【完結】人形と皇子

かずえ

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第六章 家族と暮らす

32 その感情は  朱実

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緋色ひいろとなる、動物園にいるのね」

 赤璃あかりの言葉に、自分の失態に気付いた。一ノ瀬いちのせからの報告書を、風呂の後で読もうと無造作に夫婦の居間の机の上に置いていた。
 余程、疲れているらしい、と漏れそうになる溜め息をかみ殺す。

「ああ。休暇届が出されていたのをすぐに突き返したんだが、その時にはもう出立してしまっていてね」
「こんなに忙しい時に?」
「ああ。こんなに忙しい時に」

 あれは、緋色ひいろは、自分の気持ちに忠実に生きているように見えて、役割りはきちんと分かっている人間だ。皇子と呼ばれている以上、その役割りを放棄したりはしない。
 助けて欲しいと言えば助けてくれるし、迷惑がかかると分かって逃げ出したりもしない。
 そんなことは、長い付き合いの赤璃あかりにもよく分かっている。だから、こんな時に緋色ひいろがこのような行動を取るとしたら、それは……。

「あなたは私に、説明が必要だと思うの」

 真っ直ぐにこちらを向く赤璃あかりの大きな目の下には薄く隈がある。疲れた顔で、それでもしっかりと背筋を伸ばしてソファに座っている。産後すぐなので、そのまま寝ることができる服装を身に付けているが、だらしなさもなく髪も乱れていない。流石は私の選んだ私の伴侶だと、少しだけ気分が浮上する。
 生まれたての子どもというのは、朝も昼も夜もなく、腹が空けば泣き、おむつが濡れたと泣き、時には理由もなく泣き、とにかく休まる間がない。赤璃あかりの疲れた顔を見ると、出産という大きな仕事を終えたのだから乳母に任せて休めば良いのに、と思ってしまう。なるべく自分で育てたいの、と笑った赤璃あかりは、朱音あかねを自らの側から離さず、律儀に泣き声に付き合って世話をしている。侍女や乳母の手伝いがあるとはいえ、心配になってしまう。
 少量ずつの乳を時間をかけて飲んではうとうととして、幾ばくもしないうちにまた腹が空いたと泣く。赤子というのは、何とも手のかかる生き物だ。世話をする者は、あれが寝ている間に何とか共に寝ておかないと、たちまち寝不足になることは、少し共にいるだけでも分かる。それでも、我が子を乳母に渡さなかった赤璃あかりは、私の睡眠を邪魔しないようにと私の寝室を別に準備させた上に、私の仕事終わりに必ず顔を見せてくれている。
 ありがたいことだが、昨日も今日も、寝ていてくれた方が助かったな。
 そんなことを思いつつ、赤璃あかりの対面に腰を下ろして報告書に目を通した。

「楽しそうね」
「ああ」

 昨夜は緋色ひいろが気に入っている温泉宿に泊まり、今日は朝から動物園で過ごしたらしい。そしてまた、温泉宿へ戻った、と。いったい何泊する気だ?それに、宿というのは当日に連絡して、すぐに泊まれるものなのか?
 自分なら、と頭に過る。
 どんなにお忍びであっても、幾日も前から計画を練り、完全に行き先を決めてその周辺の警備を頼み、連れていく人員を考えて宿を予約し、いない間の手筈を整え……。大変な手間と時間がかかる。お忍びであってもだ。
 だというのにあいつは、思い付きで出かける場所を持っている。友人を誘って、簡単に抜け出してしまう。休暇届一枚で、いない、と騒がれることもなく一日は過ぎた。
 ぎゅう、と胸が痛む心地がする。
 初めて。そう、私は初めてあの身軽な弟のことを。
 羨ましい、と思った。
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