52 / 55
五十二
しおりを挟む
兄は、言うだけ言うと踵を返した。ついてこいと言って、伊之助が自分について来ないなどと、考えたこともないに違いない。伊之助も、考えたことは無かった。
家を出るまでは。
いや、つい最近まで、考えていなかった。兄が藩校を卒業し、全く顔を合わせることもなくなったので気にしていなかったが、先日の正平や嗣治の言葉がなければまだ、ついてこいと言われればそのままついて行ったことだろう。ついて行かなくていいのだと、伊之助は考えたこともなかったのだ。
けれど、戻れ、と書いてある文を見て、行かなければいい、と正平や嗣治は言った。はっきりきっぱりと。そんな選択肢があることを、伊之助はその時に知ったのだ。
行かなくていい。
伊之助が行きたくないなら、行かなくていいのである。
だから、伊之助は動かなかった。行きたくないから。
「早くしろ」
そんな伊之助に、兄のお付きの一人が横合いから手を伸ばそうとする。藤兵衛とにらみ合っていた者とは別の、辺りを威嚇していた者だった。二人とも、藤兵衛よりかなり体格が良い。だが、藤兵衛が怯むことはなかった。
「無礼者!」
藤兵衛は言うなり、素早く、その者の手を掴んで捻り上げた。そのまま、咄嗟に刀を抜こうとしたもう一人の前に突き出す。
「む」
と、動きを止めた相手へ向かって、どん、と捻り上げた者を突き飛ばした。
「わあ」
と、二人がぶつかって態勢を崩した隙に、伊之助を抱えて後ろへと下がる。見事な早業であった。
「何をしている!」
騒ぎに気付いて振り返ったらしい兄がものすごい形相で戻ってくるが、藤兵衛に阻まれ、伊之助の側近くには寄れなかった。伊之助は、震えそうになる足を叱咤して背筋を伸ばす。
「私の元服は、良庵先生がしてくださいます。戻る必要はありません」
兄に向かって声を上げると、兄が目を見開いた。はい、以外の言葉を伊之助が兄に向かって話したのは初めてだったから、驚いたのだろう。やがて、かっと顔を赤くした兄が応えた。
「馬鹿を言うな! 他家で元服をするなど聞いたこともない!」
「他家でするのではありません」
そうだ。他家でするつもりなど、毛頭ない。ただいま、おかえりと言いあえる場所が家なのなら、伊之助にとっては、良庵の屋敷こそが家だ。きちんと家で元服をするつもりだ。家族に見守られて。
「はっ。頭がおかしくなったか」
「いえ。私には、今、暮らしている場所が私の家だというだけです」
「は……?」
伊之助は、胸を張り声を張る。
「四郎さまは仰いました。私はいずれ、玉乃川伊之助になるのだと。今、名乗っている家名など仮初めのものです」
家を出るまでは。
いや、つい最近まで、考えていなかった。兄が藩校を卒業し、全く顔を合わせることもなくなったので気にしていなかったが、先日の正平や嗣治の言葉がなければまだ、ついてこいと言われればそのままついて行ったことだろう。ついて行かなくていいのだと、伊之助は考えたこともなかったのだ。
けれど、戻れ、と書いてある文を見て、行かなければいい、と正平や嗣治は言った。はっきりきっぱりと。そんな選択肢があることを、伊之助はその時に知ったのだ。
行かなくていい。
伊之助が行きたくないなら、行かなくていいのである。
だから、伊之助は動かなかった。行きたくないから。
「早くしろ」
そんな伊之助に、兄のお付きの一人が横合いから手を伸ばそうとする。藤兵衛とにらみ合っていた者とは別の、辺りを威嚇していた者だった。二人とも、藤兵衛よりかなり体格が良い。だが、藤兵衛が怯むことはなかった。
「無礼者!」
藤兵衛は言うなり、素早く、その者の手を掴んで捻り上げた。そのまま、咄嗟に刀を抜こうとしたもう一人の前に突き出す。
「む」
と、動きを止めた相手へ向かって、どん、と捻り上げた者を突き飛ばした。
「わあ」
と、二人がぶつかって態勢を崩した隙に、伊之助を抱えて後ろへと下がる。見事な早業であった。
「何をしている!」
騒ぎに気付いて振り返ったらしい兄がものすごい形相で戻ってくるが、藤兵衛に阻まれ、伊之助の側近くには寄れなかった。伊之助は、震えそうになる足を叱咤して背筋を伸ばす。
「私の元服は、良庵先生がしてくださいます。戻る必要はありません」
兄に向かって声を上げると、兄が目を見開いた。はい、以外の言葉を伊之助が兄に向かって話したのは初めてだったから、驚いたのだろう。やがて、かっと顔を赤くした兄が応えた。
「馬鹿を言うな! 他家で元服をするなど聞いたこともない!」
「他家でするのではありません」
そうだ。他家でするつもりなど、毛頭ない。ただいま、おかえりと言いあえる場所が家なのなら、伊之助にとっては、良庵の屋敷こそが家だ。きちんと家で元服をするつもりだ。家族に見守られて。
「はっ。頭がおかしくなったか」
「いえ。私には、今、暮らしている場所が私の家だというだけです」
「は……?」
伊之助は、胸を張り声を張る。
「四郎さまは仰いました。私はいずれ、玉乃川伊之助になるのだと。今、名乗っている家名など仮初めのものです」
546
お気に入りに追加
373
あなたにおすすめの小説
幽閉王子は最強皇子に包まれる
皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。
表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。
転生貧乏貴族は王子様のお気に入り!実はフリだったってわかったのでもう放してください!
