余四郎さまの言うことにゃ

かずえ

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五十四

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 そうして、顔を上げて胸を張って家までの道を歩いた伊之助は、見慣れた屋敷の戸を前にして、かくっと腰を抜かした。

「い、伊之助さま⁈」

 素早い藤兵衛の伸ばした手が間に合わぬほど、唐突に体の力が抜けてしまったのだ。
 
「ああ……」

 伊之助は、地べたに座り込んで、大きく息を吐く。

「帰ってきた……良かった……」

 目に涙がじわっと滲んで、慌ててごしごしと拭った。

「伊之助さま」

 隣にしゃがみ込んだ藤兵衛が、にこりと笑って頭を撫でてくれた。

「よく頑張られました。立派でした」

 そうかな。自分はちゃんとできただろうか。余四郎の許婚として。ちゃんとできているように見えていたら、いいのだけれども。

「あれは·····んんっ、いや、あの方は、その、ご家族の?」

 ああ。そうだ。
 この屋敷へ来たばかりの藤兵衛には、訳の分からぬ事ばかりだったろう。いきなり、大変な思いをさせてしまった。

「すみません。兄·····です。こう言うと兄はひどく嫌がるのですが、他に紹介のしようもなく·····」
「なるほど。兄は兄としか言いようがございませんな」
「はい。迷惑をかけました。いきなり、あんな·····」

 伊之助は、兄や兄のお付き、藤兵衛が刀に手を掛けていた場面を思い出して胸を押さえた。恐ろしかった。木刀とは違う、確実に人の命を奪うものを、あんな風に軽々けいけいと扱う人たち。それが武士なのだと、初めて知った気がする。たったあれだけのやり取りを見て腰を抜かしている自分は、やはり本当は武家の子ではないのではないか。兄の言う通り、卑しい血筋の·····。

「いえ。伊之助さまが謝ることは何もありません。あんな事があるのなら、お傍にいられて良かった。若様方の先見の明に感服致しました」

 藤兵衛は、先ほどまでの鋭い目付きと何とも言えぬ圧力がまるで嘘のように、優しいたれ目で笑顔を作る。
 伊之助は、ほうと息を吐いた。

「はい。本当に、皆様すごいです。私には、父や兄がそんな行動を取るとの先見の明もなく·····荒事もからっきしで。四郎さまや時行さま、小太郎さまと同じように稽古しても、ちっとも強くなれないんです。振り上げられた剣が恐ろしくてすくんでしまう。母が卑しい血筋だから、きっと·····」
「良いことです」
「え?」
「振り上げられた剣にすくまない者はおかしい。私だって恐ろしいですよ」
「ええ?」

 藤兵衛が? 兄が抜こうとした刀を、素手で押さえてしまう藤兵衛が?

「あれが、恐ろしいものだと知って、それを心にとめて動ける者こそ真の強者です。恐ろしくなどない、と安易に振り回すような者は、ただの愚か者だ。あなたは強い」

 あなたは強い。
 その言葉に驚く伊之助に、藤兵衛は淡々と続ける。

「本当は腰を抜かすほど恐ろしかったのに、逃げずに頑張った。あなたは偉い」
「はい·····」

 余四郎の許婚として、恥ずかしくない人でありたかった。伊之助を軽んじることは、余四郎を軽んじることだ。逃げる訳にはいかない。
 藤兵衛の言葉は、それが、ちゃんとできていたと褒めてくれているように聞こえて、伊之助は嬉しかった。ほっとした。
 ほっとしたら、ますます力が抜けて立ち上がれなくなった伊之助を、藤兵衛がおぶって屋敷に入ろうとした所に余四郎がやってきて、ちょっとした騒ぎになったことはご愛嬌である。

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