【完結】人形と皇子

かずえ

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第五章 それは日々の話

49 一日の始まりに  三郎

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 かなり強く揺すって、さいさんはようやく目を開けてくれる。

「ああ。む。三郎さぶろう君?ああ、仕事ですね。今日の仕事をね……」 

 そこまで言って、ふと眉をしかめた。震える右手を上げて額に指を当て、目を閉じる。
 え?また、寝てしもた?まさかな。睦峯むつみね先生を呼んだ方がええやろか。
 もう一度体を揺すろうか悩んでいると扉を叩く音がして、反射的に、はい、と答えた。さいさんは、その声に驚いたように目を開く。

「ああ。ええと、そう仕事です」
「先に朝食よ」

 部屋に入ってきたのは、乙羽おとわさまで、押してきたワゴンの上に食べ物が並んでいる。

乙羽おとわさま」
「悪い癖よ、さいさん。こんな雨降りの日にまずすべきことは、ご飯を食べて寝ること、でしょ?」
「ご飯……」

 少し考えたさいさんが、すみません、と頭を下げる。素早い訳では無いけれど、しっかりと仕事をする姿しか見ていなかったので、まるで別人のような姿に驚いた。
 乙羽おとわさまが机の上を手早く片付けて、おにぎりと味噌汁を並べている。水の入ったコップをさいさんの左手に持たせて、ゆっくりと飲むのを見守った。その間に、机の上から回収した書類を私に渡す。深窓のお嬢様といった見かけの、小さくて可憐な乙羽おとわさまやけど、どうやら屋敷内の仕事を管理していらっしゃる責任者らしい。皆のことを気にかけて、気取ることもないけど、かなり身分の高いご出身ではないやろか。
 さいさんと乙羽おとわさまの様子も気になりつつ書類に目を落とすと、震える読みにくい文字で、これを清書とか、この書式で記入とか書いて貼られた付箋が目に留まる。
 いつもは丁寧な文字を書く人なのに、と不思議に思ってさいさんを見ると、左手のコップを置いて、また左手で味噌汁の椀を持ち上げて飲み始めていた。右手は机の上で時々、小刻みに震えている。
 右手が、上手く使えへんのか。
 じっと見ていることに気付かれてしまい、顔を上げたさいさんが、私を見ながら困ったように笑った。

「今日は上手く字が書けなくて。君がいてくれて助かるよ」

 助かる?私がいて、助かる?
 ゆっくりと、今度はおにぎりを左手で持ち上げてかじり始めるさいさんを見る。書類は、決まった箇所に決まった文字を入れていくだけやから、簡単なことやのに。

「うん。食べられそうね。三郎さぶろう、後はお願いしてもいい?」

 ポットから温かいお茶を二つ、湯呑みに入れて置いた乙羽おとわさまが、にこりと美しい笑顔を見せた。
 後はお願い、と言われても別に、何を手伝うことがあるわけでもない。さいさんは、のんびりだけれど自分でご飯を食べているし、仕事の指示もくれる。私は、こくこくと頷いた。

「助かるわ。じゃ、後でまた食べ終えた食器を取りに来るから、ワゴンは置いておいてね」

 
 ……乙羽おとわさまも?乙羽おとわさまも、私がおったら助かる?
 歩いて部屋を出ていく小さな背中を見送って、私用にと置かれた机に座った。
 今日も、一日は始まる。誰かの体調にも、気分にも機嫌にも、もちろん、私の深い罪の記憶にも関係なく、一日は始まる。
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