「あ、あああ。旦那さま。かみ、わたしのかみが」
「首の代わりと仰ったのだ。命あっての物種よ」
「いいえ。いいえ。こんな、こんな……」
ふう、と父が息を吐くのが聞こえる。
「緋色殿下の前で騒がず、良かったわい」
もう、髪の薄くなりかけていた父には大ごとで無かったかもしれぬが、母には命に等しい髪ではないか。それを、そのような……。
母の髪の美しさは、国でも評判であった。真っ直ぐ伸びた黒々とした髪。流石に最近は、白いものも混じる年齢となってきていたけれども、日頃の手入れでしっかりと染めて、評判は落ちぬままやった。母のその髪の美しさも、六車の権勢にひと役買っていたのではないのんか?
九鬼の若様や姫様にもおいそれと買えん香油や手入れの品々は、皆の憧れの的やった。邪魔にならんように括っとっても、同じ品で手入れをしとる私の髪も、よう褒められとった。
没落した、八朔のお家の方々は良いものを使ってはったけれども、殿様の正妻やった奥方が匂いのきついもんを好むから、どうにも趣味の合わん人が多かったらしい。六車の懇意の店の品を教えて欲しい、と言うお人も結構おった。
そんな、六車を代表する髪の毛が、あっさり切られて正気でいられるわけが無い。
私かて。私かてこんな髪で……。
「失礼します。気を失っている方がいると聞いたのですが……」
白衣を着た男が一人、部屋に入ってきた。扉は開け放してあるので、ノックもない。
「あれ?大丈夫そうです?」
「あ、ああ、目を覚ましたようや。緋色殿下の采配であろうか。痛み入る」
「ええ。何ともないなら良かったです。では、俺はこれで」
白衣の医師は、すぐに立ち去っていった。
「緋色殿下は、お噂通りの恐いお方やが、こうしたお心遣いもなされるお方でもあるようや」
父は、感心したように呟く。
診察もせずに去ったのに?
「若様が、ええ関係を築いておられるなら、それでええ。……ほな、帰ろか」
「父上。私は……」
ああ。嫌や。こんな髪で、国に帰らなあかんなんて。
「有無は言わさん。これ以上の勝手は庇いきらん。次こそ、首しか差し出すもんがない」
「…………!」
そんなに。そんなに私が?
「ほなな、坂寄。もう会うこともないやろ。今月の給金は、口座に振り込んどくさかい」
「え?」
「うちの退職の手続きは済ましとく。送って欲しい荷物があれば、梅香が連れて来とる者に伝えとき」
坂寄が退職?
「父上。殿下の言うてた仕事は、期間限定で……」
「そうやな」
父は、ただそう言った。
坂寄は、愕然としとる。
「なんや。なんで帰れる思たんや?」
父は、それだけ言うと母と私の腕を掴んだ。
「今、私の手に持てる精一杯はこんだけや。帰るで」
呆然と引っ張られるままに歩く私の耳に、良かったですね、と女の人の声が聞こえた。
すぐ側に現れた気配は、あっという間に薄れていく。
先ほどの一ノ瀬?才蔵に、小刀を弾かれていた女。
良かった……。
生きていて?
それとも、こうして引く手があること?
帰った先には、辛いことしか無いというのに……。
436
お気に入りに追加
5,083
あなたにおすすめの小説
【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
【完結】最強公爵様に拾われた孤児、俺
福の島
BL
ゴリゴリに前世の記憶がある少年シオンは戸惑う。
目の前にいる男が、この世界最強の公爵様であり、ましてやシオンを養子にしたいとまで言ったのだから。
でも…まぁ…いっか…ご飯美味しいし、風呂は暖かい…
……あれ…?
…やばい…俺めちゃくちゃ公爵様が好きだ…
前置きが長いですがすぐくっつくのでシリアスのシの字もありません。
1万2000字前後です。
攻めのキャラがブレるし若干変態です。
無表情系クール最強公爵様×のんき転生主人公(無自覚美形)
おまけ完結済み
愛されない皇妃~最強の母になります!~
椿蛍
ファンタジー
愛されない皇妃『ユリアナ』
やがて、皇帝に愛される寵妃『クリスティナ』にすべてを奪われる運命にある。
夫も子どもも――そして、皇妃の地位。
最後は嫉妬に狂いクリスティナを殺そうとした罪によって処刑されてしまう。
けれど、そこからが問題だ。
皇帝一家は人々を虐げ、『悪逆皇帝一家』と呼ばれるようになる。
そして、最後は大魔女に悪い皇帝一家が討伐されて終わるのだけど……
皇帝一家を倒した大魔女。
大魔女の私が、皇妃になるなんて、どういうこと!?
※表紙は作成者様からお借りしてます。
※他サイト様に掲載しております。
魔界最強に転生した社畜は、イケメン王子に奪い合われることになりました
タタミ
BL
ブラック企業に務める社畜・佐藤流嘉。
クリスマスも残業確定の非リア人生は、トラックの激突により突然終了する。
死後目覚めると、目の前で見目麗しい天使が微笑んでいた。
「ここは天国ではなく魔界です」
天使に会えたと喜んだのもつかの間、そこは天国などではなく魔法が当たり前にある世界・魔界だと知らされる。そして流嘉は、魔界に君臨する最強の支配者『至上様』に転生していたのだった。
「至上様、私に接吻を」
「あっ。ああ、接吻か……って、接吻!?なんだそれ、まさかキスですか!?」
何が起こっているのかわからないうちに、流嘉の前に現れたのは美しい4人の王子。この4王子にキスをして、結婚相手を選ばなければならないと言われて──!?
美少年に転生したらヤンデレ婚約者が出来ました
SEKISUI
BL
ブラック企業に勤めていたOLが寝てそのまま永眠したら美少年に転生していた
見た目は勝ち組
中身は社畜
斜めな思考の持ち主
なのでもう働くのは嫌なので怠惰に生きようと思う
そんな主人公はやばい公爵令息に目を付けられて翻弄される
転生貧乏貴族は王子様のお気に入り!実はフリだったってわかったのでもう放してください!
音無野ウサギ
BL
ある日僕は前世を思い出した。下級貴族とはいえ王子様のお気に入りとして毎日楽しく過ごしてたのに。前世の記憶が僕のことを駄目だしする。わがまま駄目貴族だなんて気づきたくなかった。王子様が優しくしてくれてたのも実は裏があったなんて気づきたくなかった。品行方正になるぞって思ったのに!
え?王子様なんでそんなに優しくしてくるんですか?ちょっとパーソナルスペース!!
調子に乗ってた貧乏貴族の主人公が慎ましくても確実な幸せを手に入れようとジタバタするお話です。
普段「はい」しか言わない僕は、そばに人がいると怖いのに、元マスターが迫ってきて弄ばれている
迷路を跳ぶ狐
BL
全105話*六月十一日に完結する予定です。
読んでいただき、エールやお気に入り、しおりなど、ありがとうございました(*≧∀≦*)
魔法の名手が生み出した失敗作と言われていた僕の処分は、ある日突然決まった。これから捨てられる城に置き去りにされるらしい。
ずっと前から廃棄処分は決まっていたし、殺されるかと思っていたのに、そうならなかったのはよかったんだけど、なぜか僕を嫌っていたはずのマスターまでその城に残っている。
それだけならよかったんだけど、ずっとついてくる。たまにちょっと怖い。
それだけならよかったんだけど、なんだか距離が近い気がする。
勘弁してほしい。
僕は、この人と話すのが、ものすごく怖いんだ。
十二年付き合った彼氏を人気清純派アイドルに盗られて絶望してたら、幼馴染のポンコツ御曹司に溺愛されたので、奴らを見返してやりたいと思います
塔原 槇
BL
会社員、兎山俊太郎(とやま しゅんたろう)はある日、「やっぱり女の子が好きだわ」と言われ別れを切り出される。彼氏の売れないバンドマン、熊井雄介(くまい ゆうすけ)は人気上昇中の清純派アイドル、桃澤久留美(ももざわ くるみ)と付き合うのだと言う。ショックの中で俊太郎が出社すると、幼馴染の有栖川麗音(ありすがわ れおん)が中途採用で入社してきて……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる