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第五章 それは日々の話
90 お忍びでのお出かけ 緋色
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「ここ、この前、入るのをやめたとこじゃない?」
「ああ、そうだよ。でも、力丸と村次が食べに来て、茶碗蒸しがあるって教えてくれたから、入ってみることにした」
「じゃ、私、茶碗蒸し」
「俺も」
お品書きを見る気のあまりない乙羽と、漢字が多いと読めない成人は、それだけを注文すると、きょろきょろと店内を見回した。並んでから入ったので満席で、店員が忙しく料理を運んだり、空いた席を片付けたりしている。なかなかの値段がするが、よく繁盛しているようだ。
さて、こちらは四人分の食事を注文しなければならない。常陸丸も、今はお品書きに集中している。
「海老フライってのありますよ、殿下。これならかじれるんじゃないですか」
「海老は二人とも好物だし、いいな。フライってのは、コロッケと同じ衣がついてるんだったな」
「確かそうです。それと、豚カツの肉二種類とのセットにして、茶碗蒸し追加で……」
「あ、あ、あ、あの……」
急な上ずった声に、ふと顔を上げると、料理用の白衣を着た男が直立不動で立っている。俺が顔を上げると同時に、弾かれたように包拳礼の姿勢となった。
「この度は、ご来店頂きまして、まことにありがとうございます!当店の店主でございます!こ、このことは、生涯の誉れとして、その」
「殿下は、礼をお受けになりました。もう結構よ」
緊張のあまりか、大きな声で喚き始めた店主の話の隙を突いて、乙羽が柔らかく口を挟む。
「は、は。あの」
「わたくしたちは、あの行列に並んで入ってきたの」
「は、はい。お待たせしてしまい、誠に申し訳」
「違うわ。そうじゃない。一般客として入店した、と言っているのよ。とても繁盛しているようで、素晴らしいわ。これ以上、店員や店内の方々の手を止めることを、殿下もわたくしも望みません。挨拶は、もう受けました。何があっても、決して問題には致しませんので、一般の方々と同じに扱って頂きたいの。ここまで、並んでいる間も、周りの方々は見てみぬふりをしてくださって、とても助かりましたわ。ご店主もそうしてくださることを望みます」
背筋をすっと伸ばして、淡く微笑む顔の美しさに、店主も周りの客も息を呑むのが見えた。
流石、緋見呼叔母上仕込みの淑女の仮面。頼りになることだ。
新聞や大衆紙に、皇族のお忍びの姿を載せることは禁じられているとはいえ、人の口に戸は立てられない。下手に俺が口を開いて、お言葉を貰っただの、目をかけて貰っただのとおかしな解釈を広められては困る。とはいえ、だんまりで立ち去ることもできず、大抵一緒にいる乙羽が代わりに返事をすることになる。
二条家でろくな教育を受けなかったが、泉門院家に保護された後は、叔母上が度々様子を見に来ては、上流階級の立ち居振る舞いを仕込んでいた。たぶん、乙羽を俺の嫁にと考えていたんだろう。血筋は上等、目を引く美貌に、子が為せないだろうことも、皇帝の三男には丁度いい。更に実家との関係が良好ではないとなれば、実家がでしゃばってくる心配もない。条件は最高だ。
あの人は、そういったことに敏いから、すぐに目を付けたのだろう。父上より余程、皇帝の器だな。
乙羽が常陸丸しか見ていないことに気付いて、俺達には何も言わずに済ませてくれた所まで含めて、感謝している。ついでに仕込まれた常陸丸も、侍従の役目ができる護衛になったのだから。
何度も頭を下げて下がっていく店主を横目に、注文を受ける係の店員を呼び止めた常陸丸が先ほど言っていた内容の品を注文した。
その間も、神妙な顔で背筋を伸ばしている成人に思わず吹き出しそうになる。
その店員が去ると、へにゃ、と成人の緊張が解けるのが見えて、思わずくくくっと笑ってしまった。
俺たちの雰囲気に合わせて頑張っていたらしい。
「殿下、私たちが頑張っているんですから、殿下ももう少し堪えて」
ひそひそと言う乙羽にも、更に笑いが込み上げる。
ああ、今日も楽しい。
「ああ、そうだよ。でも、力丸と村次が食べに来て、茶碗蒸しがあるって教えてくれたから、入ってみることにした」
「じゃ、私、茶碗蒸し」
「俺も」
お品書きを見る気のあまりない乙羽と、漢字が多いと読めない成人は、それだけを注文すると、きょろきょろと店内を見回した。並んでから入ったので満席で、店員が忙しく料理を運んだり、空いた席を片付けたりしている。なかなかの値段がするが、よく繁盛しているようだ。
さて、こちらは四人分の食事を注文しなければならない。常陸丸も、今はお品書きに集中している。
「海老フライってのありますよ、殿下。これならかじれるんじゃないですか」
「海老は二人とも好物だし、いいな。フライってのは、コロッケと同じ衣がついてるんだったな」
「確かそうです。それと、豚カツの肉二種類とのセットにして、茶碗蒸し追加で……」
「あ、あ、あ、あの……」
急な上ずった声に、ふと顔を上げると、料理用の白衣を着た男が直立不動で立っている。俺が顔を上げると同時に、弾かれたように包拳礼の姿勢となった。
「この度は、ご来店頂きまして、まことにありがとうございます!当店の店主でございます!こ、このことは、生涯の誉れとして、その」
「殿下は、礼をお受けになりました。もう結構よ」
緊張のあまりか、大きな声で喚き始めた店主の話の隙を突いて、乙羽が柔らかく口を挟む。
「は、は。あの」
「わたくしたちは、あの行列に並んで入ってきたの」
「は、はい。お待たせしてしまい、誠に申し訳」
「違うわ。そうじゃない。一般客として入店した、と言っているのよ。とても繁盛しているようで、素晴らしいわ。これ以上、店員や店内の方々の手を止めることを、殿下もわたくしも望みません。挨拶は、もう受けました。何があっても、決して問題には致しませんので、一般の方々と同じに扱って頂きたいの。ここまで、並んでいる間も、周りの方々は見てみぬふりをしてくださって、とても助かりましたわ。ご店主もそうしてくださることを望みます」
背筋をすっと伸ばして、淡く微笑む顔の美しさに、店主も周りの客も息を呑むのが見えた。
流石、緋見呼叔母上仕込みの淑女の仮面。頼りになることだ。
新聞や大衆紙に、皇族のお忍びの姿を載せることは禁じられているとはいえ、人の口に戸は立てられない。下手に俺が口を開いて、お言葉を貰っただの、目をかけて貰っただのとおかしな解釈を広められては困る。とはいえ、だんまりで立ち去ることもできず、大抵一緒にいる乙羽が代わりに返事をすることになる。
二条家でろくな教育を受けなかったが、泉門院家に保護された後は、叔母上が度々様子を見に来ては、上流階級の立ち居振る舞いを仕込んでいた。たぶん、乙羽を俺の嫁にと考えていたんだろう。血筋は上等、目を引く美貌に、子が為せないだろうことも、皇帝の三男には丁度いい。更に実家との関係が良好ではないとなれば、実家がでしゃばってくる心配もない。条件は最高だ。
あの人は、そういったことに敏いから、すぐに目を付けたのだろう。父上より余程、皇帝の器だな。
乙羽が常陸丸しか見ていないことに気付いて、俺達には何も言わずに済ませてくれた所まで含めて、感謝している。ついでに仕込まれた常陸丸も、侍従の役目ができる護衛になったのだから。
何度も頭を下げて下がっていく店主を横目に、注文を受ける係の店員を呼び止めた常陸丸が先ほど言っていた内容の品を注文した。
その間も、神妙な顔で背筋を伸ばしている成人に思わず吹き出しそうになる。
その店員が去ると、へにゃ、と成人の緊張が解けるのが見えて、思わずくくくっと笑ってしまった。
俺たちの雰囲気に合わせて頑張っていたらしい。
「殿下、私たちが頑張っているんですから、殿下ももう少し堪えて」
ひそひそと言う乙羽にも、更に笑いが込み上げる。
ああ、今日も楽しい。
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