音無野ウサギ
BL
ある日僕は前世を思い出した。下級貴族とはいえ王子様のお気に入りとして毎日楽しく過ごしてたのに。前世の記憶が僕のことを駄目だしする。わがまま駄目貴族だなんて気づきたくなかった。王子様が優しくしてくれてたのも実は裏があったなんて気づきたくなかった。品行方正になるぞって思ったのに!
え?王子様なんでそんなに優しくしてくるんですか?ちょっとパーソナルスペース!!
調子に乗ってた貧乏貴族の主人公が慎ましくても確実な幸せを手に入れようとジタバタするお話です。
悪役令息の死ぬ前に
やぬい
BL
「あんたら全員最高の馬鹿だ」
ある日、高貴な血筋に生まれた公爵令息であるラインハルト・ニーチェ・デ・サヴォイアが突如として婚約者によって破棄されるという衝撃的な出来事が起こった。
彼が愛し、心から信じていた相手の裏切りに、しかもその新たな相手が自分の義弟だということに彼の心は深く傷ついた。
さらに冤罪をかけられたラインハルトは公爵家の自室に幽閉され、数日後、シーツで作った縄で首を吊っているのを発見された。
青年たちは、ラインハルトの遺体を抱きしめる男からその話を聞いた。その青年たちこそ、マークの元婚約者と義弟とその友人である。
「真実も分からないクセに分かった風になっているガキがいたからラインは死んだんだ」
男によって過去に戻された青年たちは「真実」を見つけられるのか。
【完結】薄幸文官志望は嘘をつく
七咲陸
BL
サシャ=ジルヴァールは伯爵家の長男として産まれるが、紫の瞳のせいで両親に疎まれ、弟からも蔑まれる日々を送っていた。
忌々しい紫眼と言う両親に幼い頃からサシャに魔道具の眼鏡を強要する。認識阻害がかかったメガネをかけている間は、サシャの顔や瞳、髪色までまるで別人だった。
学園に入学しても、サシャはあらぬ噂をされてどこにも居場所がない毎日。そんな中でもサシャのことを好きだと言ってくれたクラークと言う茶色の瞳を持つ騎士学生に惹かれ、お付き合いをする事に。
しかし、クラークにキスをせがまれ恥ずかしくて逃げ出したサシャは、アーヴィン=イブリックという翠眼を持つ騎士学生にぶつかってしまい、メガネが外れてしまったーーー…
認識阻害魔道具メガネのせいで2人の騎士の間で別人を演じることになった文官学生の恋の話。
全17話
2/28 番外編を更新しました
心からの愛してる
マツユキ
BL
転入生が来た事により一人になってしまった結良。仕事に追われる日々が続く中、ついに体力の限界で倒れてしまう。過労がたたり数日入院している間にリコールされてしまい、あろうことか仕事をしていなかったのは結良だと噂で学園中に広まってしまっていた。
全寮制男子校
嫌われから固定で溺愛目指して頑張ります
※話の内容は全てフィクションになります。現実世界ではありえない設定等ありますのでご了承ください
【BL】こんな恋、したくなかった
のらねことすていぬ
BL
【貴族×貴族。明るい人気者×暗め引っ込み思案。】
人付き合いの苦手なルース(受け)は、貴族学校に居た頃からずっと人気者のギルバート(攻め)に恋をしていた。だけど彼はきらきらと輝く人気者で、この恋心はそっと己の中で葬り去るつもりだった。
ある日、彼が成り上がりの令嬢に恋をしていると聞く。苦しい気持ちを抑えつつ、二人の恋を応援しようとするルースだが……。
※ご都合主義、ハッピーエンド
悪役令息に転生して絶望していたら王国至宝のエルフ様にヨシヨシしてもらえるので、頑張って生きたいと思います!
梻メギ
BL
「あ…もう、駄目だ」プツリと糸が切れるように限界を迎え死に至ったブラック企業に勤める主人公は、目覚めると悪役令息になっていた。どのルートを辿っても断罪確定な悪役令息に生まれ変わったことに絶望した主人公は、頑張る意欲そして生きる気力を失い床に伏してしまう。そんな、人生の何もかもに絶望した主人公の元へ王国お抱えのエルフ様がやってきて───!?
【王国至宝のエルフ様×元社畜のお疲れ悪役令息】
▼この作品と出会ってくださり、ありがとうございます!初投稿になります、どうか温かい目で見守っていただけますと幸いです。
▼こちらの作品はムーンライトノベルズ様にも投稿しております。
▼毎日18時投稿予定
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる